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日蓮大聖人・池田大作

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4 ″平和憲法″と自衛  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 歴史時代に入って以来、およそ国家と名のつくあらゆる国は、自衛のためと称して武力をもってきたと思います。武力は国家の力の代表のようにさえ考えられてきたようです。現代も、それは例外ではありません。というより、むしろ現代に至って、科学技術の発達により、武力はかつて想像もしなかったほど強大になり、それに要する出費は膨大なものになっております。
 とくに、米ソ英仏中のいわゆる核大国が装備している武力は、他国による侵略の防衛という概念をはるかに超えて、もしその力が行使されれば相手国はもちろんのこと、自国を含めた地球上の全人類の生存を脅かす規模と質のものになっております。もはや現代における武力は、既成の、歴史的に馴れ親しんできた防衛力という考え方とは異質のものになってしまっている、と考えなければならないでしょう。つまり、武力をもつ大義名分は、現代においては、すでにその根拠を失ってしまったと私は考えるのです。
 トインビー 世界が約百四十の主権国家に分割されている現在の国際構造下で、最も効果ある国家自衛手段とは、物理的軍備の保有と軍隊の保持とを、すべて放棄することです。ただし、この場合、例外とすべきは、最小限の武器使用をもって各国内の法と秩序の維持にあたる、国家警察軍の存在でしょう。
 他の主権国からの攻撃に備える、防衛のための軍備と軍隊を放棄するには、もちろん、本質的に他国を傷つけるような、また他国政府に正当な苦情の根拠を与えるような、国家的行動、政策を放棄しなければなりません。
 ほとんどの政府が、そしてほとんどの個人が、今日、主権国間での、一国による他国攻撃が罪悪であることを認めています。戦争目的のためにつくられた国家の省庁や国家予算が、今日では一般に″戦争省″とか″戦争予算″とかの名称をもたず、ましてや″侵略省″とか″侵略予算″などと呼ばれず、″国防省″とか″国防予算″などと名づけられていますが、これは意味深長なことです。
 池田 おっしゃる通りであり、国防のためだから、国民の税金を軍備の拡充のために注ぐのは当然だという、政府・権力者の言い分は、まやかしにすぎません。それにもまして悪質なのは、国を防衛するためといって、青年たちに生命の犠牲を求めるペテン行為です。その″まやかし″″ペテン″を最も象徴的にあらわしているのが″国防省″――日本の場合ですと″防衛庁″――であり、″国防予算″″防衛予算″という名称です。なぜなら政治権力の多くは、この″防衛″を口実につくりあげた軍事力によって″侵略″を行い、他国民も自国民も、ともに苦難のどん底へと叩き込んできたのですから――。本当に″防衛″のためだった例は、きわめて稀でしかなかったのではないでしょうか。
 トインビー ところが実際には、防衛のための編成・装備・徴兵と、攻撃を意図した同様の準備とを、予め区別することはできません。それゆえ、うわべは防衛を装った準備が、じつは攻撃を意図したものであるかもしれない、という疑惑を呼ぶわけです。そこで、これを脅威とする国は、それに対抗する準備を始めることになります。こうして、ひとたび軍備競争が始まると、競争国のいずれかがこの競争に勝とうとして奇襲攻撃をしかけ、これを予防戦争と称して侵略行為を正当化しようとしがちになります。
