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日蓮大聖人・池田大作

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10 自殺と安楽死  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 かねてから博士は「愛する人たちや自分自身のために、死ぬことのほうがより小さな悪である」との結論に達した場合、人間は自殺する権利をもつと述べておられます。しかし、私は、自らの生命を断つということは、生命の尊厳という、人間にとって最も大事な理念に反することになると考えるのですが、いかがでしょうか。
 トインビー 私は、他人の生命を奪うことは、最大の悪であると思っています。ただ自らの生命を断つかどうかの決定については、私の見解では、各個人の熟慮のうえでの判断に任せなければならないと考えます。同様に、自殺を認めるか否かについても、それぞれのケースで、事情によって異なってくるはずです。
 もしある人が正気を失ってしまったとして、そのうえで自殺を図ろうというのであれば、私は、それは防げるものなら防いでやるべきだと考えます。また、たとえその人が正気であっても、人生の何かの困難にぶつかって、衝動的に自殺しようとしているらしいという場合、これもできれば防いでやるべきだと思います。それは、当人がその時点では人生を耐えがたいものに感じても、別な人々の判断では、自殺を防いでやれば、やがてはその困難な出来事も解決するはずだ、と思われる場合のことです。
 死を取り消すことはできないということからいえば、自殺はできるだけ防いでやったほうがよいということになります。これは、死は取り消せないということから、死刑の執行は差し控え、戦争は放棄すべきだというのと同じ理屈です。いかなる場合でも「生命あるかぎり希望あり」という格言が当てはまるかぎり、自殺であるにしろ、仲間の手を借りるのであるにしろ、故意に寿命を縮めるのは望ましくありません。
 ただし、寿命はまだあっても、もはや希望はない、という場合もあります。そのような場合、その人が正気を保っているかぎり、私は、当人が熟慮のすえ、なお死を願うというのを、邪魔してはならないと考えます。このような状況にある人が、もしも安楽死を願うのなら、私は、その願いはかなえてあげるべきだと思います。また、その人が自殺を選ぶというのなら、それも決してひきとめるべきではない、と断固主張したいのです。
 池田 私は、苦痛と快楽は、論理的には補完し合うものであり、倫理的には同次元のものであると思っています。いいかえれば、苦痛は快楽の対極にあるということです。
 私はまた、人間は快楽――たとえば麻薬に溺れることなど――のために生命を犠牲にすることは、戒めるべきだと考えています。私のこの考えが正しいとすれば、人間は、苦痛から逃れるために生命を犠牲にすることも、また戒めるべきではないでしょうか。
 トインビー 私は、安楽死とは、ある人を罰するためでもなければ、その人から他の人々を守るためでもなく、本人自身への慈愛の行為として一個の人間を殺すことであると定義づけています。
 たとえ正気の人でも、これ以上生き続けることに耐えきれなくなって、死を望んだり、殺してほしいと願うことは、ありうることです。肉親との死別、自己の能力の喪失などが、その人の人生を耐えがたいものにしたという場合もあるでしょう。また、他人の重荷となって生き続けることは、自分としては人間の尊厳と相容れないと感じる、という場合もあるでしょう。あるいはまた、もしかして、本人の個人的意見としては、熟練を要する治療や看護を他の患者たちに使えばもっと有益なはずなのに、それを自分が独占するのは、やはり自己の人間としての尊厳に背くと感じる、という場合もあるかもしれません。
 このような人が死なせてほしいというのに、その要求を拒むべきでしょうか。私は拒むべきでないと信じます。そういう状況にある人の要求を拒むことは、私は、その人の尊貴な権利である人間の尊厳性を冒すことになると信ずるのです。
