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日蓮大聖人・池田大作

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6 国家解消論  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 国家の威信が失墜しつつあることは第二次世界大戦後の注目すべき傾向ですが、これはとくに、国家としての形態が高度に整備された、いわゆる先進諸国において顕著にみられます。しかし、この国家という概念は、博士も古代の集団力に対する崇拝の復活であるといわれるように、近世以降にようやく明確化してきたものです。人間にとって国家が有用であることは否定できませんが、不可欠なものではなく、まして尊厳なるものでもありません。むしろ国家中心のイデオロギーとしての国家主義は、人類にとって弊害のある面が強いといえましょう。
 トインビー ナショナリズムーー民族国家の集団力に対する崇拝――は、脱キリスト教時代の西洋における主要な宗教となり、他のいかなる近代宗教よりも熱心に、多くの人々から信奉されてきました。この信仰は世界的なものとなりました。今日、およそ百四十の公式の主権国家があり、そのいずれもが、あらゆる類の残虐行為を許された、神聖な権利をもつ神として遇されています。これまで主権国家は、理念のうえでも実際の面でも、いかなる法の拘束も受けることがありませんでした。しかし、第二次世界大戦を境として、民族国家への崇拝心が減退してきたことは、ご指摘の通りです。
 池田 その原因として、第一に、経済、文化をはじめ人間の諸活動について、国際交流が活発になってきたことがあげられると思います。これらは国家権力の介入する領域からはみ出ており、国家権力の存在は、かえって自由な国際交流の諸活動を妨げると感じられるわけです。
 第二に、今日は核戦争が予想される時代であることです。その結果、戦争の規模がもはや一国の手には負えなくなってしまっていることが、国家権威の失墜の重要な原因であると考えます。
 すなわち、国際的な紛争においては、有力な発言権をもつものはいわゆる超大国です。ただし、この超大国もあらゆる権能を有するわけではなく、したがって、集団防衛体制などの同盟形態に頼らざるをえません。しかし、そうした集団防衛体制にあって、やはりあくまで主導権を握っているのは、核兵器を保有する超大国であり、中小国が大胆な発言をしても無視されてしまうことはいうまでもありません。
 いいかえれば、単独で戦争をするということがかつて国家の特権であったのが、今日では、核兵器の破壊性のゆえに、いかなる国家も単独では戦争が行いがたくなっているということです。
 トインビー 私も、ご指摘の第一と第二の点を合わせたものが、従来の神格化された国家の権威を今日失墜させている主因であると思います。
 最近の技術の進歩がもたらした一つの影響として、軍事・非軍事を問わずあらゆる人間活動の規模が、いちじるしく拡大しています。われわれは少しでも意義ある活動を展開しようとすれば、その唯一の有効な規模が、地球的規模とならざるをえないような時点へと近づいているのです。
 このことは、かつて人間の諸活動に最も都合のよい単位であった民族国家というものが、今日では、もはやきわめて不便な存在となり、ましてそこに権力が保持されているかぎり、まったくの障害となっていることを意味します。しかも、活動展開の規模がこうして拡大しつつある一方、国家の大きさは縮小しつつあります。今日、地球表面の可住地域は、第二次世界大戦前の同地域における国家の、ほぼ二倍の数の国家に分割されています。
 池田 さらに、国家の権威が失墜している第三の原因として、企業や労働組合など、国家から独立した目的をもつ社会集団の組織化が進んでいることをあげなければなりません。個人は、これらの個別集団への帰属意識を強くもつようになっています。これは、国家への帰属意識よりもはるかに強いものです。
 トインビー それも重要な点ですね。経済的目的をもついくつかの民間組織――営利企業体や労働組合――は、すでに各国政府機関よりも強大となり、したがってその成員にとっては、こうした組織のほうが、政治的市民権よりも重要なものとなっています。各国政府は、多国籍的規模となった営利企業体に対して、もはや対抗しきれなくなっています。労働組合はまだ国内的規模の域を出ていませんが、それでも各国政府はすでにその幾つかに対してさえ、対抗しきれずにいます。
 一五〇〇年ごろ、イギリスでは、国家がいかなる個人、いかなる組織も抗しがたいほどの、権力の優位をかち得ました。こうした国家至高権の設定は、イギリスではヘンリー七世によって成就されたわけですが、日本ではその後ほぼ一世紀を経て、豊臣秀吉、徳川家康がこれを達成しています。
