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日蓮大聖人・池田大作

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7 産児制限と家族数  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 産児制限という問題は、たんに個々の家庭の経済が絡んでいる問題であるというにとどまらず、人口問題という、人類が抱えている大きな課題を解決する一つのカギであるといえましょう。
 現代のいわゆる人口爆発の主役である発展途上国において、産児制限がよりよく行われることが、人口問題解決にとって大変に重要であることはよく知られていますが、その実現には種々の障壁が横たわっています。
 一つは道徳観の問題です。人間という崇高な存在を、人為的に出産を制限することによって事前に抹消することは、道徳的に許されるべきでないという根強い考え方があるからです。子供を″神からの授かりもの″とする思想がその主流をなしているようです。
 私は、宗教人として、人間生命の至高かつかけがえのない価値を深く認識しているつもりですし、あらゆる人間の行動は生命の尊厳への認識に立たねばならないと強く信じております。
 しかし、受胎前に出産を制限し、人間が誕生する可能性を、あらかじめいくらかなくすことは、決して生命の尊厳を踏みにじるものではないと考えています。まして、そのことによって、発展途上国における慨瀧離が鮮席状態が続稽される一助ともなれば、それこそ、より現実的に生命を慈しみ尊ぶことになると思うのです。人類が生き延びるため、産児制限をすることが少なくとも効果的である以上、この推進を考えていかなくてはならないでしよう。
 トインビー 最近に至って、科学の進歩は人間の性関係の問題に二通りの影響を投げかけています。まず、科学は早死率――とくに嬰児や産婦の死亡率――を低下させ、平均寿命を延ばしています。これはいわゆる先進諸国だけでなく、発展途上国にもみられることです。次に、科学は、効果的な、しかも明らかに身体に害のない避妊法を見いだしました。このため、女性は妊娠という当然の責務を負うことなしに、性行為をなしうるようになったわけです。
 こうした科学による二つの影響のうち、第一の影響が引き起こしたのが、人口爆発でした。死亡率のほうは、汚染のない水を供給するとか、了フリア病原体の根絶とかいった公衆衛生対策によって、速やかに、また容易に低下させることができます。しかし、出生率の低下のためには、各個人の自主的な行動が要請されます。これには、まず新しい科学的避妊法の知識をもち、それに慣れることが必要であり、同時にこれまでの、産めるだけ子供を産むという人類の伝統的慣習から訣別することも必要となります。結局、すでに達成された死亡率の低下を相殺するための、産児制限の採用が最も遅れているのが、発展途上国ということになります。しかも、これら発展途上国に住む人々の数は、人類のうちの最も多くを占め、また最も貧しいのです。
 この、子供をできるだけ産むという衝動は、あらゆる他種の生物の場合と同じく、本来、人間にそなわった衝動であり、種の存続を確実ならしめるための企てなのです。もちろん、この企てという意図を含んだ言葉を、ここでは字義通りに受け取るべきではありませんが――。
2  この自然の衝動は、人間にあっては宗教的な裁可という形をとって合理的に説明されてきました。たとえば、人間は、死者の霊を弔うのに必要な儀式を執り行わすため、必ず男児の子孫を産み残さなければならないと信じられてきました。あるいは、ユダヤ系宗教の教義にみられるように、人間は神から「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ」ユダヤ教では『モーゼの五書』、キリスト教では『旧約聖』の創世記第一章二十八節)と命じられている、と信じられてきたのです。
 池田 生命は尊いのだから産めるだけ産むべきだ、あるいは産むことを阻止すべきではない――という考え方は、もはや改めるべきですね。もしそうした考え方を変えないなら、深刻な事態を引き起こし、かえって生命の尊厳を失ってしまうことになるでしよう。