 さらに、肉体的または精神的に、あるいはその両面で耐えきれないほど苦しんでおり、しかも正気を失っているという人の場合、問題はもっとむずかしくなります。この場合は他の人々――医師、政府、友人、親族など――が、患者のために決定を下してやらなければなりません。同じような状況でも、相手が人間以外の動物なら、われわれは躊躇せずに殺して、苦痛を取り除いてやるでしょう。人間にはこれと同じ権利がないのでしょうか。人間にもその権利がある、とわれわれがなかなか口に出していえないとすれば、それはわれわれが一人の人間を殺すことを、一匹の動物を殺すことよりも重大な行為とみなしているからです。しかし、もしその病人が耐えがたいほど苦しんでいて、しかも治癒の見込みもなく、苦痛を和らげてやる見込みすらないという場合、そのような躊躇はかえって臆病であり、非難されて当然ではないでしょうか。
 さらに、こうした場合、その病人を殺すことはためらうとしても、ではその病人を生かし続けないようにするということは、躊躇する必要があるでしょうか。最近、医学は、本来ならば死を免れないはずの病人を肉体だけ生かしておくという、これまで知られなかった方法を発見しました。この新たに発見された医学の技術を、寿命を延ばしてやることが慈悲どころか、無慈悲に思われるような人々に応用するのは、医学の濫用ではないでしょうか。このような場合、その患者を死なせてやるほうが、間違いなく道理にかなっているはずです。とはいえ、ある人を生かしておくだけの力がわれわれにありながら、みすみすその人を死なせてしまうのは、倫理的にいって、その人を殺すも同然のことではないか、という疑問も残ります。
 このように、すでに正気を失っており、そのため安楽死を頼むことも断ることもできないという人の場合、安楽死が正当視されるかどうかは、きわめてむずかしい問題です。したがって私は、こうした場合、最も異議の少ない解決法は、責任ある人々からなる委員会を設けて、それぞれのケースについて個別に決定を下すことだと信じるのです。そのような委員会の編成は、法律によって規定しなければならないでしょう。ただし、そのように法律的に形成される委員会の下す決定は、前もって法律で規定してはなりません。
 池田 安楽死を認めたうえで、それをどのように実施するかという問題になれば、博士のご意見は非常に説得力があると思います。しかし、私としては、たとえ安楽死であっても、物理的、化学的な、外的な力によって死を早めるということには、賛成できません。
 ただ、博士がさきほど述べられたように、大脳の働きが破壊され、栄養の摂取さえ自力でできないような重病人でも、最近の医学は生かしておくことができますが、このようないわゆる″植物人間″に対しては、治癒の見込みがないかぎり、生命存続への努力をムダに続ける必要はないと思います。なぜなら、その人はすでに人間としての働きを発揮しえない状態にあるからであり、その意味では″死んでいる″といえるからです。
 苦悶をとどめるために他人の死に手を貸したり、あるいは自ら死を選ぶ自由を認めるということも、ヒューマニズムの一つの論理的帰結であることは、私も認めます。しかし、それがエスカレートして、やがては生命軽視の方向へと堕落することを、私は心配するのです。
 もし人々が安楽死を当然の権利であると考えるようになれば、たとえば病床に臥して、面倒をみてもらうばかりで、他人のために何の貢献もできない老人は、生きていること自体に罪悪感を感ずるかもしれません。その場合、″慈悲″の心から安楽死を認めたことが、社会全体としては、かえって″無慈悲″を生む結果になりましょう。
 私は、苦痛の消滅のために人為を施すことは正しいと思いますし、そのためには最大限の努力を払うべきであると考えます。しかし、生命自体の生きる権利というものに人為を加えることは許してはならないと思います。なぜなら、苦楽には尊厳性はありませんが、生命は尊厳だからです。尊厳が、他に等価物をもたないということであるならば、生命の尊厳は、どんな苦悶とも等価におくことはできないのではないでしょうか。
 トインビー しかし、おっしゃるように、明らかにどうにもならない状況のなかで、生命を断ちたいという人間の願望が抑制されなければならないとした場合、そうした抑制は公的なものとすべきでしょうか。