 しかし、今日のイギリスでは、各種労働組合が公然と国家に反抗できるようになっています。これはかつてイギリスの貴族たちが、その権勢をヘンリー七世によって打ちひしがれる以前、国家に刃向かうことができたのと同じことです。
 池田 さらに、第四の原因としてあげなければならないのは、″体制″と″人間″とはまったく対立するものだ、という見方が強くなっていることでしょう。この対立観においては、国家は″体制″を代表するものの筆頭であるとみられています。それほどに、国家権力の横暴や権威主義に対して、人々が強い反感をいだくようになってきているわけです。
 トインビー しかし、その点は今日に始まったことではありません。私は、いかなる形態の国家も常に″体制″の支配下にあった、または体制者によって″体制″の権益に奉仕するよう操作されてきた、と信じています。
 したがって、いつの場合にも、大衆は″体制″から疎外されると、そのかぎりにおいて、自分たちを治める国家そのものに対しても敵意をいだいたのです。
 池田 おっしゃる通り、疎外された大衆が国家に敵意をいだくのは、いつの時代にもみられた現象です。しかしその疎外が、意識のうえでも事実のうえでも、今日ほど広範囲の大衆に及んでいることは、かつてなかったといえるのではないでしょうか。事実のうえで顕著な例として、私は戦争の場合をあげることができると思います。現代では、国家はすべての国民を戦争に巻き込み、その生命と財産を危険にさらします。かつては、戦争においてそうした危険を冒すのは特定の階級の人々で、志望者に限られていたわけですが、近代国家においては徴兵制により、すべての国民のうえに死の危険がのしかかるようになりました。
 一九一四年に勃発した第一次大戦以来、戦争はきわめて凶悪化し、残酷さを増しています。このことも、国家を絶対的な存在と信ずる大衆の信頼が崩されることになった、一つの理由だと思います。
 トインビー たしかに一九一四年以来、戦争の性格が大きく変化し、凶悪化したため、国家が信じられなくなったのは事実です。二十世紀の戦争は、世界中いたるところで、かつて十七世紀、西欧の戦争で犯されたと同じ類の残虐行為を犯しています。十七世紀の戦争は、十八世紀や十九世紀の戦争より狂暴で、流血も激しかったのでした。
 一九一四年以降、再び戦争につきものとなった残虐行為を別としても、いわゆる合法的な戦争行為ですら、もはや手が施せないほど破滅的な結果をもたらしています。軍人の死傷者は膨大な数にのぼり、民間人の死傷者数も同じく増えています。これは武器の改良――航空機やミサイルに搭載される核爆弾の発明――が、かつての戦闘員と非戦闘員の区別をなくしてしまったからです。ベトナムでは、枯れ葉作戦が農村地帯を急激に荒廃させました。今日、農業への除虫剤投入の度が過ぎて世界各地の田園地帯がしだいに荒廃しつつあるわけですが、ベトナムでは同じことが、より急激なやり方で行われたのでした。
 池田 国家の権威失墜をもたらした要因は、そのように幾つもあるわけですが、これらは実際には複雑に絡み合っています。このことに関連して、一つの象徴的な意味をもつものとして、私は、第二次大戦後の軍事裁判をあげたいと思います。
 あの裁判は、戦勝国が敗戦国の戦争責任者を裁き、「平和と人道に反する罪」によって処刑したものです。非人道的行為は戦勝国側の将兵にも当然あったにもかかわらず、敗戦国の責任者が戦勝者によって一方的に裁かれ、また十分な裏づけもないままに処断された例も少なからずあって、裁判の内容に厳正さを欠く面がありました。
 それはともかく、この軍事裁判には――おそらく当初意図されずに得られた結果として――高く評価すべき点もあったと思います。その一つは、″平和″とか″人道″ということが、侵すべからざる厳粛な価値をもつものであると、事実上確認されたことです。つまり、軍の命令や国家の指示であっても、″平和″と″人道″を侵した者は処罰されるという事実を、歴史に残したといえるでしょう。
 これとは対照的に、第一次大戦においては、敗戦国ドイツの皇帝も、将軍たちも、罪に問われることはありませんでした。国家のなすことがどんな悲惨な結果をもたらしても、それに対して罪名をあてがうことはなかったわけです。ところが、第二次大戦後には、″国家の意思″を絶対視し″国家″そのものを尊厳なものとする既成概念が、その一角から事実上打ち破られています。このように、軍事裁判が意味したものは、国家権威の絶対性の否定であり、そこに現代の歴史を彩る重要な特質が、象徴的に示されていると思います。
