Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

3 代理戦争とアジア  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 ベトナム戦争は、一応、代理戦争という悲劇に終止符を打つことができましたが、その後もカンボジアを舞台にして戦人は続いています。さらに、世界の各地をみますと、米ソ、米中、あるいは中ソという超大国の勢力が対峙している地域において、中小国は、程度の差はいろいろあるにせよ、何らかの脅威をたえず受けている状況です。
 今後、ベトナムのような悲劇が起こる可能性は考えられるかどうか、また、中小国がそうした悲劇に巻き込まれないために、最も注意しなければならない点はどういうことか――こういった点について、博士のお考えを伺いたいと思います。
 トインビー 不幸なことですが、中小国はどんなに用心していても、その意思に反して、その種の戦争へと巻き込まれやすいのです。たとえば、カンボジアは、非常に平和的な国民性をもつ非軍事的小国ですが、アメリカの東南アジア政策の犠牲となってしまいました。
 かつてアメリカは、南北ベトナムは断固として統一されるべきでないと決定しました。北ベトナムはアメリカのこの決定に挑戦し、軍事行動を起こすことにしたわけですが、そのためには、彼らはカンボジアを通過するホー・チ・ミン・ルートに沿って行動を展開する以外にありませんでした。カンボジア民族は弱小です。ここでもしカンボジアがことの成り行きを阻止しようとしたら、北ベトナム軍によって全土が戦場化されてしまったことでしょう。このためシアヌークは、北ベトナム軍の行動を許すほかに道がなかったのです。
 その後、ニクソン大統領はカンボジアヘと戦火を拡大しましたが、これは大変な誤りでした。この結果、内戦が、このかつては平和であった民族に吹き荒れ、国土を破壊しています。ここで最も悲劇的なことは、何といってもカンボジア国民に力がなく、また責められるべき非もないということです。
 その他の東南アジア諸国も、同じくベトナム戦争に巻き込まれています。タイは、日本と同じく、かつて植民地支配を受けたことのない独立国ですが、アメリカから空軍基地を国内に建設するよう圧力をかけられたとき、どうしてもこれを拒否することができませんでした。こうして、タイもやはり、その意思に反して戦争に巻き込まれたわけです。
 同じ中小国であるオーストラリアとニュージーランドは、かつてのシンガポール陥落から、イギリスにはもはや保護力のないことをみてとり、アメリカに頼ることにしました。なぜなら、この二国は、確証あるものではないにせよ、きわめて現実的な脅威を東アジアに感じていたからです。ところがアメリカはその後、この二国を、その意思に反して、無理やリベトナム戦争に参戦させたのです。
 池田 力のみが国際関係における意思表示の手段となっている世界の現状を考えれば、なるほど何らかの形で紛争に巻き込まれることは避けがたいとみるべきかもしれません。しかし、カンボジアの場合も、オーストラリアやニュージーランドの場合も、そこにもう一つ選択の道がなかったかと思われてなりません。それは、ベトナム戦争に関して、自国は中立と不関与を守ると言明し、カンボジアの場合でいえば、自分の国土を南北ベトナムのいずれにも使用させないこと、タイの場合でいえば、軍事基地として使用することを許さないこと、オーストラリアやニュージーランドの場合は出兵を拒否すること――を厳守するという行き方です。もちろん、そのためには、カンボジアは北ベトナムや中国、ソ連に対して、タイ、オーストラリア、ニュージーランドはアメリカに対して、それぞれ気まずいことになったかもしれません。しかし、こうした態度から、さらに相互防衛あるいは集団安全保障という、現代世界における武力を中心とした国家間の提携、協力関係のあり方そのものまでが問い直されることも、考えられるわけです。
 それは厄介で大きな問題ですが、少なくとも、今後戦争の人が一国から一国へと、次々に広がって大戦争にまで発展するのを防止するためには、そうした新しい国際的原理が打ち立てられる必要があると私は考えます。相互防衛、集団安全保障という考え方は、侵略主義の脅威に対して、防衛的な価値をもつものとして生まれたものでした。しかし、現実には何らの効果も発揮できなかったばかりか、むしろ、三度にわたる世界大戦を生んだのも、じつはほかならぬ、この相互防衛ないし集団安全保障という原理であったということが、結果的にいえるわけです。まして当時に比べ、現在は核兵器の登場によって、戦争そのものの質が変わってしまっております。極端にいえば、現在では正義を守る戦争さえありえない、つまり、戦争そのものによって正義も滅び去ってしまうと思います。
 ともあれ、カンボジア、タイ、オーストラリア、ニュージーランドの例は、その国際的なつながりから、やむなく戦争に巻き込まれてしまった場合です。したがって、これを防止するためには、国際倫理そのものについての基本原理が変革されなければならないと思うのです。それも、一国一国がバラバラであってはとうていむずかしいでしょうから、これらの国が集まって協議し、そのとるべき姿勢を決定することが必要でしょう。そうなれば、これら中小国を巻き込もうとする大国も、たやすく手が出せないばかりか、戦争そのものを諦めざるをえなくなるでしょう。
