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日蓮大聖人・池田大作

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5 世代間の断絶と″体制″  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 新旧世代間の断絶は、今日、切実な問題として広く論議されていますが、両世代の間できわだって異なっているのが、まず体制と人間の関係のとらえ方でしょう。
 私は、いかなる世代も自由、平等、個人の尊厳――とりわけ生命の尊厳――などに対する考え方は、おそらく原則的に一致していると思います。ところが古い世代のほうは、個人の尊厳を認めながらも、ややもすると体制の側に傾くきらいがあります。彼らは、自分の生存が体制に守られており、したがって体制の存立が脅かされれば、生命をなげうってもこれを擁護しなければならないとさえ考えます。そうなると、自由といい生命の尊厳といってもいわば観念にすぎず、それよりも体制の保持のほうが、現実的で基本的な前提となってしまいます。こうした考え方は、新しい世代の考えと真正面から対立します。若者たちにとって個人の自由と生命を脅かす最大の元凶は、まさに自分たちを守ってくれるはずの体制にほかなりません。彼らは、古い世代が生命の安全を守るために、体制によって自由を奪われ、逆に生命を失っていったことを知っているからです。これは、若い世代にとっては、耐えられないほど愚かしいことに思われるわけです。
 これに対して、古い世代が体制を擁護しようとするのは、そこに自分たちの権威や利害の意識が絡んでいるからだとも考えられます。彼らも若いときには、一つ前の世代に権力を独占され、そのもとで苦い経験を味わわされたはずです。ところが、いまようやく自分たちが権力を握ったとき、彼らの後に続く若い世代は、体制の権威そのものを認めないわけです。
 こう考えてきますと、古い世代の人々の気持ちも理解できないではありません。と同時に、若者たちの心情にも十分共鳴できるものがあります。
 すなわち、若い世代は、なにはともあれ人間の尊厳を守らなくてはならないことを痛感し、そのためには体制の傲慢を打破しなければならないと考えています。反体制の若者にとって問題なのは、とくに体制者の特権意識でしょう。体制は各時代によって変遷し、交代してきていますが、しかし、どのような体制も、それにつかない人々を常に疎外しています。そうした仕組み、そしてそれを支えてきた意識に対して、若い世代は抗議し、対決しているわけです。
 その一つのあらわれが、世界各地の大学で吹き荒れたスチューデント・パワーの嵐であることは周知の事実です。また、これと違った反抗の型として、多くの学生がヒッピー化し、既成の権威への忠誠の印ともいうべき、服装や整髪の伝統をかなぐり捨てました。風変わりな服を身にまとい、長髪をした若者たちは、ライフ・スタイル(生きる姿態)を変え、カウンター・カルチャー(対抗文化)なるものを創り出そうとしています。この、いわゆる″二次文化″的な風潮は、形を変えつつ今日なお流行しています。
 しかし、こうした若者たちのレジスタンスがどれほどの効果を生むかについては、まださだかではありません。一般の市民には、理解しがたい現象として映っているのが実情のように思われます。その反面、若者への心情的な支持と、それに同化する風潮が広がるにつれ、体制側の世代が不安に陥りつつあることも事実でしょう。現に体制を守るという自分たちの行為に対してさえ、彼らにはある種の自信喪失のさまが認められます。
 年月の経過とともに、古い世代は自然に去っていくものです。したがって、新しい世代が主導権を握るのは時間の問題です。しかしながら、現代の世代間の断絶の深刻さは、自然の成り行きに任せればよいというものではありません。何らかの解決策が提示される必要性を痛感するのです。いまや、現代文明を立て直すため、横にはあらゆる民族、縦にはあらゆる階級、年代の人々が、力を合わせていかなければならない時代にきているからです。
 トインビー ご指摘の通り、今日、まさに世界的な広がりで反体制運動が起きています。しかし、反体制の動きそのものは、とくに新しいものではありません。
 かつてファラオ統治下のエジプトにおいて、古王国時代にピラミッドを築いた体制は、第六王朝の崩壊とともに打倒されました。古代ギリシャ・ローマ世界でも、体制は西暦紀元三世紀に倒されています。フランスでは、フランス革命によって旧体制が倒されました。中国では、旧体制は、有史以来、ファラオ時代のエジプトを除く他のすべての体制よりも長く存続しましたが――ないしは、幾度か衰退しながらもそのつど回復しましたが――やはりこれも清朝の解体とともに打倒されています。
 現代における世界的な反体制運動のはっきりした特徴は、この抗争が、主として体制そのもののなかで、若者と中年層との世代間戦争という形をとってきていることです。もちろん過去の反体制抗争の多くも、体制内の若者によって指導されていたことは事実です。また、現在の世界的な紛争にあって、富裕国であると貧困国であるとを問わず、貧困線以下の人々が反徒の大部分を占めていることも、やはり事実です。しかしながら、体制内の若い世代がすべて一様に反逆している――この点が、現代の社会的混乱を特異なものにしているわけです。