 現在、イギリスでは、そのような不幸な状況にあっても、自殺をするとなると、人目をしのんでひそかに行うしかありません。これは、私には非情なことであり、また人間の尊厳を冒すことであるように思えるのです。仮に私自身が、考え抜いたあげくに自殺を決意したとして、その決行のためには他の人々を慎重に欺かなければならないというのであれば、私はきっと非道なことだと感じることでしょう。
 私の友人で熟慮のすえ自殺をした人が二人おりますが、彼らのその決心は、彼ら自身にも倫理上正しいと感じられましたし、私にもそのように思えました。そのうちの一人は芸術家で、あるとき発作で倒れたのでした。彼女は、自分が三度と創作活動にたずさわれない身となったことも、また、生きているかぎり看護を受けなければならないことも知っていました。発作が起きる以前、彼女は自ら創作するその芸術作品を通じて、明らかに価値あるものを世に提供していました。ところが発作で倒れてからは、不本意にも、もらうことのみ多く、代わりに与えるものは何もなくなってしまいました。彼女は、これを自分の人間としての尊厳と相容れないと感じ、自分自身にとっても他人にとっても、もはやプラスの価値からマイナスの価値に転じてしまったとしか思えない人生に、自ら終止符を打ったのです。私のもう一人の友人は、作家でした。彼も不治の盲目に突然、襲われてしまったのです。
 この二人の友人は、誰にも見つからず妨げられないよう苦心惨愴し、やっとのことで自殺できたのでした。二人はこうして、ともかくも自殺に成功したわけですが、しかし、邪魔されぬよう人目を避ける必要があったということは、彼らの悲劇的状況をさらに悪化させたことになります。ここで私が感じるのは、このような苦境の悪化は、彼らに、どうにも正当化できない、よけいな苦悩を与えたということです。私は、この二人のような場合、自殺は正当な行為であり、それを妨げることは大きな誤りであると考えています。
 池田 ただいまの、博士の友人のような場合は、まことに同情すべきケースです。
 しかし、われわれは、他人の生命と同じく自分自身の生命に対しても、どこまでも畏敬の念を捨ててはならないと思うのです。ここにいう″生命″とは、自己のたんなる才能とか理性とかの狭義のものではなく、それらを一つの部分とする全体的なもののことです。才能の発揮が不可能になったから、もはや生きる意味がないというのは、生命をあまりにも狭く小さい枠に閉じこめた考え方です。さらに、こうした考え方が一般的になった場合、何かそうした才能のない人間は生きる価値がない、とでもいった風潮さえ生みかねません。
 たしかに、博士のおっしゃる通り、道徳的な問題としては、他人に迷惑をかけながらなお生に執着することは、称賛に値することではないかもしれません。しかし、私は、そうした人間としての最大の不幸ともいうべき状態に陥った人たちが、たとえ熟慮のすえにしろ、死の道を選ぶということには疑問をもたざるをえません。
 たとえば、有名な話ですが、あの大作曲家ベートーベンにしても、三十二歳のとき耳疾を苦にして自殺の瀬戸際まで追いつめられ、遺書まで書いています。しかし、彼の孤独な苦悩との壮絶な戦いは、その翌年からの猛烈な創作活動によって知ることができます。その夏、彼は「エロイカ」の作曲を進め、その直後に「運命」に着手し、五年後にこれを完成しています。四十八歳のときにはすでに補聴器も役立たなくなり、その前後は親族争いなどのため、彼の創作活動もまさに枯渇したかのような観さえありました。しかし、その後「荘厳ミサ曲」などの名曲を完成し、最後の一年間は病苦と戦いながら、雷雨のなかに、その五十七歳の生涯を閉じています。私は、この話を偉大な天才の特別な話として片づけるのではなく、そこから人間としての自己の生に対する厳しい態度を学びたいと思ってきました。
 たしかに、死によって人生の苦悩に終止符を打とうとする人たちもいます。しかし、死による″自由″を求めて、自分の意志で自分の死を決定し、自ら生命を断つということが、はたして真実の″自由″といえるでしょうか。人生が自分の意志に反する結果となり、不自由な生となったとき、それを乗り越える″自由″もなく、ただ「生きていくべきか、死ぬべきか」の選択の″自由″だけが残されている場合があります。そのときに死を選ぶことは、現実の苦悩から逃避するのと同じであり、結局、自分自身の運命に流されていることにはならないでしょうか。
