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日蓮大聖人・池田大作

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6 マスコミの中立性  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 現代は情報産業時代といわれますが、なかでもマスコミは、現代という時代を特徴づけるものであると思います。マスコミは、社会のあらゆる分野にわたって非常に大きな影響力をもっています。電波は瞬時のうちに一国の出来事を全世界に伝えますし、なかでもテレビはありのままの姿を家庭の茶の間に映し出します。
 トインビー 近代技術は、人間の日と耳に直接訴えるコミュニケーションの手段によって、即座に語りかけられる大衆の数を大幅に増大させました。
 昔は、演説者は拡声器をもたず、ましてやラジオで自分の声を放送したり、テレビに姿を映し出すことなどは考えられませんでした。そのため、人体の本来の能力に限界があることから、聴衆の数も、演説者の声が聞こえ、同時に姿も見える範囲内に集まれる数におのずと限られていたものです。ギリシャの哲学者アリストテレスは、この場合の人数を五千入以内と見積もり、したがって、直接民主制の形態をとる国家では、参政権をもつ市民の数は最大限五千人を超えるべきでないと主張していました。これに対して、現代の機械化されたコミュニケーション・メディアは、この装置の利用者が地球上のあらゆる人々に話しかけることを可能にしています。放送者がラジオやテレビのスタジオで同室内の一人の人間に話しかければ、技師が、このたった一人の視聴者を百万倍にも十億倍にも増やしてくれるわけです。
 ラジオ放送やテレビ放映は、誰でも瞬時のうちに聴視することができます。これに比べて新聞や書籍は、たとえ空輸したところで配布に時間がかかります。また配布されても、これを利用できるのは字の読める人々だけです。しかも、いくつかの国々――日本、ニュージーランド、ドイツなど――では、人日のほぼ百パーセントが文字を読めますが、世界の総人口の大半はいまだに文盲です。このため、そうした多数の文盲者にも理解でき、しかも即時に伝達される話し言葉や目に見える映像に比べれば、活字化された文字のほうが影響力が小さいのは、どうしても避けられません。これは残念なことです。ラジオから流れてくる言葉――またテレビの画面に現れる映像や言葉――は、ほんの束の間のものにすぎません。それは現れたと思うとすぐに消えてしまい、残るものといえば視聴者の記憶――あてにならないことでよく知られる人間の生来の機能――にとどまるものだけです。
 池田 そこから生じる弊害の一つとして、絶え間なく流れてくる情報によって、人間は深い思索と考察を怠るようになり、刹那的で衝動的な傾向に陥っていくことが懸念されます。あるいはまた、時代の急速な流れに即応しようとして、受動的な生き方になり、創造的な精神の営みがいよいよおろそかになることも心配されます。
 事実、テレビその他の大衆伝達機関の伝える情報量は、すでに過多といってよいほどになっており、日本ではすでに″情報公害″という流行語ができています。もっとも、これはたんに情報量が過多であるというよりも、その質の観点から論ずべき問題かもしれませんが、しかし、いずれにせよ現代人がそうしたおびただしい情報の山に埋まり、自分を見失い、価値判断の基準に迷っていることは確かです。また逆に、これらマスメディアを用いる側からいえば、その用い方いかんでは、事実の正しい報道という目的よりも、視聴者の心理を操作するために、大きな、しかも恐るべき効果を発揮することが考えられます。たとえそれが意識的な大衆操作とまではいかなくとも、少なくともマスコミによって一つの世論が形成されたり、一定の方向に世論が傾斜することは、十分に考えられることです。
 トインビー マスメディアの影響力はまぎれもなく巨大であり、この伝達機関を支配する人々は、それを大衆操作のために用いることができます。
