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日蓮大聖人・池田大作

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1 新しい労働運動のあり方  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 今日、労働運動は一つの転換期に直面しているといえます。たとえば、これまで運動の主眼点であった経済的要求の面に加えて、それよりもむしろ各人が能力を存分に発揮できるような労働条件の要求のほうが比重を増してきています。また、労働者の社会的意識の向上から、自分の働いている工場が環境汚染源であったり、あるいは兵器産業であるような場合、そうした事態への抗議が運動の目的になっているという例もみられます。
 さらに、社会全般の政治化現象を反映して、労働組合が特定政党の支持母体となって、組合幹部は議員候補の訓練生のようになり、そうした野心家たちと一般組合員との間に意識の断絶を深めている傾向もみられます。
 こうしたさまざまな問題がありますが、労働運動において最も基本となる、労働者と雇用者の関係からふれていきたいと思います。
 労使という階級意識は、欧米におけるそれに比べて、日本の場合はあまり明確ではないように思われます。といいますのは、博士もよくご存じのように、日本においては企業内家族主義といえるような、温情的雰囲気が伝統的に強いからです。これは封建時代の家内企業の名残ともいうべきもので、今日の巨大化した近代企業においても、労使が対立するのではなく、企業全体の繁栄のために力を合わせていこうという考え方があります。おそらく、自由競争経済体制のもとでは、企業自体の死活が問題であって、労働者の運命も結局はそれによって決まってしまうという意識がしみついているからでしょう。
 こうした家族主義的労使関係は、社会学者の説によりますと、日本独特の現象だとされています。しかし、私は、やがては日本だけの問題ではなくなっていくのではないかと思います。たとえば、フオードとベンツが激しく競争しているとき、フォードの労働者が、ベンツの労働者に対するよりも、同じフォードの経営者に対して、より深い親密感をもつのは当然のことではないでしょうか。
 トインビー これまでのところ、日本はイギリスよりも恵まれた労使関係を享受しています。イギリスでは、すでに産業革命が起こる以前から、企業内家族主義的な伝統は消滅していました。
 雇用者たちは、工業化の初期の段階で、すでに新興の産業労働者階級を情け容赦なく搾取していました。これに対して、労働者たちは、最終的には社会主義が私企業に取って代わるのを待ち望むことで自らを慰めていました。彼らは、やがては国家が国全体の経済生活を支配するようになり、統制化によって社会正義を実現してくれるだろうと期待していたのです。こうして、社会主義国家の実現を待つ間、イギリスの労働者たちは労働組合を結成し、それによって搾取から身を守ろうとしました。イギリスはまだ社会主義国家にはなっておりません。ところが、労働組合のほうは十分強大化して、いまや自衛的な姿勢から攻撃的な姿勢へと転じています。
 労働者の力がこのように強まったのは、一つには、同業の仲間たちをより広範に組織化していった彼ら自身の行動力によるものですが、もう一つには、イギリス社会自体が、ストライキによる混乱の打撃にますます脆くなってきたことにも起因しています。技術の進歩にともない、社会全体がガス、電気、水道、郵便など公共事業への依存度を高めたため、いまではこれら基幹産業の組合労働者たちは、国家経済にダメージを与えたり、さらには国民生活をマヒさせたりして、賃上げを強要できるまでになりました。この結果、労働組合は、かつては無節操な競争的私企業の犠牲者だったのが、今日では事実上その受益者となっているのです。今日、組合労働者たちは社会主義政策に対して――つまり、法令による物価統制とか所得上限規制に対して――彼らの一雇い主である資本家よりも、かえって強く反対するまでになっています。