 私がベートーベンを尊敬するのは、彼が自分の過酷な運命と戦いながら、その偉大な人生を切り拓いたからです。その生涯を貫いていた彼の信念は、私は、宗教的信念ともいえるほど強靭なものであったと想像します。しかし、われわれ自身のことを考えれば、誰でもそのような確固たる信念をいだき続けるというわけにはいかないかもしれません。そこに、私は、人生の羅針盤としての宗教の役割があると思うのです。
 実際、自殺や安楽死を是とするか非とするかは、その人の広い意味での宗教観――もしくは死生観――によって決まると思います。たとえば、″名″を重んずる儒教の影響が強かった徳川時代の日本においては″恥″の意識が強く、武士の間では恥をそそぐために″切腹″という形の自殺が行われました。これに対して、自殺を禁ずるキリスト教が早くから広まったイギリス等においては、恥をそそぐために決闘はしても、自殺をするなどということは考えられなかったと思うのです。
 さきほど博士は、現在のイギリスでは人目をしのんで自殺をしなければならないといわれましたが、そういう社会事情にも宗教的な背景があるのではないでしょうか。
 トインビー イギリスで自殺が反対され、屈辱的で残酷なまでに自殺が困難であることには、たしかにそれなりの歴史的な根拠があります。
 キリスト教の教義によれば、自殺者は神に対して罪を犯していることになります。なぜなら、神のみが人間の死の瞬間を定める権限をもつとされているにもかかわらず、その人はこの神の特権を侵すことになるからです。
 私自身は、人間の姿をした神の存在というものを信じておりません。また仮にそのような神の存在を信じたとしても、神が人間事象の領域でとくに手中に握っておこうとする特権は何なのか、知るすべはまったくないでしょう。しかしながら、神の存在を信ずる立場から推測すれば、神が定めた仮説的な掟は、互いに矛盾し合わないはずだと考えなければならないでしょう。そういう考えからすれば、私は、もし神が人間に自殺を禁ずるのであれば、まして他人を殺すことは禁ずるはずだと推定せざるをえないのです。それが殺人であろうと戦争であろうと、犯罪者の死刑であろうと、変わりはないはずです。これを裏返せば、神はまた、医療や看護なども禁ずるはずだと推測しなければなりません。もし神のみが人間の寿命の決定権をもつというのが真実ならば、そのような人間の行為によって寿命を延ばすことは、人為的に寿命を縮めることと同じく、神への冒漬になるはずだからです。
 池田 そのような概念に比べると、仏教の考え方はまったく異なっています。仏教では、神性が認められるのは大宇宙の生命力それ自体であり、神人同形の神の力というものは考えません。したがって、生命の尊厳を保つために人間の生命を断つことは″悪″になりますが、寿命を少しでも延ばすために努力することは、他人の犠牲をともなわないかぎり″善″でこそあれ、悪にはなりません。
 ただキリスト教についても、私はこれまで、多くのキリスト教徒の考えは、寿命を縮めるのは責められるべき行為としながらも、寿命を延ばすことについては誤りと考えていない、という認識をもっていました。この点、どうお考えになりますか。
 トインビー おっしゃる通りです。多くの場合、キリスト教徒の実践は、その教義と一致していないのです。
 たとえば、自殺によって死んだ人は、教会に隣接する″聖なる地″への埋葬は許されません。ところが、敵兵を殺そうとして逆に殺された兵士は、キリスト教の儀式によって埋葬され、その名誉を称えてたぶん記念碑が建てられるでしょう。また、キリス卜教徒は医療を尊重しています。ただし、そのなかで特異な存在はクリスチャン・サイエンスで、その信者たちは医療を受けることを禁じられています。私自身、キリスト教徒として育てられましたが、学校では、キリスト教以前のギリシャ・ローマの文学、歴史の教育を受けました。したがって、私は先祖伝来のキリスト教よりも、この非キリスト教的な教育のほうから大きな影響を受けているのです。
