Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 複数組織からの挑戦  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 組織の時代ともいわれる今日、あらゆる個人が企業や自治体や国家、あるいは組合や趣味のクラブなど、同時にいくつもの組織に帰属しています。また、その企業は国家的または国際的な連合体に属しており、国家は集団防衛機構や国連などに加盟しています。こうした組織のなかにあって、人間はさまざまな形で権利をもつとともに義務を負わされ、束縛されています。このことは、現代人における自由という問題を考えるにあたって、非常に重要な点だと思うのです。
 トインビー 制度に対する人間の帰属心の多元化が広く行き渡っているのは、現代を特徴づける傾向ですが、これは、十七世紀後半に西欧諸国に起こった精神革命、政治革命に端を発しています。そこにみられる著しい特色の一つは、技術の発達から生じたいわゆる距離の消滅ということです。これはいいかえれば、人類の帰属心を分かち合っている最も重要で、最も魅力ある組織のいくつかは、もはや民族とか国家といった地理的に棚密な、また地域ごとにまとまった組織ではなくなっているということです。
 池田 ええ、個人にとっても、また社会全体にとっても重要である組織は、地理的に形成されたものよりは、むしろ機能によって形成されたものになってきているといえますね。現代社会は、そうした組織が複雑に組み合わされており、その成員に対する統率の手段も、科学技術の高度の成果が応用されて、巧妙になってきています。そうしたなかで個人の主体性と人格の尊厳、そして自由の原理を守るということは、今日ますますむずかしくなるとともに、またそれだけに一層重要になっているといえましょう。人類は、自然と人間の関係において種々の問題に直面してきましたが、現代は人間と人間の関係、すなわち組織の問題が、より深刻な課題となっているわけです。
 過去においては、組織は未分化で一元的であった――つまり、政治組織はそのまま経済組織であり宗教組織であることが多かった――といえるでしょう。そうした組織にあっては、その頂点に立つ者が政治、経済、宗教のすべての権能を独占していたわけです。こうした組織形態は、人間が生きるために自然と戦わねばならなかった時代においては、やむをえないあり方だったとも考えられます。しかし、今日においては、望ましいものでないことはいうまでもありません。
 トインビー 私は最も抑圧的な、したがって最も望ましくない制度とは、その成員である人間に対して、もっぱらその制度のみへの忠誠を要求するような、一元的タイプの組織であると思います。その典型的な例として、政府が政治権力を用いて国教への帰依を国民に強制し、あるいは他宗教を信じる人々を刑罰に処したような国家があります。この種の制度上の暴政は、ユダヤ系宗教が起こった後の旧世界の西端部に比べれば、東アジアやインドではさほど一般的ではありませんでした。キリスト教国では四世紀から十七世紀にかけて、イスラム教国ではさらに最近に至るまで、国教が独占権、ないしは少なくとも特権的立場を与えられてきました。
 今日では、共産主義諸国における共産主義思想が、同じような特権的地位を享受しています。共産主義はキリスト教から発したものであり、実際には、キリスト教の無神論的な異端思想なのですから、これはべつに驚くにはあたりません。
 こうした、かつてキリスト教国やイスラム教国に普及していた一元的政体とは対照的に、今日の世界では、共産主義国を除くすべての国々が、いずれも多元的制度をもっています。ところが、この多元的制度は、インドや東アジアではこれまでもずっと普及していたのです。
 池田 それは、私は神についての考え方からきているのではないかと思います。ユダヤ系の宗教は、全智全能の唯一絶対神を立てます。あらゆる活動はこの神の権威のもとに一元化されるわけです。
 これに対して、アジアにおいては多様な神が考えられ、それぞれの組織や活動は、それぞれの神の権威に分散して帰属していました。たとえば、農民には農業の神があり、漁民には漁業の神があって、互いに一種の不可侵の精神がつちかわれていたといえます。
 トインビー たしかに、インドや東アジア諸国では、常に多数の宗教、哲学が存在していました。中国の場合も、若千の違いこそあれ、ご指摘の点を証明しています。すなわち、漢の武帝の統治下の紀元前一三六年から紀元一九〇五年に至るまでの間、儒教がずっと帝政中国の国教的哲学となってきたことは事実です。しかし、それも道教の存続や仏教の移入を妨げるものではありませんでした。さらに、九世紀の儒教による仏教弾圧も、キリスト教徒やイスラム教徒、あるいは共産主義国が行ってきた異教徒弾圧に比べれば、期間的にも短く、穏やかなものでした。