 池田 たしかにそうした傾向もまた、新しい時代の労働運動のあり方を考えるうえで考慮しなければならない、大きな要素ですね。
 トインビー これは将来を考えるうえでももちろん大事な点です。しかし、今日の時点で、すでに非常に重要になっています。不幸なことに、今日のイギリスには再び階級闘争が起こっています。しかし、これに参加している各階級の階級間区分線は、新しいものです。
 産業設備がきわめて高価になっている今日、ストライキがもたらす生産ストップは、産業労働力2雇用者側にとっては破滅的なものとなります。そのため、一雇用者としては、労働者の賃上げ要求には譲歩しがちであり、その代わりに自社製品の消費者価格を釣り上げることによって、損失を埋め合わそうとする傾向があります。
 今日のイギリスの階級闘争は、二つのグループの間で争われています。すなわち、一方のグループは、社会にとって不可欠の仕事に従事して、より高い賃金を得るか、あるいは生活必需品の消費者価格を釣り上げるかによって増収を図る力をもつ人々であり、もう一方は、そのいずれの手段を講じる力ももたない人々です。このうち、前者の階級には、産業労働力2雇用者と被雇用者がともに含まれています。
 もちろん、名目賃金や物価の上昇というものは、いくぶん幻影的なものです。名目賃金・物価の上昇と生産の増加との間には時間のずれがあり、その間、貨幣価値そのものは下落しているからです。にもかかわらず、産業経営者や組合労働者たちは、名目賃金や物価を絶えず引き上げることによってインフレを埋め合わせることができます。これに対して、社会の他の人々は、たとえ貨幣価値が下落してもそうすることができず、決まった収入でやりくりしていかざるをえません。こうして、実質的には、賃金を増大できる人々や、製品の価格引き上げを要求できる人々は、そうでない人々からかすめ取っていることになります。
 私は日本にもこれと同じような事態が生じていると思いますが、もしそうでないとしたらそれは私にとって驚きです。日本では、一雇用者と労働者が、イギリスの場合よりもずっとよく協力し合っているからです。いいかえれば、もし日本の経営者と労働者が、消費者を踏みつけることなしにそうした協調関係を保っているとしたら、それこそ私にとっては驚きなのです。
 池田 残念ながら、ご指摘のようなことは日本でも最近、とくにこの十年間、顕著にみられる傾向です。
 ほんの一例をあげても、たとえば鉄道輸送機関は庶民にとって欠かすことのできない″足″ですが、賃上げ要求の紛争によってしばしばマヒ状態に陥ります。その結果、賃上げが認められると、今度は事業の赤字を埋めるため輸送費の値上げが行われ、庶民は二重に苦しめられるわけです。そんなことが毎年のように繰り返されているのが実情なのです。
 トインビー まことに不当なことですね。ただし皮肉なことに、賃上げ要求というものは、時として、その要求者自身にも損害を与えるものです。
 賃金や価格を頻繁に引き上げると、その企業は他のライバル産業との競争において対抗しきれなくなってしまいます。たとえば、現在のイギリスでも、賃金・価格の上昇にともなって、失業者の数がふくれあがり、破産者も増加しつつあります。それでも、これまでのところ、こうした雇用状況の悪化も、まだ基幹産業の労働者たちに、彼らがその相変わらず駆け引きに強い立場をフルに利用するのを、思いとどまらすところまではいっていません。
 池田 そのように、労働運動のあり方が一つの歴史的・社会的試練に直面している現在、われわれはこれを根本的に再検討する必要があるわけです。
 そこで私が思うことは、かつて労働運動が起こった本来の動機と目的は、もちろん労働者の権利の保障と労働条件の改善にあったわけですが、なおこれに加えて、人間が生きていくうえでの諸権利の要求や、人間の生存を脅かす社会の病弊に対する抗議なども、新しい目標となりうるということです。これは基本的には、欲望の追求を優先した運動から、もっと本源的な人間防衛の運動の展開ということになりましょう。ただし、もちろんそれによって労働運動の本来の目的が忘れ去られ、現実から遊離した運動になってしまってはなりませんが――。