 さらに、古来「子供を産むことが、男としての生殖能力と、女としての能力を示すことである」とする、素朴な考え方があります。こうした意識に対しては、産児制限の重要性を根気強く啓蒙していく以外にないでしょう。宗教的な規制を加えることは、かえってこの問題をむずかしくすることでしょう。
 トインビー 産めるだけ産めという宗教的な誠告はあくまで仮想上のものですが、私にいわせればこれは迷信にほかならず、実際には何の真実性もないし、道徳的な拘束力をもつものでもありません。にもかかわらず、これが人間の心理に重圧を加えており、人生の最も私的な行為の一つを営むうえで、古来の慣習から訣別するのをますます困難にしているのです。
 この点、私は、最近のローマ法王パウロ六世による法令を遺憾に思っています。それは、いかなる人工的な産児制限の方法も用いないという伝統的なローマ・カトリックの禁止令を再確認し、ただ例外として、女性の生理的周期のうち最も妊娠しやすい時期だけは性行為を避けてもよいという指示でした。しかし、こうした例外を許すというのは、道理に合わないことです。なぜなら、計算によって性行為を周期的に避けることは、人間が自然の運行を意図的に妨げることであり、その点では避妊薬具の使用と大差ないからです。
 私は、これに関する判断の基準は、宗教上の法令や禁止令と考えられているものではなく、人間の尊厳の維持という点におかなければならないと主張するものです。
 人間のもつ科学力が、死亡率の低下と出生率の制限をもたらす術を発見するまでは、人間は、他の自衛手段をもたない動物、たとえばウサギなどと同じく、屈辱的な立場にありました。ウサギの社会では天敵による殺害がなされますが、人間社会でもかつて似たようなことが行われていたのです。ただし、人間の場合は、文明の発祥以来、その最も恐ろしい殺鶉者となってきたのは、細菌やビールスを別とすれば、じつはほかならぬ人間自身でした。このため、人間の社会でもウサギの社会と同様、最大限の犠牲者数を相殺するために、最大限の出産をしてきたのでした。
 人間がウサギと同じ行動をとるというのは、人間にとっては威厳を失うことになります。ウサギには失うべき威厳がありませんが、人間は威厳を失うということがありえますし、またこの場合、実際に失っていることになります。こうした威厳の喪失というものは、科学の進歩によってそれが必要でもなければ望ましくもなくなっているいまの時代にあっては、人間自身が自ら招いたものといえます。
 池田 産児制限を考える場合、人間の尊厳を基準とすべきだとのご主張には、私もまったく同感です。宗教の命じていることも――たとえばカトリックの禁止令にしても――かつては人間の尊厳性を守ろうとしたものであったと思います。しかし、時代的条件が変わり、もはやその同じ方法ではかえって尊厳性を損なってしまう場合には、その方法を改めるか、やめる以外にありません。そして、真に人間の尊厳性を守る別の方法をとることが、宗教の精神に合致した行き方になるわけです。
 トインビー 人間の尊厳のためには、最大限ではなく、最適数の子供を産むことが要求されます。この最適数とは、ある時代、ある場所の科学技術の状況や社会的な条件のもとで、そこに生まれてくる子供たちにも社会全体にも、最適の生活水準をもたらすような数――と定義づけることができます。ただし、この生活水準とは、あくまで精神的な意味での水準と考えるべきです。そして、物質的水準は精神的な目標を達成する一つの手段とみなすべきで、それ自体を自己目的化してはなりません。
 われわれは、科学の進歩によって手にした新たな力を、人間の精神的福祉のために使用することを、宗教的禁止令によって妨害されてはなりません。もちろん、性交が妊娠に結びつくのを防ぐ力が、尊厳も愛もない性欲の満足という目的に誤用される可能性もあります。しかし、その反面、この力は、子供たち、母親たち、そして社会自体の福祉のために、有益に利用することもできます。避妊法というこの新しい力を若者たちが誤用しないよう、われわれが最大の努力を払って彼らを導くべきであるのは当然ですが、福祉へのこの力の活用は、少しも差し控えてはならないのです。
