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日蓮大聖人・池田大作

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6 戦争の本質と今後  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 人類の歴史は戦争の歴史であったとさえいわれるほど、戦争が繰り返されてきました。生物学者によれば、同じ種同士でこれほど残虐な殺し合いをするのは、人間だけであるということです。いったい、戦争は人間にとって宿命的なものなのか、それを避けるにはどういう条件が必要か、とくに第二次世界大戦を回避して恒久的な平和を築くにはいかにすべきか――という観点から、博士のお考えを伺いたいと思います。
 トインビー 人間の感情、思考、価値判断、行動などに関してわれわれが現在もっている知識というものは、時間的に遡ってみても、人類史のうち、ごく最近の期間にしか及んでいません。すなわち、当時の記録文献が現存している期間を越えてはいないのです。この期間とは、たかだか最近の五千年間のことにすぎません。ところが、われわれの祖先が人類として存立し始めたのは、すでに百万年も前のことかもしれないのです。この時代区分は、遺骨や道具などの証拠からみて、われわれの祖先が進化して自意識をもつに至った――つまり十分人類として存立し始めた――と推定される段階から割り出したものです。
 たとえ、すでに絶滅した類人動物の種をすべて完全な人類として数え上げず、また、たとえヒューマン(人間)という用語を唯一の現存種、すなわちホモ・サピエンスだけに限定した場合でも、人類はなお、すでに最低二十万年から三十万年間は生存してきているはずです。この期間でさえ、最近の五千年間に比べればはるかに長期間です。
 この五千年間というもの、戦争が人類の主要な慣わしの一つとなってきたことは、まぎれもない事実です。われわれは、人類の余剰生産物のほとんど大部分を戦争に費やしてきました。すなわち、人類が最低限ただ生存するために費やされる――すなわち自らを生きながらえさせ、種の絶滅を防ぐために費やされる――生産量を少しでも上回る生産物は、ほとんどが戦争のために使われてきたのです。しかしまた、余剰生産物なくして戦争が不可能であることも確かです。なぜなら、戦争は労働時間、食糧、資材などを不経済に使うことを要求し、さらに、これらの資材を武器その他の軍事装備につくりあげる産業を、無駄に利用することをも、要求するものだからです。
 われわれの知り及ぶかぎり、チグリス・ユーフラテス両河やナイル河の下流地域で排水、濯漑が始められるまでは、どんな人間社会も、戦争を起こすに必要な余剰生産物というものをもっていませんでした。しかも、これらの地域で排水、濯漑の完成をみたのは、紀元前三千年ごろからさほど遠い昔ではありません。シュメールやエジプトの造形美術にみられる、現存する最古の戦争描写や、最古の戦争記録文献などもこれとほぼ同時代のものです。このことから結論づけられることは、戦争は文明そのものより古くからあったものではなく、戦争と文明は同時に発生したのであり、ゆえに戦争は文明のもつ先天的病弊の一つであるということです。
 戦争は、暴力性や残酷性と同一のものではありません。それは、人間の暴力性・残酷性が特殊な形をとってあらわれたものです。私の信ずるところでは、これらの悪い衝動というものは、人間本性に生来そなわるものであり、生命自体に本質的に内在するものです。あらゆる生物体は、それぞれ暴力性・残酷性を潜在的に秘めています。
 戦争とは、この暴虐性が組織的、制度的に発揮されたものです。戦争にあっては、人間同士が公的機関――国家政府とか、内戦の場合は臨時政府――の命令下に戦い、殺し合います。兵士は、何の個人的な恨みもない相手と戦います。彼らの多くは、互いにまったく面識がなかった者同士なのです。
 池田 人類は余剰生産物の大部分を戦争に費やしてきた、と博士はいわれましたが、まさにそれ以上であるといえましょう。
 戦争では、多くの家屋や農地が荒らされ、破壊されて、民衆は日々の生活必需品さえも奪われます。日本では、戦闘階級としての武士が、中世以来、社会の上層に位置し、農民や商人を搾取してきました。現代の日本でも、自衛隊を増強し、維持するために、国民の生活は大幅な犠牲を強いられています。必要最小限と思われる福祉制度さえ完備せず、都市に住む勤労者は住むべき家さえもてません。福祉や住宅建設に費やされる予算は、防衛費の巨大さに比べれば、問題にならないほど少額です。
 しかし、これはひとり日本だけの問題ではないでしょう。おそらく、軍備をもっている世界のあらゆる国が、こうしたジレンマに直面していることと思います。
 トインビー まさに各国がそうした状況にあります。しかしここでは、戦争ははたして人間の本性につきまとう宿命の一部なのかという、冒頭に提示された問題に立ち戻りたいと思います。これについては、私は、さきに述べたような歴史上の理由から、そうではないと考えるのです。