 トインビー 新しい運動は、大いに渇望されるべきです。このままの事態が続くかぎり、決して明るい見通しは立たないと思われるからです。
 ここで私の考えを結論的に申し上げれば、自由競争経済下の私企業は、そのすべての当事者が自らの貪欲さを抑制できずにいるため、結局は自らに死の宣告を下している、ということです。自由競争経済の企業の思想における倫理的前提は――いや、むしろ非倫理的前提というべきでしょうが――「貪欲は美徳であって悪徳ではない」という考えです。しかし、この前提は真実に反するものであり、その誤りは報復をもたらします。抑制なき貪欲は、その自殺的な先見性のなさのゆえに、自己破滅を招くのです。
 私は、最大限の私利追求を生産の動機としているあらゆる工業国において、自由競争経済はやがて機能がマヒしてしまうものと信じています。そして、こうした事態が起きると、やがては独裁政権によって社会主義が実施されることになるでしょう。これはしかし、一雇用者だけでなく労働者たちからも、同じくらい激しい抵抗を受けるはずです。なぜなら、すでに労働者たちは、かつて彼らの歴史の第一段階では自分たちを搾取した当の体制自体から、今日では、たとえ一時的であるにせよ、恩恵をこうむっているからです。
 私は、社会主義の到来を予測する点では、一見、マルクス主義者のようにみえるかもしれませんが、倫理的判断のうえではマルクス主義者ではありません。マルクスは労働力2雇用者を侮蔑し、労働者たちを理想視しました。これに対して、レーニンは労働者に幻滅し、やがて彼らに圧力を加えました。私の見解では、マルクスが当時2雇用者たちに加えた酷評は、そのまま今日の労働者たちに当てはまります。人間の本性は、一雇用者も労働者も同じなのです。
 池田 まったくおっしゃる通りです。われわれは、人間のもつその普遍的な本性を正しく見きわめ、そこから変革の原理を確立していかなければなりませんね。従来の変革への試みは、人間自身への究明が不十分なままに、体制や機構の改革だけで社会を変革しようとしてきたところに、ある一面では成功を収めても、全体としてみれば失敗してきた根本原因があったと思います。
 トインビー 人間の本性は貪欲なものです。そして、この貪欲性は、抑制されないかぎり大きな不幸を導くことでしょう。したがって、私は、他のあらゆる人間の活動と同じく経済活動においても、自己超克こそが自己救済への唯一の道であると信じます。
 あなたはさきに、労働運動の目標を欲望充足の追求から、より本源的な人間防衛への探求に転ずる必要がある、と述べられました。この点、私も同感です。しかし、この転換は自主的にはなされないのではないかと思われます。私は、それは一つの独裁的政権によって押しつけられるのではないかと心配するのです。そこでは、あらゆる生産工程にたずさわる当事者たちが、すべてこの体制に身をゆだねざるをえなくなるでしょう。彼らはそれを、現在の私企業制度がもたらすであろう全面的な経済恐慌に比べれば、独裁体制のほうが同じ悪でもまだましだとして、しぶしぶ認めることでしょう。
 なお、私の予想するこの独裁体制が、それにゆだねられた革命の使命遂行に成功するならば、次いで、より民主的に″世界国家″の市民を代表する、より穏健な政権がこれに取って代わることでしょう――しかも、この政権は何らかの形の世界的独裁権を基盤としたものであるに違いないと私は思うのです。
 池田 他のあらゆる人間の活動と同じく、経済活動においても自己超克こそが自己救済への唯一の道であるという、博士のご主張には私もまったく賛成です。
 しかし、同時に博士は、労働運動における目標が、欲望追求から人間存在の本源の探求へと転換されるべき点については、それは自主的にはなされず、何らかの独裁制によって達成されるだろうとの見解を示されました。これに対しては、私は一種の不安をいだいて受けとめざるをえません。もちろん、こうした博士のご見解はあくまでも歴史家としての客観的な推測であって、人類が未来に歩むべき必然の道ではないと了解しますが――。