 トインビー ニュルンベルク軍事裁判と東京裁判は、戦争に対する人類の姿勢に、一つの歴史的転換がなされたことを象徴し、かつ宣布するものでした。両裁判の意義は、明らかに犯罪である戦争が、ここに初めて犯罪として認識されるようになったところにあります。戦争は、この両裁判によって、かつて神聖なるがゆえに人為的な法の拘束は受けないとされていた主権国政府の、合法的特典としての立場を失ったわけです。
 しかし、これら二つの裁判も、ある意味では公正さを欠くものでした。いずれも戦勝国が敗戦国に対して執り行った裁判であること、そして戦勝国が、戦勝国側の政治家、軍当局者を誰一人として裁かなかったことです。彼らのうち何人かは、同じ罪科によって公平に起訴されるべきだったのです。
 池田 そこで、この戦争犯罪人ということを、今後どう考えるべきかが問題になると思います。第二次大戦後のように、今後も裁判が行われるべきか否か――。行われるべきだとすれば、それはどのような人々を対象とし、どういう形で、何を基準として行うか、といった点が問題になるでしょう。
 トインビー ある制度に参加する者はすべて、その制度の統率者が参加者の名においてとるあらゆる措置に対して、自らもある程度の個人的責任があるものです。仮に、アメリカの選挙民がベトナム戦争での自国戦犯を裁く軍事法廷を設けるものとすれば、その場合、告発の対象は大統領、司令長官、軍民の属官だけに限るべきでないと思います。アメリカの選挙民は、こぞって自らを告発しなければなりません。民主的立憲国家においては、最終責任は選挙民自身にあるからです。
 池田 この戦争という問題一つを考えてみても、現在のような国家のあり方は、根本的に変革しなければならないことが明らかですね。
 もちろん、これまでも論じ合ってきましたように、将来における理想的形態は、世界連邦が実現され、従来のような意味での国家が解消されなければなりません。しかし、将来、その方向に導いていくためには、一時的、便宜的であるにせよ、現在のわれわれの国家というものに対する考え方の変革が、なされなければならないと思うのです。
 私は、国家とは、社会的、文化的特質を示す地域単位であり、あるいは行政上の単位であるといった考え方で十分ではないかと考えています。国家の横暴を抑制するには、全世界の人々がそういう考え方に徹すべきであると思います。
 トインビー 国家はその主権を剥奪されるべきであり、すべて全地球的な世界政府の主権のもとに従属させるべきである、というのが私の持論です。そうなってもなお、現在の主権国家は、地域行政上の単位として、有益な、また実際になくてはならない地域自治の役割を、担い続けることでしょう。――ちょうど連邦国家において、その構成各国が演じているような役割です。
 私は、人間の諸活動の規模が拡大し続けるにつれ、現在の主権国家が個別的にもつ現在の行政的権限は、しだいに世界政府の手に移ることになると予想しています。ただし、職務によっては、世界的規模の統一はどうしても無理で、行政的にも、地方に分散させておいたほうが便利だというものも、おそらく残存することでしょう。
 このような考察をめぐらせばめぐらすほど、ますます私は、あなたのお考え通り、現代世界の主権国家百四十力国は、いつまでも、戦争遂行権や非軍事的な人事万般への最終発言権をもつ政治単位としてとどまっていてはならないし、またとどまることもできない――という考えに帰着せざるをえないのです。
 池田 国家と個人の関係において、博士ご自身は現在の国家をどのように意識し、評価しておられますか。また、個人的な期待として、将来、国家はどうあるべきだとお考えでしょうか。
 トインビー 私個人としては、自分が一市民として帰属している国家を、水道やガスや電気を供給してくれる公共事業体のようなもの、とみなしております。税金を払うのは、他の支払いと同じく、私の市民としての義務だと感じています。また、自分の所得について税務当局に偽りなく申告するのは、私の道義的義務だとも感じています。
 しかし、国家のために、自分の生命を戦争で犠牲にしなければならない良心的義務は、私にも他の市民にもないと考えております。ましてや、他国家の市民を殺害したり、重傷を負わせたり、彼らの国土を荒廃させたりする義務や権利は、われわれにはまったくないと思っています。私が最大の忠誠心を払うのは人類に対してであって、私の属する国家に対してでもなければ、この国家を支配している体制に対してでもありません。
 しかし、私のこうした態度も、まだたんに一個人のそれにすぎません。国家の権限を私が適正かつ正当と考える機能だけに限るためには、すべての人類の考え方が、従来のような主権国家への宗教的献身を捨てる方向に変わる必要があるでしょう。私は、国家の神聖さが否定され、人間以外の自然こそが、神聖さを取り戻してほしいものだと思っています。

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