 池田 たしかに、体制と反体制の抗争は過去のいつの時代にもありました。しかし、そこでは多くの場合、体制側が勝ち、反体制側が屈伏させられていると思います。ただし、体制があまりにも腐敗して多くの矛盾を抱えたとき、反体制に打ち倒されて大きな歴史の転換がなされてきた――これがこれまでの一つのパターンであったように思われます。
 ご指摘の通り、かつての体制対反体制の抗争と現代の世代間対立との大きな相違点は、反体制の若者の側に認められます。過去の反体制は、多くの場合、体制の外にあったようです。たとえば、ギリシャ・ローマ世界の体制を倒したのはヘブライ思想であり、ゲルマン民族であったとされています。もちろんこれらも、ギリシャ・ローマ世界の体制の内部に入って、そこで変革を行ったようですが――たとえば、西ローマ帝国を倒したゲルマン人傭兵は、当時の体制の重要な支えでした――しかし、本質的には、体制外の存在であったと思います。フランスのアンシャン・レジームに対するブルジョワジーも、一応は旧体制内の重要な支え手ではありましたが、やはり、貴族や僧侶で占められていた特権階級からすれば、体制外にはみだした存在であったことは否定できないでしょう。
 これに対して、現代の反体制の若者の主力は学生たちです。現体制の中心階層の子弟であり、将来の体制者となるべき″予備軍″ともいえ、見方によれば、最も体制内的存在であるとさえいえるでしょう。その彼らが反体制の急先鋒に立っているところに、現代の深い苦悩を認めざるをえないわけです。現代人はもっと真剣にこの問題と取り組み、何らかの解決の方途を見いだす必要があります。
 トインビー 体制自体内の若者による現代の反逆には、いくつかの原因があげられます。
 その第一は、明らかに、いま権力を握っている中年の世代が、世の諸問題を満足に処理できずにいるところにあります。
 第二に、技術の加速度的な進歩のゆえに、事物の変化があまりにも急激であり、しかも、それがあまりにも険悪な方向をたどっていることです。そのため、若い世代は、世代交代によって自分たちの時代がくる以前に、現在の中年層がたぶん取り返しのつかない破局を招いて、人類を打ちひしがせてしまうのではないかと懸念しているのです。
 第三には、若者たちが年長者に対して疎外感をいだいていることです。それというのも、いわゆる先進諸国にあっては、すでに体制者の活動なり生き方というものが魅力を欠き、威信を失ってしまったからです。かつて、インドのバラモン階級、日本の武士、明治時代の元老政治家、ローマの元老院議員、ウォール街の大立者といった人々の生き方には、ある種の魅力があったものです。しかし、今日の企業者、公務員、労働組合役員などの生活には、魅力らしいものはまったくありません。現代の体制者の変哲のなさと無力さが、若者たちを反逆に走らせているのです。
 この体制内の世代間戦争は、すでに、ただでさえ恐ろしいほど危険な現代の状況に、さらに輪をかけてその危険度を増す作用をしています。この点から、さきほどご指摘の通り、私も、この現況の収拾に努めるとともに、それが引き起こしている世代間の戦争を終わらせる努力がどうしても必要だと考えます。
 池田 そのような二重の危機を解決するためには、まず、断絶した両世代が互いに歩み寄れる、一つの共通の場を見つけだす必要があると思います。われわれは、努力の第一歩をそこに踏み出さなければならないでしょう。
 トインビー もし若者たちに次のことをわからせることができれば、世代間の緊張もあるいは和らぐかもしれません。すなわち、どんな世代も、かつて意のままに自由であったことはなく、それは現在も変わらないということ、そして、どの世代も自分たちが権力を握る番になると、行動の自由がカルマ(宿業)に縛られているのを思い知るということです。
 新しい世代が古い世代を軽蔑し、嫌悪するのは、大人たちが無力で魅力に欠けることにもよりますが、むしろより深い理由としては、彼らが一見して不誠実で偽善者のように見えるためなのです。もちろん、現体制の中年層がある程度不誠実で、偽善的なのは疑うべくもありません。しかし、内実は見かけほどひどくないことも確かなのです。古い世代も、若者たちが要求しているような、根本的な改革を実行したいと真剣に願っているかもしれないのです。しかし、彼らは同時に――その事情をはっきりと説明できずに――カルマが縛りつける運命によるハンディキャップを負っていることに、気づいているのではないでしょうか。そして、彼らが誠意をもって変革を願い、その努力を払っているにもかかわらず、自力だけでは、世の中の状態を改革するに至るだけの宿命の転換をなしえないことにも、気づいているかもしれないのです。
 池田 宿命、業(カルマ)というものに直面したときの人間的な弱さ、脆さということに、反体制の若い世代も深く思いをこらすべきですね。何でも自分の理性で決定し、支配できるといった自信は、青年の理想主義的な美点でもあるわけですが、実際に自分が権力と責任を担ったときに、このどうにもならない人間的な業という問題があらわれてきます。