 池田 ところで、これは人間と組織の関係で洋の東西を問わずみられる傾向ですが、かつての家父長制というものが現代では大きく変容しています。つまり、かつては家父長が、ときにはその家族に対して生殺与奪権をもつほど大きな権力をもっていました。また、現代でいえば一自治体の首長に相当する領主などが、住民に対して絶対的な服従を強要していました。もしその意志に反したり、感情的に面白くないことがあると、それだけで処刑された例さえあります。一個人のもつこうした強大な権力が、きわめて不公平なものであることはいまさらいうまでもありません。
 これに対して現代人は、とくに先進自由主義国においては、物理的・直接的強制力という点からいえば、かつてない自由を謳歌しており、人格の権利が保障されています。今日、個人の人格的権利を抑圧したり、剥奪することができるのは国家だけであって、しかもそれは民衆の意志によって定められた――もちろん間接的にですが――法律を侵した場合に限られています。こうした変化は、人間がかち得た大きな進歩の一つといえましょう。
 トインビー 今日では、家族にしてもその他の組織にしても、かつての時代にみられた組織とはきわめて異なるものになっていますが、それには大きな理由があります。それは、今日の主要な組織がいわゆるディアスポラ(四散した民、その組織)であるということです。ディアスポラの構成員は世界中に散在しているため、特定の一地域で住民の大多数を占めることはありません。
 近代交通手段の発明以前は、デイアスポラもまれな存在にすぎませんでした。それはまず第一に、地理上の距離のため、一地,域に集中していないかぎり、グループのメンバー同士が連絡をとり続けることは困難だったからです。その結果、機械化以前の時代にあっては、地域ごとの組織が当たり前のものと考えられていました。これはとくに、キリスト教やイスラム教に改宗した後の旧世界の西端部で顕著でした。こうした、組織に課せられた地理的な制約というものは、その成員の間に非常な不寛容さを育みました。そして、このキリスト教徒やイスラム教徒にみられたと同種類の不寛容性が、今日、政府が共産主義を取り入れた非西欧諸国に広まっているのです。
 池田 いいかえると、機械化時代以前の、地域を基盤とする組織、しかも家父長的な、きわめて古いタイプの組織が、いまなお国家という形で存続しているということになりますね。
 トインビー たぶんそういえるでしょうね。しかし、今日では、いろいろな面で国家よリディアスポラのほうが重要性を増しています。さきほど私は、近代交通手段の発明以前にはディアスポラはまれだったと申し上げましたが、まったく存在しなかったわけでは決してありません。前機械化時代のディアスポラの典型的な例としては、ユダヤ人のディアスポラがあります。ユダヤ人のディアスポラは、同じく宗教的な絆で結ばれた後年の他のディアスポラとともに、いまなお存続しています。後代のものとしては、ゾロアスター教徒のディアスポラなどがそれに当たります。
 しかし現代においては、宗教以外の面で結ばれた数多くの世界的なディアスポラが出現しています。この種のディアスポラの例としては、世界中の物理学者、医師、学生などがあげられます。今日、多くの人々にとって、一つのディアスポラヘの参加は、一つの地域組織への参加以上に大切な社会生活上の意義をもっています。たとえば、医師にとっては、ある特定の国家の市民であることよりも、医師であることのほうが重要な意義をもっているわけです。
 いくつもの異なる組織に同時に参加できるという今日のこの可能性は、個人の自由を拡大させるものです。世界的規模のディアスポラヘの帰属は、地域組織への帰属を横断して個人の自由の防塁となり、同時に全地球的な人類社会一体化への一里塚ともなっているわけです。
 池田 たしかに、国家という地域組織の枠を超えて、地球的規模のディアスポラに参加できるということは、個人の自由の拡大に、より大きな可能性を与えるものです。しかしながら、現代のそうした組織が現実に個人の自由を拡大しているかどうかという点になると、疑問をもたざるをえません。
 たとえば、複数の組織に同時に帰属することによって、人間はかえって微妙な立場に追い込まれるという面があります。つまり、それぞれの組織には規律があり、個人に種々の義務を課していますが、一つの組織に従うことが、往々にして他の組織の要求や目的に反する結果を生む場合があります。もちろん、その結果として成員が受ける報復は、かつて専制国家などでみられた直接的・物理的な強制力とは違って、国家権力ないしはそれに直結したもの以外は、すべて間接的・心理的なものとなります。今日、多くの人々を縛るそうした問接的・心理的な強制力は、間接的・心理的であるがゆえに、第三者にはその辛さは往々にして理解しがたいものですが、当人にしてみれば、それは物理的・直接的な報復にまさるとも劣らないものでしょう。ときには、そのストレスのために精神的な変調をきたす場合も少なくありません。このように、複数組織への同時帰属が現代人に与えるマイナス面の影響は、看過しえないものがあると思うのです。