 キリスト教以前のギリシャ人、ローマ人は、自殺をタブー視してはいませんでした。むしろ彼らは、自殺の自由を基本的人権の一つと考えていました。また、個人が人間としての尊厳を守るためには、それに値する行為として、自殺するしかない場合もあると考えていたのです。このため、そうした場合に自殺をした人々は、非常な尊敬を受けました。
 たとえば、ギリシャの哲学者デモクリトスは、その知的な業績によって――物質の構造についての原子論の父として――尊敬されただけでなく、自分の知力の衰えを知るやそれ以上長生きするのを拒否したことでも尊敬されました。デモクリトスは、わざと断食して自殺したといわれています。彼を生き続けさせようとして無理やり食べさせるようなことは、誰もしなかったのです。
 また、ジュリアス・シーザーの政敵の一人であったカトーは、軍事力によって敷かれたシーザーの非立憲的・独裁的支配に屈するのを嫌い、自殺の道を選びました。カトーはそれまで非現実的な人物で、政治家としての成功は収めていませんでした。ところが、自らの人間の尊厳を守るべく自殺したために栄光を勝ち取り、そのおかげで、彼は死後一世紀半にわたり、シーザーの樹立した独裁体制のローマ帝政にとって、最も恐るべき敵となったのです。
 このように、キリスト教以前のギリシャ人やローマ人は人間の尊厳を維持するための自殺を認めていたわけですが、私も含めて現代の西洋人の多くは、それがまたインドや東アジアにおける、昔も今も変わらない自殺に対する態度であったと想像しています。私はかつて、帝政中国では、時の皇帝に仕える御史が諫言の義務を感じた場合、彼は同時に、その義務を果たした後に自殺をする義務も感じていた、という記述を読んだことがあります。また、日本では四十七士が称えられているようですし、アメリカ軍占領下の南ベトナムでは、焼身自殺をした南伝仏教の僧侶たちも、死後において、さきに述べたカトーと同じような影響を与えたのではないかと思います。こうした私の所感は、認識不足の誤ったものでしょうか。
 池田 博士のおっしゃる通り、たしかに中国や日本などでも、自殺は古くから行われていました。また、その自殺が人々に大きい影響を与えたという例も少なくありません。とくに日本の武士道では、自殺は一種の美徳として礼賛されたほどです。現行の日本の刑法でも、自殺関与の罪は規定されていますが、自殺や自殺未遂そのものは犯罪とみなされていません。また、安楽死の実例もかなりあったかもしれません。近代日本の文豪で同時に医者でもあった森鴎外は、安楽死の手助けをしたために罪に問われた人物を取り上げた小説を書いています。
 また、焼身自殺をしたベトナム僧の場合を考えてみますと、自殺による抗議という政治的動機があったとはいえ、思想的背景としては、彼らの実践する南伝仏教のなかに、肉体を不浄なものとする見方があったといえるでしょう。
 北伝仏教では、あらゆる人間の生命は尊極なる至宝――すなわち、仏界あるいは仏性――を内包した宝器であると説いています。生命は、いかなる等価物ももたないという意味でも尊厳ですが、そればかりではありません。生命には仏界が潜在しているがゆえに尊厳なのです。仏界とは、宇宙と生命の究極の実相を究めた知恵、および宇宙生命と自己の生命の一体性を覚知したところから湧きいずる無限の生命力をそなえた実在であり、真実の幸福を築く源泉となるものです。
 結局、北伝仏教の教義のなかには、自殺や安楽死を直接禁じている言葉は見当たらないにしても、それは許してはいないと考えられます。
 仏教の経典には、自殺や安楽死についての明確な教えはないようです。したがって、それらを認めるかどうかは、仏教の道理のうえから類推的に考える以外にないわけです。その場合、仏教は、過去・現在・未来の三世にわたる生命の連続を前提とし、それにしたがって人間のもつ宿業もまた持続していくものと考えます。苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです。この業そのものは、その人自身の力で転換する以外にありません。このように考えれば、仏教には、安楽死を正当化する根拠は何もありません。また、自殺についても、生命は宝器であるという理由から、認めることはできません。
