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日蓮大聖人・池田大作

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4 民主主義と独裁制  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 世界独裁制の可能性について、博士は、社会の混乱と無政府状態を恐れる大衆が、より小さな悪としての独裁制を黙認する傾向があると指摘しておられます。たしかに、大衆には、そうした、より安全な道へ逃避しようとする傾向があり、独裁者はここにつけこむわけです。
 こうしたいわゆる大衆化現象については、スペインのオルテガ・イ・ガセットの古典的著作以来、エ―リッヒ・フロムの、自由から逃げ出して独裁制に走る大衆の傾向についての分析、デイビッド・リースマンの「孤独な群衆」像のデッサン等々、幾多の優れた研究がなされています。そして、それらのなかで分析し解明されていることは、とくにナチズムにおける独裁者と大衆の関係に典型的に示されています。しかし、これらの著作をみても、独裁者の出現をいかにして防ぐか、大衆の陥りやすい過ちをいかに防ぐか、また真実の理想的な社会をいかにして築くかとなると、明確な解答はまだ与えられていないようです。
 しかも残念なことには、現代の風潮は大衆をますます愚かにし、主権者としての自覚を失わせ、無責任と享楽主義に走らせているかのようです。大衆は、権利と自由を謳歌しているようにみえて、実際には民主主義に対する不信をつのらせています。こうした状況から、人類にはたしかに、一歩誤れば強力な独裁制、全体主義に落ち込む危険性があるといわざるをえないでしょう。
 トインビー 人間は、はっきりした、性格の異なる二つの理由から独裁制に黙従し、あるいは歓迎したり要求したりさえするものです。その理由の一つは心理的・恒常的なものであり、もう一つは環境的・偶発的なものです。
 独裁制容認の心理的・恒常的理由とは、独裁制が、決定的な選択をしなければならないことの苦痛から、すべての個人を――もちろん独裁者自身を除いて――解放してくれるということです。環境的・偶発的な理由とは、何らかの物理的ないし社会的な非常事態が発生することです。
 危機というものは、その危機にさらされた人々が一個人の指揮下に身をおいてしまったほうが、共通の危機にばらばらに対処しようとするよりも、むしろ克服しやすいものです。飛行機や船、あるいはラクダのキャラバンなどの旅にしても、その旅行者たちが旅の続く間、指揮者の統率権に従わなかったとしたら、このうえなく危険なものとなってしまうでしょう。これと同じように、社会的な非常事態にさいしては、人々は無政府状態の継続よりも、独裁権に身を委ねてしまうことのほうが、より小さな悪だと考えるのです。
 非常事態を生き抜きたいというこの願望も、しかし、選択を迫られる苦しい責務から逃れたいという願望に比べるならば、独裁制現出の要因としてはまださほどゆゆしい要因ではありません。″独裁者″とは、元来、最初の共和制ローマの憲法に使われた術語テクニカルタームです。そこでは、非常事態が発生すると、合憲的に選出された官職者たちが、権力の行使を自主的に差し控え、さらに彼らは率先して独裁的権限をもつ″独裁者″を任命し、非常事態が続く間、自分たちの代行をさせたのでした。このシステムは、紀元前一三二年まで、つまり手に負えない経済的・社会的病弊によってローマの非常事態が慢性化するまで、首尾よく運営されました。その後、一世紀を経て、独裁制はローマの恒久的な制度となりました。この恒久化の理由は、市民集団が恒常的に無気力になってしまったことにあります。彼らは、災禍を招くことなしに諸事を運営していける確信を、永久に失ってしまったのです。
 今日の世界は、耐えがたいほど無秩序です。現在、人類の生存は世界的な機能の規模をもつ技術に依存していますが、これさえも、非協調的な百四十の主権国家による地球の分割が依然続いているため、マヒしています。このことから、現代世界も、かつて戦国時代の混乱状態に嫌気がさし、疲れ果てていた中国の民衆を、秦の始皇帝が統一したような独裁的なやり方で、遅かれ早かれ政治的な統一をみることになりそうだと思われるのです。