 第一次世界大戦でドイツが敗北した後、デンマークは、シュレスヴイヒ地方のうち、ドイツ系人口が大半を占める地域については、ドイツから再併合することを拒否しました。シュレスヴイヒ全域は、かつて一八六四年の戦争でプロイセンとオーストリアに奪われたものであったにもかかわらず、デンマークはあえてそうしたのです。その後、両次の世界大戦の間に、デンマークは事実上軍備を撤廃しました。第二次大戦において、ドイツは、いわれもなくデンマークを軍事的に占領しました。しかし、第一次大戦後に画されたデンマーク・ドイツ国境線は、そのとき、ヒトラーの軍隊が一時的に占領した領土のうち、ヒトラーがドイツに有利なように修正するのを控えた、数少ない国境線の一つとなったのです。このように、デンマークが自主的にとった軍備撤廃政策は、さきに領土上の不正を拒否したことと相まって、たとえドイツが第二次大戦に勝っていたとしても、その正しさが立証されたことでしょう。
 しかし、最良の自衛策が物理的防衛手段の放棄であるという論理は、まだ世界のほとんどの群小主権国家の受け入れるところとはなっていません。たとえば、中立の方針に身をゆだねた二つの主権国家、スイスとスウェーデンですら、侵略の抑止力として強力な軍備を保持しています。スイスは、その軍備のおかげで、たしかに両次大戦を通じて中立を守っています。スウェーデンもまた、両大戦において参戦を回避することに成功しました。しかし、後者の場合、第二次大戦においては、それはたまたまドイツがスウェーデン侵攻に何の戦略的価値も認めなかつたからのことにすぎません。しかも、スウェーデンの中立を侵犯しなかったことの代償として、ドイツはスウェーデンから戦時輸送設備の接収を行っています。これはたぶん、厳密にいえば、スウェーデンの標榜する中立性とは相容れないものであったはずです。
 池田 現在、日本の国内では、戦力を一切放棄することを定めた憲法第九条をめぐって、自衛のための軍備が、この規定の対象になるかどうかが問題とされています。法理論上の問題は別として、現実の国際情勢下において、いかにして自国の安全と生存を維持していくかという観点から、この議論が起こっているのです。
 再軍備をすべきだと主張する人々は、日本を除けば世界のどの国家でも軍隊をもっている実情を理由に、自衛の手段としての軍備をもつことは、独立国として当然だとしています。一切の軍備を放棄し、一切の交戦権を認めないならば、たとえ法理論上では自衛権を認めたとしても、実際的には自衛の意味をもたず、したがって自衛権そのものを否定することになるというわけです。
 これに対して、軍事力による自衛権の保障ということに反対する人々は、自衛権の行使は、必ずしも軍事力による必要はなく、その一切の放棄という姿勢は、現状の国際関係のなかで十分な力をもつとしています。
 自衛権は、対外的には、いうまでもなく、他国の急迫不正の侵略に対して、国家の自存を守る権利です。それは、対内的には、そして根本的には、国民の生きる権利を守るという考え方に根ざしています。すなわち、個人の生命自体を守るという、自然法的な絶対権の社会的なあらわれが国の自衛権というものであると思います。であるならば、その自衛権をもって他国の民衆の生命を侵すことができないのは、自明の理です。ここに自衛権の行使ということの本質があります。
 問題は、あらゆる国が他国からの侵略を前提として自衛権を主張し、武力を強化しており、その結果として、現実の国際社会に人類の生存を脅かす戦争の危険が充満していることです。しかし、この国際社会に存在する戦力に対応して″自衛″できるだけの戦力をもとうとすれば、それはますます強大なものにならざるをえません。それゆえ、武力による自衛の方向は、すでに行き詰まってきているといえましよう。
 私は、この問題は、国家対国家の関係における自衛の権利と、その行使の手段としての戦力というとらえ方では、もはや解決できない段階に入っていると考えます。もう一度出発点に立ち返って大きい視野に立つならば、一国家の民衆の生存権にとどまらず、全世界の民衆の生存権を問題としなければならない時代に入ったと考えます。私はこの立場から、戦力の一切を放棄し、安全と生存の保持を、平和を愛する諸国民の公正と信義に託した、日本国憲法の精神に心から誇りをもち、それを守り抜きたいと思うものです。そして、それを実あらしめるための戦いが、われわれの思想運動であると自覚しております。
 トインビー もし日本がその現行憲法の第九条を破棄するとしたら――いや、さらによくないことは、破棄せずにこれに違反するとしたら――それは日本にとって破局的ともいうべき失敗となるでしょう。