 暴力性や残酷性については、たしかに人間性に生来そなわるものだと思います。さきほどのご指摘のように、生物学者の説によれば、地球上のあらゆる生物のうち、人間だけが同種の仲間と死ぬまで戦い抜く生物種として知られています。他種の動物は、オス同士がメスをめぐって戦っても、やがて一方が屈服すれば、勝ったほうは相手の命を奪うことまではしません。ところが、われわれの祖先が人類になって以来というもの、人類はあえて殺人をも辞さない暴力的罪悪を、これまで繰り返し犯してきたものと考えられるのです。ただし、この人間の暴虐性が、常に時と所を選ばず、戦争という形をとってあらわれたかというと、有史五千年間だけをとってみても、必ずしもそうとはいえません。
 たとえば、日本では西暦十二世紀までの五百年間以上――辺境のアイヌ征伐戦を除けば――内戦らしい内戦はなかったようです。しかし、その後の四百年余の間、日本は内戦に悩まされ続けました。ところが、十七世紀初期から十九世紀中ごろにかけては、再び徳川幕府体制のもとで、内外ともに平和が保たれています。そして、一九四五年以降は、戦争を放棄しています。
 ノルウェー国民は、一八一四年から一九四〇年にかけては、一度も戦争をしていません。しかし、ノルウェー人といえば、かつてのバイキング時代には、世界有数の好戦的民族でした。したがって、第二次世界大戦で攻撃され、侵略されるや、彼らは果敢に戦ったわけです。
 こうした、日本とノルウェーの歴史において、戦争がなかった時代にも、やはり個人的な殺人とか、公的な処刑とかは行われていました。このことは、戦争を、それ以外の殺し合いや暴力行為から区別しなければならないことを示しています。
 池田 その通りです。死刑の問題は別として、殺人は個人的な動機からなされるものです。もちろん、ある特殊な集団の掟によって行われる非個人的な例もあるでしょうが、そうした集団に入ること自体、個人的な動機によるものですから、一般的に、殺人は個人的動機による行為といってよいと思います。これは、いかなる国においても、法律によって厳しく禁じられていることであり、そうした行為に対しては、厳格な制裁が加えられます。
 これに対し、戦争を行う主体は、個人的動機による殺人を厳禁しているはずの国家であり、しかも、こうした国家の犯罪行為に対して制裁を加える制度は確立されていません。そのため、勝利を収めたほうが正義であるというような、野蛮きわまる法がいまだに通用しています。これは、まったく大きな矛盾です。誰が考えてもとうてい納得できないこんな不合理を、人類は何千年にもわたって黙認してきたわけです。
 国家と国家の間においては、戦争ないしそれに準ずる事態が、正常であるかのような観を呈してきました。常に軍備をととのえ、隣国に対して、互いに刃を向け合ってきました。私は、平和が、そうした戦争の合間の休止期であっては、断じてならないと思います。
 平和であるとは、互いに何の恐怖も与え合うことなく、心から信頼し合い、愛し合っていける状態のことです。そのような平和な状態こそ人類社会の正常な状態であり、それであって初めて人間らしい人間社会といえるでしょう。そのような社会にすることこそ、人類の政治的指導者の、思想家の、そしてあらゆる知識人たちの、最大の課題であると訴えたいのです。
 トインビー 戦争を廃絶させることは可能なはずです。たとえすべての人間について、戦争以外の暴力的犯行を根治することが不可能であったとした場合でも、これは可能なはずです。五千年にもわたる一つの慣習を捨て去るのはたしかに困難なことですが、にもかかわらず、私は核兵器の発明が、戦争廃絶に成功する蓋然性を、われわれにもたらしていると思うのです。
 戦争という制度の底流には、交戦国のうちいずれか一方が勝ち、他方が負けるはずだ、そして戦勝国が勝利によって得る利益は出費よりも大きいはずだ、という想定がありました。しかし、このもくろみは、しばしば裏目に出ています。戦争は、勝利者側にもしばしば破滅をもたらしたのです。ところが、核戦争となると、ここにはもはや高価につく勝利といったものさえ存在しないことが明らかです。このような見通しは、各国から、戦争を起こす合理的動機を奪い去ってしまいます。
 しかしまた、人間の本性のなかで、理性はそのほんの一部しか占めていません。われわれが、理性に反して集団自殺を犯してしまうことは、十分考えられるのです。戦争という制度は、それに代わる新しい制度、すなわち世界政府という制度によって置き換えられないかぎり、廃絶することはできません。
 戦争は、たとえ核時代にあってもなお、現在の国家百四十力国が単一の世界的機関に従属しないかぎり、その可能性をもち続けることでしょう。この世界的機関は、平和維持のため、最強の主権国家をも服従させる、有効な力を備えるべきなのです。

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