 トインビー 各国を他国との紛争に巻き込むものが、常にただいま述べられた集団安全保障形式の国家間提携だけに限られないことは、いうまでもありません。仮にレバノンのような悲劇的なケースを例にとりますと、レバノンは、その人口構成と地理上の位置から、ほとんど不可避といえるほど隣国イスラエルの交戦に巻き込まれやすいのです。レバノンは小さな国ですが、アラブ諸国のなかでは抜きんでて、最も近代的かつ進歩的な国柄です。かつてはまったくといってよいほどのキリスト教国でしたが、第一次世界大戦後、フランスが現在のレバノンとシリアにあたるトルコ領を領有したさい、数多くのイスラム教徒人口を接収しました。さらに、大きなイスラム圏領土をこれに加えて、レバノン共和国の国土は三倍に拡大されていきました。
 今日、レバノンの人口にキリスト教徒とイスラム教徒が占める割合は、ほぼ同じです。ただし、この両者を比べると、概してキリスト教徒のほうが裕福で、有能です。そんなことから、当然のことながらイスラム教徒はキリスト教徒の支配下におかれることを潔じとせず、アラブ・ゲリラに共鳴しています。このことは、つまり、イスラエル対レバノンの問題が、ここではイスラム教徒とキリスト教徒との間の、国内問題という形をとっていることを意味します。こうした事態によって、レバノンはまさに内戦寸前の状況になっているわけです。レバノン自体としてはきわめて注意深く振る舞っていますが、レバノンを根拠地として作戦を展開するアラブ・ゲリラや、またゲリラヘの報復としてレバノンを襲撃するイスラエル人を、制止することができずにいます。これがレバノンの悲劇です。しかも、その責任はレバノン自身にあるわけではないのです。
 池田 いまあげられたレバノンのような場合が、最もむずかしい問題をはらんでいると思います。つまり、自国のなかに解決困難な分裂があり、互いに争っている場合、それが国際社会における抗争と結びつき、国全体が戦争に巻き込まれてしまう恐れがあるわけです。
 これを防ぐには、私は、国内の相争う勢力が、あくまでフェアにプレーできるようにすることだと思います。いいかえると、自国内だけで、自力で堂々と争えば効果があるという状況が必要だということです。ところが、もしそれが効果がないとなり、絶望感に陥ると、国外の勢力の支援を借りてでも力をかちとろうとします。それが結局、自国の安全を脅かすことになってしまうわけです。
 トインビー ただいま、二つのたいへん重要な点にふれられましたね。フェアプレーないしは社会正義ということ、そして絶望感というものについて、もう少し敷衍して述べてみたいと思います。
 もし、ある民族の社会正義を奪い去ることによって、彼らを絶望へと追いやるならば、それはきわめて邪悪な行為です。ところが、パレスチナ・ゲリラの場合がこれにあたるのです。一九一七年のバルフォア宣言以来というもの、世界中が、土着のパレスチナ民族をとるに足らない人間として、消耗品として、何の値打ちもない人々として扱ってきました。しかし、彼らパレスチナ人もあくまで人間です。彼らは――ベトナム人の場合と同じく――この処遇を怒り、ゲリラ戦やテロ行為などの無分別な手段に訴えることによって、その怒りを表現しています。もちろん、こうした方策に出るのは、彼らのなかでも少数の者にすぎません。しかし、たとえそれが少数の人々であっても、やはりこのケースは、絶望感が暴力を爆発させるという、さきほどの問題点をよく物語るものです。
 これに似たケースはほかにも世界各地でみられ、一民族が他の民族を迫害したり、不当に扱ったりしてきました。ウーンデッドニーのアメリカ・インディアンや、ローデシアの黒人ゲリラなどがこれにあたります。この問題への答えは簡単です。アメリカ・インディアンに対しても、パレスチナ人に対しても、ローデシアの黒人に対しても、すべて公正に処遇してやることです。そうすれば、もはやウーンデッドニーの惨事とか、ゲリラの違法行為とか、そして違法という点ではそれ自体犯罪行為であるイスラエルの報復などで、世界の人々が苦しむ必要はなくなるわけです。
 池田 まさにおっしゃる通りです。一国の主権者に要求される不可欠の要件の一つは、その権力のもとにある民衆を平等に遇すること、平等の権利、平等の機会を与えることです。それは、政治の最も基本的な条件であると同時に、現代においては民衆の幸福のため、ひいては世界平和のためにも、最も強く求められることです。
 ところで、話を代理戦争の問題に戻したいと思いますが、第二次大戦以降、朝鮮戦争にせよ、ベトナム戦争にせよ、いわゆる″代理戦争″はなぜアジアを舞台に行われてきたか――博士はこの点をどうお考えになりますか。
 トインビー 中東や朝鮮や東南アジアに戦火が絶えなかった理由は、これらの諸地域でなら、アメリカは、ソ連や中国の介入という、重大な危険を冒さずに戦うことができるからです。
 アフリカの黒人諸国は、まだ弱小すぎて戦争をするだけの力がありませんし、南米諸国はあまりに分裂しており、しかもアメリカの支配力が強大すぎます。ヨーロッパはといえば、米ソ両国が確固たる友好関係を結んでいないかぎり、戦争をするにはあまりに危険な場所なのです。

1
1