 トインビー もちろんそうではありません。私は、独裁制の確立を望むものではありません。むしろ恐れております。独裁制はそれ自体、絶対悪です。
 ところが、過去においては、独裁制はしばしば社会の大変革にともなう不可避の代償の一部となってきました。これまで諸民族が、いかに不本意であっても独裁制を容認してきたのは、自分たちで提示したり想像したりできるどんな代案よりも、独裁制のほうがまだ小さな悪であるようにみえたからです。つまり、もはや機能を失ったとわかった体制を社会から取り除くよりは、独裁制を打ち立ててしまうほ
 うが、はるかに容易だったのです。
 日本の徳川家康、漢の劉邦、ローマ帝国のアウグストゥスは、いずれも独裁者でした。この二人は、彼らの前任者たち――豊臣秀吉、秦の始皇帝、ジュリアス・シーザーーーの創立した似たような体制が失敗に終わったにもかかわらず、いずれも永続的な独裁制の樹立に成功しています。これはなぜでしょうか。彼らの成功の因は、一般世論が、より大きな悪を避けるためにはやむをえないと考える範囲内に、その独裁色を抑えたことにありました。独裁制は、当時、社会的・政治的無秩序という、より大きな悪を前もって防ぐための、より小さな悪として選ばれたのです。人間は必ずしも、独裁制を自ら招くように運命づけられているわけではありません。しかし、独裁制が出現するとき、それこそは抑制を失った利己主義と反社会的行為に対する報いなのです。私は、現在の世界の安定化は――少なくとも物質面の安定化は――ある程度の独裁力によらなければ、あるいは不可能かもしれないという危惧をいだくのです。
 池田 おっしゃる意味はよくわかります。たしかに、今日の労働運動における自由放任主義や、経済活動における欲望追求第一主義が大多数の民衆の生活を圧迫し、社会生活を無秩序に陥れていることは、独裁制への移行を推し進める契機となりうるでしょう。また、労働組合の指導者や企業の経営者たちが、一般民衆を自分たちの犠牲にしてもかまわないという態度を改めないかぎり、独裁制による新しい秩序を期待する機運が強まっていくことは、避けられないかもしれません。
 しかし、このような一見不可避にみえる動向に対しても、これを食い止める道は残されていると私は信じますし、そのために、人類は最大限の努力をすべきであると考えます。たとえば、私が冒頭にあげた公害産業や兵器産業における組合の抵抗の例は、自己の欲望追求のためではなく、社会全体の平和と人々の幸福を守るために立ち上がったケースです。こうした目標のもとに組合労働者たちが団結するに至ったかげには、組合員による自己変革の戦いがあったといえましょう。しかもそこには、利己という本能的欲求ではなく、社会全体の人々の幸福を守る利他主義の、いわば宗教的ともいえる信念が基盤にあったと思われるのです。さらに、そうした信念に加えて、社会の全体的見地から、企業が撒き散らす廃棄物の恐ろしさや、その生産品が人類にもたらす脅威を考える英知もあったに違いないと思います。
 こうした例にみられるように、労働運動の指導者や組合員たちが、宗教を根底とした信念と広い見識と勇気をもって、社会全体の調和をめざす努力をしていくならば、私は、今日の労働運動の帰結が、あながち収拾のつかない社会的無秩序に陥ることはないと信じます。ただし、ここに私のいう自己変革の条件とは、あらゆる人間同胞の苦悩を自己の生命の奥深くに、痛く感じることのできる人格の確立であり、また社会全体との調和を図りうる人格とは、慈悲の精神に満ちた人間性のことです。
 もとよりこうした自已変革への戦いは、決して容易な道ではありません。そこには厳しい宗教的実践が要求されましょう。しかし、私は、人間生命のあり方を正しく説き明かした真実の生命哲学、宗教によるならば、人類が自己変革を成し遂げていくことは可能であると信じるのです。

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