 どんなに崇高な理想に燃えた青年であっても、現実の世界は理想だけでは対処できません。自己の生命の内部にも醜い宿業、欲望があるわけですし、この現実社会を形成しているすべての人間に、それぞれ底知れない業があります。それらが複雑に絡み合い、相乗して、現実を形づくっているのが世の中です。この泥沼のような現実に足を踏み入れたとき、なおかつ理想を見失わずにいけるということは、至難のわざといってもよいでしょう。結局は、いかなる人に対しても人間としての思いやりをもち、互いに深く理解し合っていくという態度が、大事な前提になると思うのです。
 トインビー 体制者とそれ以外の人々の間に現在生じている亀裂も、いうなればわれわれのカルマに縛られた運命の一部なのです。われわれ現代人は、文明の夜明けとともに、少なくとも五千年も以前に生じた、この社会的断絶を埋められるだけの宿命転換を、はたして成し遂げられるでしょうか。われわれは、はたして体制者を大衆のなかに溶け込ませることによって、首尾よく彼らを廃絶することができるでしょうか。
 たしかに先程のご主張通り、私も、目標はここにおかなければならないと思います。なぜなら、私もあなたと同じく、体制者のもつ特権は人間の尊厳と相容れるものではなく、また体制と人間との利害の衝突にあっては、人間が優先されなければならないと考えているからです。これは、それ自体正しいことです。そしてまた、相争っている両世代の間に和解をもたらすのに必要な条件でもあるわけです。
 しかしながら、歴史の示すところによれば、これは難事業です。ファラオ時代のエジプトの体制は、中国の王朝体制と同様に、何度も廃絶されましたが、そのたびに復権しています。フランス革命とロシア革命はいずれも旧体制を廃絶するものでしたが、それも結果的に新しい体制者に置き換えたにすぎませんでした。
 池田 そこで考えなければならないことは、どのようにすれば、人間の宿命、業ともいうべき″内なる悪″を打ち破ることができるかという点です。
 体制者はなぜ権力を独占し、人間の自由を踏みにじるのでしょうか。本来は人々の幸福と平和のために生まれたはずの体制が、なぜ人間に不幸をもたらし、平和を脅かすものになってしまうのでしょうか。これまでの歴史にみられた旧体制の打破が、所詮は同じような新体制の樹立しか招かないのはなぜでしょうか。――私は、その根本的原因は、この人間の″内なる悪″を破りえなかったところにあると考えます。
 これまで、宿命あるいは業といえば、一般にそれは定められたものであり、転換することはできないという考え方が支配的でした。しかし、この概念を打破した革命的な宗教理念があります。それが、東洋の英知の結晶としての日蓮大聖人の仏法理念です。この仏法は、人間の本性という問題に正面から取り組み、人間が宿命を転換し、宿業を打開していく方途をはっきりと明示しています。そして、真実の人間の尊厳性とは、こうした宿命の転換、宿業の打開によって、初めて確立されうるものであることを説き明かしています。
 私は、新旧世代はともに、この意味での人間の尊厳性を認め合わなければならないと考えます。ここを起点とするところから、双方の合意に達する道が開かれると信じるのです。また、そこから、社会の体制や学問の体系、総じては新しい秩序を再建していくことも可能になるものと信じます。ともあれ、そのためには、いうまでもなく、体制のために人間を犠牲にする一切の行為、考え方をかなぐり捨てねばなりません。具体的には、すべての国家が交戦権を放棄し、徴兵制度を廃止することです。もちろん、ほかの社会機構においても、その権威のゆえに人間の尊厳や生命の安全を脅かしたり侵害する特権は、すべて放棄されなければなりません。もちろんこれは、世界の現況からみて、決して容易なことではありません。しかし、生命自体に真の尊厳性を認めるならば、当然の結論であろうと思います。要は、人間が自らの意識変革をしていくことにあります。この変革を実現できるか否かは、人間の行動を究極的に左右する、宗教的な信念とエネルギーをもつか否かによるといえるでしょう。
 トインビー 私たちの考えは、少なくとも基本的には一致していると思います。われわれが、もし、たんに人類の余剰生産物を公平な割合で再分配する程度のことしか成し遂げないならば、われわれはこの体制問題の解決に、真に成功することはないでしょう。
 人間の尊厳性への認識こそが問題の本質であるというご意見には、私も賛成です。しかし、人間の尊厳のためには、すべての職業が自由をともなう職業となることが要請されます。われわれは″ベルト・コンベヤー人間″も″組織人間″も廃業させなければなりません。すべての人が、本質的に価値のある仕事、しかもその価値が労働者自身に実感される仕事にたずさわり、そこから生計を得られるようにしなければならないのです。現在、人々が働くのは、たいていの場合、最大限の報酬を得るためであって、仕事そのものに価値を求めて働いているわけではありません。しかし、今後はもはや現在のように、利益追求の動機が最優先されていてはなりません。
 ただし、この最も望ましい動機の転換は、人間の心の変革によってしか実現できるものではありません。そしてこの最も望ましい心の変革とは、人間の内面からの精神変革による以外にないのです。この変革は、経済の次元ではなく、宗教の次元で行わなければなりません。しかも、それはすべての人間が、個々に成し遂げていかねばならないのです。

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