 トインビー ええ、数多くの異なる種類、異なる構造の組織への同時帰属は、まぎれもなく個人に自由を与えるものですが、しかし、これは時として、その個人を忠誠心の葛藤に巻き込むという代価を要求します。つまり、個人としては、両立しない二つ以上の帰属の対象に対して、そのいずれに最も忠実たるべきかという決定を迫られるわけです。このような選択の必要性というものは、それが処罰や弾圧をともなわない場合であっても、その人に破壊的な心理効果を与えるものです。
 しかしながら、広範な選択肢のなかから選ぶ権利があるということは、たった一つの組織への帰属を強制されることに比べれば、より人間の尊厳にかなっており、人間の幸福の資となるものです。一つの組織に排他的な帰属を運命づけられるだけでも、それがもし個人の意志に反して力ずくで行われるとすれば、きわめて悪いことです。さらに、個人が他に選択の道のあることを知らないがために、自らすすんで一つの制度にもっぱら排他的な帰属心を注ぎ込むとしたら、それはさらによくないことです。
 池田 それはまったくおっしゃる通りです。ところが、ここにもう一つ考えなければならないことがあります。それは、人々の組織に対する考え方、組織の人間に対する関係が、現代においても古来の習慣から抜けきれていないということです。私は、組織の時代といわれる現代において、この点が問題の核心をなしていると思うのです。つまり、組織が主であって人間は従であるという観念が、いまだに多くの場面にしみついているという事実です。
 これについて最も大事なことは、いうまでもなく、組織の形成それ自体が人間の種々の欲求を満たす必要性から行われたものである以上、常に組織は個人から出発し、個人に帰着する、そして個人を守るという原点に立ち戻ることだと思います。この点についての意識が各人の主体性、すなわち自己の行動と組織の決定・運営に対する主体的な判断を生み出し、決定していくことになるでしょう。私は、各人がこの主体的意識を自ら強く育成していくことが必要だと感ずるのです。
 また、組織を運営する立場の人々がとるべき態度として、とくに心得なければならないのは、組織を機械視してはならない、むしろ高度な有機的生命体としてみるべきであるという点です。なぜなら、組織を構成する″部分″は、たとえそれがいかに小さい部分であっても人間自体なのであり、すでに一つの全体的存在であるからです。つまり、個人は組織の部分でありながら、組織全体よりも尊いのだと考えなければなりません。個は全体のなかにあり、全体は個のなかにおさまる――私は、これが組織運営者のもつべき基本的な考え方でなければならないと考えます。と同時に、それはまた個人個人の自覚ともならなければならないでしょう。
 トインビー あらゆる種類の組織の存在理由は、その成員である個々の人間の福祉にあるとのご意見に、私も全面的に賛成です。制度の維持や拡大のために、人々の福祉を二の次にしたり犠牲にすることは、制度と人間の適正な関係を転倒させることにほかなりません。そしてまた、これはわれわれが常に警戒を怠ってはならない悪です。なぜなら、制度の管理に責任をもつ権威者というものは、その成員の福祉に制度を奉仕させるのが本来最大の義務であるにもかかわらず、常に制度の維持という、付随的で当座だけの義務を優先させたいという気持ちになりがちなものだからです。
 これは、あらゆる制度の価値をはかる試金石となります。もしある制度がこの試練に耐えられないとするならば、その制度は改革するか、あるいは廃止すべきです。そうした状況に陥りながら、なおそれをそのまま変革せずに維持しようというのは、反社会的な行為となってしまいます。
 池田 そうした組織悪を防ぐには、組織が人間のためにあるのであって、人間が組織のためにあるのではないという前提に立ち、成員一人一人が、組織の目的と現状が合致しているかどうかを常に判断できる英知、そして必要とあらば現状の改革に取り組む判断力、実行力をもつことが大切でしょう。
 しかもこの組織と人間という問題が、今後ますます人間にとってその幸・不幸に密接に結びつく、重要な課題となっていくことは確かでしょう。かつてある人の言葉に、人間は政治に関しては過去に成功したことがないという一節がありましたが、いつまでも失敗の連続では人類の悲惨は永久になくなりません。人間は何よりもそれを成功に導くために、最大の努力を傾注していかなければなりません。そのためにも、人間と組織の関係について正しい認識をもつことが必要だと思います。

1
1