 国際情勢全般が今後どのような方向をたどろうとも、日本にとっては、中国との良好な関係を確立することが、きわめて重要になるものと思います。中国側にとってみれば、憲法第九条をめぐる日本の政策いかんが、中国に対する日本の意向をはかる尺度となるでしょう。日本の再軍備は、たとえそれが真に自衛を目的とし、侵略を意図するものでないにしても、中国の疑惑と敵意をかきたてることでしょう。またそれは、中国人の心に一八九四年(編注・日清戦争)の記憶や、一九三〇〜四五年(編注・満州事変〜日中戦争)の記憶を呼びさますことになるでしょう。さらに、中国の核武装が十分に進んだとき、日本に対するいわゆる予防戦争を誘発させることにもなりかねません。
 その反対に、日本が第九条を遵守するかぎり、たとえ中国が第一級の核大国になった場合でも、日本は、中国から攻撃される危険性はないでしょう。中国の領土的野心は、おそらく、一七九六年当時(編注・清の乾隆帝時代)に到達した国境線の回復、という範囲を超えるものではないはずです。これらの国境線を越える領域については、中国の狙いは消極的なものだと私は想像しています。たしかに中国が、東アジアや隣接海域からの米軍撤退を望んでいることは事実ですが、だからといって、現在、アメリカが軍隊や基地を配備しているアジア地域のどこかを、占領しようと望んでいる兆候はまったくありません。
 したがって、私の見解では、日本にとって憲法第九条を堅持することは、今日のように混沌とした国際関係のなかにあっても、なお有利なことです。もちろん、世界政府の樹立によって、世界の諸国民が現在の無秩序状態を終結させることに成功したとすれば、そのときこそ、先に第九条を憲法に盛り込むことによって、歴史の流れを正しく予測した日本国民の英知と先見の明は、きわめてはっきりと証明されることでしょう。
 池田 アメリカやアジア諸国の対日感情という点で、最近、日本経済の国際的進出が各地で反感を買っています。私はこうした様相を見るとき、第二次世界大戦前に日本がおかれた状況を思い起こさずにはいられません。
 将来、日本は再び国際的に孤立に追いやられる可能性はないかどうか、またそれを防ぐにはどうすればよいか――この点について博士はどうお考えですか。
 トインビー いや、これまで日本は世界全体の経済生活にあまりにも重要な役割を果たしてきていますので、物質的な理由一つを取り上げても、他の諸国が再び日本を孤立化させることは、とてもできません。まず明らかに、中国とソ連は、それぞれ自国の経済開発のため、日本の助力を得ようと競い合っています。
 ただし、私のみるところ、問題は、日本の経済的成功が近年あまりにも度が過ぎているということです。貿易収支が、日本にとってあまりにも有利になりすぎているのです。長期的展望からいって、各国が相互の貿易を首尾よく行おうとするのなら、各国の貿易収支は均等にならなければなりません。もちろん短期的にはいずれか一方に有利に傾くということはあるでしょうが、全体としては均衡がとれていなければなりません。この意味から、私は日本に対して、他国との貿易関係にあっては――たとえばアメリカとの貿易において――輸出量とほぼ同額の輸入を行う必要があることに、気づいてもらいたいのです。
 もっとも、このことはすでに日本でも認識されていることと思います。日本は、もはや、世界中の他の諸国に対して強者であっても弱者であってもならず、勝者となっても敗者となってもならず、あくまで平等の立場に立たなければなりません。人間である以上、われわれは互いに常に懸命な駆け引きをし、自分の利益を図ろうとすることでしょう。しかし、なお私は、他の諸国民同胞に対して、互いに健全な平等観をいだくところまで、われわれが到達することに希望を託しています。繰り返しますが、もはや日本が再び孤立化することは決してないと思います。ただし、あらゆる国の国民は他国民に十分な配慮を払っていかなければならない、と私は考えます。

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