 池田 人間はたしかに、それによってより良い状態が約束されるならば、どんな政治体制でも容認しがちなものです。私は、君主制にせよ独裁制にせよ、あるいは知的エリートによる政治体制にせよ、制度自体はすべて権力に関係する者の姿勢いかんで、善にもなれば悪にもなると思います。しかし、それでも民主主義は、やはり悪に陥るのを防ぐためには最も効果的であり、そのゆえに、今日最も一般化した政体であると思うのです。もちろん民主主義は、長所とともに短所をもっています。だからといって、その好ましくない一面だけを取り上げて、かつての君主制の復活を願ったり、新たな独裁制を渇望するようなことがあれば、それはきわめて危険なことだと考えます。
 もし大衆が本来そうした独裁者の出現を招きやすい性質をもっているとするならば、大事なことは、いかにしてその危険を防ぐかということです。私は、それは大衆の教育、倫理レベルの向上以外にないと思います。具体的には、民衆の無気力化を防ぐこと、なるべく多くの人々が権力をコントロールすること、そして権力の暴走を抑える手綱を握ることでしょう。
 これはさきほど博士が独裁制出現の環境的・偶発的理由の例としてあげられたことにも関連しますが、たとえばある社会集団が他の集団や勢力と激しい抗争関係にあるときは、権力の発動は個人ないしは少数グループに集中されているほうが望ましいでしょう。それは、迅速な判断と対応の仕方が要求されるからです。迅速性を失えば、この集団は敵に機先を制せられ、その結果敗北して、成員全体を破滅に導くことになってしまいます。したがって、この場合の集団は、当然、指揮者の決断に基づいて、命令一下、否応なしに行動することになります。
 それに対して、平和な安定した社会では、すなわち成員の生命が勝敗にかかっているわけでない状況にあっては、即断性よりも内容の適否がより重要です。いわんや一つの国家ともなると、多様な欲求をもつ多数の個人や、さまざまな目的や理想を掲げる数多くの集団を抱えています。それらが互いに競合し、主張し合うのを、いかに調整し、平等に欲求を満足させるかは、権力に課せられた重大な仕事です。この場合、権力の発動は外にある敵に対してでなく、内にある個人や集団に対してなされるわけです。したがって、平等に全員の意思を反映した権力の行使が、理想的になるでしょう。
 このように考えてきますと、民主主義には固有の欠陥があり、陥りやすい落とし穴があるとはいえ、やはり今日の世界では、大局的には、民主主義が最も望ましい政治体制であるとの結論に達せざるをえません。
 トインビー たしかに、たとえ永久的な独裁制でも、救いようのない無政府状態に比べればまだ小さな悪であるとはいってみても、やはり独裁制が一つの災禍であることには変わりありません。
 それに代わる道としては、市民集団のうち、できるだけ多くの人々が、できるだけ積極的に公務の運営にたずさわれるような、効力ある立憲政体をとることです。これは、今日の世界ではきわめて重要なことです。しかし、市民としては、自分たちの参加が実際に効果を生むことが信じられないかぎり、積極的な参加への努力を払わないでしょう。
 池田 そうした危険性をとらえて、民主主義に反対論を唱える人々がいるわけです。その主張するところは、大衆はすべて愚かであり、思考力や判断力をもたず、したがって指導者を選ぶ資格がないというのです。こうした理論を唱える人々の多くは、貴族主義者であり知的エリートであるようです。
 たしかに、民主主義のもつ大きな欠陥の一つは、大衆に迎合して人気をとることの上手な人物が、それだけで権力の座にのし上がる危険性があることです。その反対に、賢明な指導者であっても、宣伝が下手であれば無視されやすいでしょう。これが極端な形をとると、民主主義を破壊して独裁権力を狙うような人間を民主的な方法で選んでしまって、すべてをこの人物に委ねてしまうことになります。大衆のすべてが参加する民主主義に対して反対議論が出てくるのは、こうした危険性に根拠があり、民主主義がそうした危険性をもっていることは私も否定しません。
 しかし、だからといって大衆を″愚かなもの″ときめつけ、政治参加の場から遠ざけようとするのは、基本的に間違っているのではないでしょうか。私は、大衆が愚かさに陥るのを防ぐため最大の努力をするのが知的エリートの責任だと考えます。人間は誰しも愚かさをもっているものです。しかし、その愚かさは教育による知的・倫理的水準の向上によって、十分に取り除かれると信じるのです。それと同時に、私は、権力をなるべく分散して、極力これを民衆の手に引きおろすことが大衆の知性を刺激し、さらには彼らに自信をもたせることになる――その意味でもこれは大事なことであると考えます。
 トインビー 民主主義を批判するのが、一般に貴族主義への同調者とか知的エリートとかいった人々であるとのご意見ですが、私は民主主義に対する信頼感の欠如は、実際にはより広範な層にわたってみられるのではないかと思います。本来、民主主義とは市民の完全な信頼感に支えられることを要求する制度ですが、にもかかわらず、この不可欠な信頼感を脅かしているものが、大別して二つあります。そうした警虞の一つは慨胤昨がものであり、もう一つは今日の世界に特有なものです。