 このような大衆操作の力は、何も視聴者自身の心理の意識層だけの占有物ではありません。マスメデイアの運用者は、自分たちの伝えるべき思想を、視聴者の表層心理を貫いて、潜在意識の深層にまで浸透させることができます。彼らはこうして、自分の目的のために、大衆の潜在意識を操作することができるわけです。
 数年前、アメリカで起こったことですが、いくつかの民間企業が自社の製品やサービスの宣伝のためにラジオやテレビの時間帯を買い、これらのメディアを大衆の表層心理にではなく、その潜在意識層に訴えるために用いたことがあります。これは、知らずしらずのうちに大衆に商品を買わせるための、彼らの一つの戦術でした。当然のことながら、この策略は猛烈な抗議を浴びたものです。フランスでも、ドゴール大統領時代に、同じく、即時効果のあるマスメディアを政府が独占使用したということで、野党から当然の抗議が寄せられたことがあります。野党側は、これは政府権力の不法行使だと主張したのでした。
 池田 そこで、マスコミ自体にとって問題になるのは、中立性ということです。これは、きわめてむずかしい問題です。
 たとえば、テレビが学生の反政府デモと警官隊の衝突のシーンを放映したとします。その場合、テレビカメラが進撃するデモ隊を映せば、一般の視聴者は、デモ隊の激しい行動に批判の眼を向けるに違いありません。反対に、デモ隊を押上戻そうとする警官隊にカメラを向ければ、武装した警官隊のものものしさに非難の声をあげるでしょう。カメラを何台用意したところで、それは同じことです。画面に現れるのは一定の時間、一定の場面だけであって、公平な条件のもとに、同時に相反する二つの場面を茶の間に送り届けることは、不可能に近いからです。この場合は、厳密にいえば、もはや中立ということは、ほとんどありえないといってもよいでしょう。とはいえ、その影響性を考えるとき、″中立性″はやはり、あくまでもマスコミに要請される重要な条件の一つといわざるをえません。
 そこで″中立性″とはいったい何かということですが、現実の諸問題というのは、足して二で割るようなわけにはいかないのが普通ですし、たとえそれが可能であったとしても、それは本当の意味での中立とはいえないと思います。中立性がよく問題にされるのは、政治問題の場合が多いわけですが、政府などの権力側と民衆の側では、もともと力の強弱に差があります。国家権力を握っている以上、政府は民衆に対して圧倒的な力をもっているわけで、両者は対等の関係にはありません。
 したがって、マスコミが政府と民衆のちょうど中間点に立ってものをいうならば、それは中立のようであって、じつは真の中立ではないと考えざるをえないでしょう。このように、中立性とはあいまいな概念であり、実体はそれぞれのケースによって違ってくると思うのです。
 トインビー 近代技術によって生み出された、人間への影響力の強い、マスメディアというこの巨大な新しい力は、中立のものとして用いられるべきです。この点、ご意見にはまったく賛成です。しかし、ここで中立という意味を明確にしておくことが必要ですし、また、望ましい中立のやり方で、意欲的に、しかも自由自在にマスメディアを使いこなしていく管理機関を見いだすことも必要です。
 ″中立″の意義づけは、かなり容易にできる場合もあります。たとえば、民主主義国家で、選挙期間中の宣伝活動のために、マスメディア使用の割り当てを行う場合などです。この場合、競い合う各政党への時間配分は、各党の数的な勢力に比例して決められるべきでしょう。また、割り当て時間に対する料金は、各党の選挙費用の額に比例して課せられるべきです。そのさい、選挙費用を公表し、それに対する調査証明も行うべきでしょう。このような時間の配分は、時の政府にも、いかなる政治組織にもよらず、マスメディア管理権を委任された管理当局が行う必要があります。
 しかしながら、ことの善悪・正邪に関する区別は、あらゆる人が個人的に、またあらゆる人間社会が集団的に行うものです。いったい、どんなことが善であり悪なのか、どんな行動が正であり邪なのかについては、極端に意見が分かれます。しかし、これら二つの範疇を知的に区別することに異を唱える人はおりません。また、自分が正であり善であるとみなすことを支持し、邪であり悪であると判断することに反対するのが道義上の義務である、と考える点についても、同じく誰にも異論はありません。そこで、こうした点を考えてみますと、正邪や善悪に関しては、中立を保つことがはたして正しいのか、いや、いったいそれは可能なのか、という疑問が生じてきます。