 ただし、もとより生命が連続するかどうかということ自体、客観的に証明することができませんから、それを前提とした、安楽死や自殺をどう考えるかということも、一つの″信念″の問題になります。しかし、人間生命が尊極で、かけがえのないものと考える以上、私は、故意に生命を縮めることは許されないと信ずるのです。
 トインビー 中国人や日本人と同じく、ギリシャ人やローマ人たちも、自殺や安楽死を認めていました。自虐的な割腹の後、ただちに慈悲の介錯が行われる切腹では、自殺と安楽死が結合しています。あなたは、こうした東アジア的姿勢と、キリスト教以前の西ユーラシア的姿勢が、キリスト教の教理に反するとともに、仏教の教理にも相容れないと主張されました。
 私の場合、キリスト教的な教育よりも、ギリシャ的な教育のほうから強い影響を受けています。そのため、どうしても、自殺や安楽死は、人間の基本的かつ不可欠な権利であると感ずるのです。ある人が、他の人々は信じていても、第一の当事者である自分がおそらくは信じていない原則に従わされ、自分の意志に背いて生きながらえさせられるとすれば、私は、それはその人の尊厳が他によって侵害されたことになると思います。同じく、人間は、ある特定の状況にありながら自殺できないとすれば、自らの尊厳を冒漬していることになると考えます。
 私たちは、人間の尊厳が至高の人間的価値であるとする点では、意見が一致しました。しかし、人間の尊厳と自殺や安楽死との関係については、どうやら意見が分かれているようです。
 池田 私は、博士の主張された「人間は自殺する権利をもつ」ということを否定するものではありません。ただし、その「自らの生を終える」ということを決定する主体は、知性や感情ではなく、もっと本源的な、その生命自体であるべきだと思います。
 知性、理性、感情は、この生命自体の表面の部分であって、生命全体ではありません。知性や理性、感情は、この全体的生命を守り、そのより崇高な発現のために奉仕すべきものです。それが生命の尊厳を守り、尊厳性を現実化する道であると考えます。
 したがって、知性や理性、感情には、全体的生命を破壊したり、その持続を終息させる瞬間を決定する権利はないといわざるをえません。全体的生命のみが、その生の終焉を決定する権利をもつといえましょう。この全体的生命が自らの生に終止符を打つのは、過去からの宿業によるかもしれませんし、あるいは生命の持続を支える肉体の機能の故障によってかもしれません。いずれにしても、それは、知性や感情がかかわりえない、意識下の深層にあるわけです。
 知性や理性、感情が、生命のより崇高な発現のために、正義、勇気、慈愛をめざしていくべきであるのは、当然のことです。その理想の追求のために、全体的生命を危険に陥らせることがあったとしても、それは認められなければならないと思います。むしろ、自己保身のために正義を曲げたり、臆病になったり、他の人を犠牲にすることは、その人の生命の尊厳性を傷つけることでしかありません。この点、仏教でも、法の正義を守るため、利他のためには、自らの生命を惜しんではならないと教えています。
 博士があげられたカトーの例、あるいは一般的ギリシャ・ローマの思想は、正義と勇気を貫くところに、人間の尊厳性を高揚する道があることを示したものであって、その意味でカトーを賛嘆し、そうした思想に共鳴するのは正しいことだと思います。しかし、自殺そのものを賛嘆することは誤りといわざるをえません。カトーは、自殺によってシーザーに精神的ショックを与えることはできましたが、ローマ市民を独裁制から解放することはできませんでした。もし、カトーが自殺ではなく、生きる道を選んで、その一生を抵抗の戦いに棒げていたならば、たとえ自分は敗れたとしても、後世の自由を愛する人々のために、力強い手本となったかもしれません。
 なお、博士があげられた、もはや廃人となった人をただ物理的に生かしておくために、高価で技術を要する治療を施すということには、私も反対です。それは、博士が指摘されたように、その技術と費用によって治癒できる、他の病人を見捨てることになるかもしれないからです。さらにまた、自ら生の終息を選ぶ、その生命自体の権利に干渉しているからです。

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