 まず、恒常的な脅威とは、公僕としてふさわしい人物を選び出すことのむずかしさです。立憲政治は、いわゆる政治屋を生み出します。政治屋とは、つまり政治を一生の職業とし、選挙民を説得して権力を握り、政権の座にとどまるという技術にかけて、専門的になってしまう人種のことです。政治屋は、こうした専門的技術の修練によって、選挙には勝てるようになります。しかし、選挙民の尊敬を勝ち取ることはできません。選挙民は、政治屋を選出しながら、じつは軽蔑しているわけです。そして、こうした政治屋への不信は、さらに大きな不信へとつながります。それは、政治屋が――選挙民の過ちからですが――ふさわしくない地位へと選出されてしまうような、立憲政体そのものに対する不信なのです。最近、政治家の主張と実践の差にみられる信頼感の断絶が広がっています。大衆はすでに政治家の不誠実と不適格とを知り尽くしていますが、さりとて、より尊敬できる統治者をいかにして選ぶかについては、まだ知らずにいます。政治家に対する現在の広範な幻滅感は、その幻滅を改革へと転化できないことと相まって、民主主義を危難に陥らせているわけです。
 次に、民主主義に対する現代世界特有の脅威とは、量と大きさの驚異的な増大です。これは二つの要因からもたらされるものです。すなわち、一つは人口爆発であり、もう一つは、技術の機能規模の拡大と、それによる生産量の増大です。
 人間はいま、自分を取り囲む環境によって、自らの矮小化を感じています。社会的環境からも、技術の赫々たる成功が自然環境のうえに押しつけた人為的・物質的環境からも、そのことを感じさせられています。現代人の社会的環境は、絶望的なほど非人間的になっていますし、その物質的環境は、人間を押しつぶすほど巨大化しています。こうした生活体験というものは、人間の能力から、社会の責任ある有効な参加者となりうる確信を、奪い去ってしまいます。そして、そこからくる懐疑は、人間の自尊心を低め、同時に、人間の倫理的水準を低下させてしまいます。
 したがって、各個人を社会的に有効な存在として存続させることこそ、今日、最も重要なことなのです。これを可能ならしめるには、各個人に、現代の諸制度のもとでも社会的に力を発揮できるチャンスが与えられていることを、確信させなければなりません。そしてこの確信を与えるには、現代の諸制度を、正真正銘、誰もが参加できるものにしなければなりません。この誰もが参加できる制度をつくり出すということは、さきに述べたような不利な状況から、困難なこととはなるでしょうが、われわれはそれに対して絶望や、それにともなう諦めとか、消極性に屈してしまうことがあってはなりません。
 たとえ現代世界の非常事態のゆえに、人類の自業自得の絶滅に代わる唯一の道として、一時的な世界独裁制が招来されることがあろうとも、われわれはなお共和制時代のローマ人から教訓を汲みとることができるはずです。彼らは、独裁制を必要とした非常事態が終わると、一時的な独裁制をただちに元の立憲政治笙戻すことに、何度も成功しているのです。われわれの姿勢は、旅行中は指揮者の指図に身を託しながらも、危険な旅が終われば、当然のこととして、ただちに個人的行動の自由を回復する旅行者たちのそれと同じでなければなりません。
 池田 人間はこれまで、一つの体制の悪に対してもう一つの体制を挑戦させることによって、その悪は解消できると考えてきました。ところが、かつての体制の悪を滅ぼした、善であるはずの体制に身を委ねたその瞬間から、新しい悪に苦しめられる結果となってきました。これは、日本の明治維新にしても、ロシア革命にしても、フランス革命にしても、同じことがいえるでしょう。もちろん、どんな体制でも同じだとは私も考えませんが、最も大事なことは、最大多数の人間がどこまでも主導権をもって、体制を従えさせようとする立場を見失わないことではないでしょうか。
 いかなる体制といえども、本来、それがいかに人間の幸福のために貢献できるかということが、最大の基準であったはずです。したがって、いかなる体制をとるにせよ、そこで最も基本的な主導権を握るのは、最大多数の人間でなければなりません。もしこのことを忘れて、最大多数の人間が主導権を放棄してしまったら、いかに理想的な体制も、人間を圧迫する悪の体制となってしまうでしょう。

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