 たとえば、だいたいどこの社会の道徳律でも、政治的圧制、個人的不誠実、一国の国民生活における個人の暴力行為、ワイセツ文書などは、悪であり邪であるとして非難されます。もっとも、こういう類の悪に関する厳密な定義は、それぞれの社会で異なることでしょうし、同一社会の成員の間でさえ、その道義性が論議の的となっている慣習や制度もあります。その例が、戦争、死刑、自殺、同性愛などです。一個人ないし一社会の判断で、善悪・正邪がはっきりしている問題に関して中立を保つことは、正しいことでしょうか、あるいはまた可能なことでしょうか。
 私の個人的な信念としては、このような場合、中立は不可能であるし、たとえ可能であったとしても、それは正しくないと信じます。自分が正とみなすことと、邪とみなすこととの中間で、中立の立場をとろうとするのは、結局、邪とみなすことの側にくみすることにほかなりません。なぜなら、すでにそれは、自分が正とみなすことを支持するという、道義上の義務に違背してしまっているからです。
 池田 私は、マスコミに要請される中立性とは、その本質が民衆の権利を守るという立場になければならず、また基本的には生命の尊厳という理念に立った報道の姿勢が貫かれなければならないと信じます。
 たしかに博士のおっしゃる通り、すべての出来事について中間的態度をとることは、正しい報道とはいえず、むしろ誤りとなる場合もあるでしょう。正邪という問題を含むときは、報道する者の判断、主張が入り込むことはやむをえませんし、むしろそれが正しいといえます。
 ただし、正邪という判断は、ご指摘のあった通り、時代と社会において異なり、また変動するものです。その判断の基準は、社会の歴史的、伝統的価値観とか、時代の思潮によるわけです。私は、この正邪ということの、時代や社会によって変わりえない根本的な基準として、やはり人間生命の尊厳という理念が据えられなければならないと考えます。マスコミにとっても、ここに基準をおくことが、究極的には中立性を守ることになると思うのです。
 トインビー 正邪の問題については中立は不可能であるという、重要で実質的な条件が設けられたうえでならば、マスコミは中立的に利用されるべきです。それなら、私も異論ありません。むしろ私は、マスメディアの管理にあたる当局は、道義上間違っているとみなす人々にも言い分を述べる機会を与えるべきだとさえ、あえて提案するものです。ただし、この場合、当局自体がこれらの人々に対してあくまで反対的な立場にあることは、包み隠すべきでありません。
 しかしながら、中立であるべき当局の構成員を、いかにして任用すべきでしょうか。さらに、中立的な精神に立つ当局が、実際に自由な立場でマスメディアの中立的な管理を行うことを、いかにして保障すべきでしょうか。私は、政府の任命や選挙民による選出に頼っていては、中立の精神をもつマスメディア管理機関は生まれそうにないと思います。この機関の構成員を選出するには、各個人の資質に基礎をおくメリットクラシー的な方法をとることを提唱したいのです。
 それにしても、マスメディア管理のための資金を、しかもこの管理機関を財政的圧力にさらすことなしに調達するには、どのような方法があるでしょうか。そうした基準の上に立つならば、この機関の収入源としては、政府官公庁が税収のなかから振り当てる金とか、民間企業が支払う広告料金とかを、いずれも拒否しなければなりません。それに代わる一つの方法としては、視聴者に受信料を課すということです。これは、マスメディアの利用を、その料金を支払う能力のある人々だけに限ることになるでしよう。しかし、マスメディアとは、いずれにしても受信装置を買い入れたり、賃借りする余裕のある人々が利用するものです。したがって、受信に欠かせない装置の費用に比べるならば、マスメディアによるサービスに見合うだけの受信料は、比較的少額にすぎないはずです。

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