 池田 私は、産児制限には、民衆に知識を普及することとともに、国家が経済的にバックアップすることも必要であると思います。さらに、産児制限を推進していくうえで起こる派生的な問題にいかに対処するかも、十分に考慮に入れておかなければなりません。いま博士が指摘された、産児制限の技術が普及することによってセックスに対する快楽主義が横行することも、その一つです。また、家族構成が小単位になって住居の問題が出てくるといったことも考慮しなければならないでしょう。さらに、若年層が減ることによって労働人口が減り、老年層の占める割合が増すという、人口構成上の変化もあります。これは、産業にもかなり大きな影響を与えますから、省力化等の対策を講じなければならなくなるでしょう。産児制限を進めるにあたっては、このような種々の要因を勘案しなければならないと思うのです。
 トインビー 出産数が急減すると、一社会内でそれぞれの年代層が占める割合に不均衡をきたすことになるとのご指摘ですが、そうした不均衡は一時的なものにすぎないでしょう。たしかに老齢者の数は相対的に一時増えるでしょうが、それはやがて、就労年限が平均的に延びることによって相殺されることでしょう。これは、公的にも私的にも栄養や医療が改善されることによって実現されるはずです。
 じつは人類は、避妊薬具を発見する以前には、もっと非人道的なやり方で人口を制限していたのです。たとえば、ギリシャで起こった人口爆発は紀元前八世紀から同二世紀まで続きましたが、この間、ふくれあがったギリシャ人口は、遠くフランスやスベインの地中海沿岸、黒海の北岸、アフガニスタン、パンジャブ地方、エジプト、東リビアなどの諸地域へと伸張していきました。そのとき、ギリシャ人はこの異常な人口増加を人為的な方法で阻止しました。彼らはこれを、嬰児――とくに女児――を風雨にさらしたり捨てたりする残酷な嬰児殺しや、心理的な害をもたらす同性愛の慣行によって行ったのです。またチベットでは、タントラ派の大乗仏教に改宗して以来、大勢の男児に僧院での独身生活を送らせるという、より文明的なやり方で人口を制限してきました。
 日本では徳川体制のもとでは人口が安定していましたが、明治維新以後爆発的に増加しました。そして、第二次世界大戦以後は再び安定しています。ただし、これは一八六八年以前の人口よりもはるかに大きな人口での安定です。私は、日本人の大多数が、この最近の人口安定を、望ましいだけでなく、どうしても必要なことと考えていると思います。また、新しい科学的な避妊の方法に対しても、かつてやむをえずとっていた他の手段よりも好ましいとして、歓迎しているものと思います。こうした私の認識は正しいでしょうか。
 池田 ええ、その通りです。日本の人口は、明治五年(一八七二年)の戸籍調査によりますと、約三千五百万人でしたが、昭和十一年(一九三六年)にはほぼ倍の七千万人に達し、現在では一億人余を数えています。
 日本は、狭い国土のうえ山岳地帯が多く、可住地当たりの人口密度は非常に高くて、とくに都市部では、人口が限界点に達しています。幸いなことには、食糧事情においてはまだ餓死者を出すような状況からほど遠いようですが、しかし、生活空間という面からいえば、人間としての尊厳、精神的な豊かさを維持することが、かなり困難になっています。したがって、日本人の多くが、人口の抑制はどうしても必要だと考えていることは、博士のご指摘の通りです。
 かつては日本でも、食糧難のゆえに″口減らし″とか″間引き″とかいわれる、せっかく生まれ出た生命を摘みとる風習が横行していた時代があります。しかし、今日、われわれは、どんなことがあっても、生まれ出た生命の尊厳を傷つけるような愚かさを決して繰り返してならないのは、いうまでもありません。その点では、現代の日本人は、かつてのこのような愚行を否定し、科学的方法をすすんでとっています。また、日本には、宗教的な理由から科学的な避妊を否定するという考え方は、あまりみられません。
 ただし、今日、世界的な傾向の影響を受けて、日本でも、避妊薬具の普及にともない、生殖のための性行為とはほとんど無関係に、快楽のためだけに性行為を行うことが当たり前のように考えられ始めています。その結果、フリーセックス時代を招来して、恋愛から結婚、そして出産、という図式が否定されかねない傾向が強まっています。これは、現代科学がもたらした快楽追求の増幅作用の、もう一つの大きな問題だと思います。
 トインビー おっしゃる通り、もし性的快楽が、恋愛、結婚、出産という図式から分離されてしまうと、男女両性の関係はまるで人間性のないものになってしまいます。そこでは性欲の充足が、飢えや渇きを鎮めるのと同じレベルに堕してしまうでしょう。一個の人格にとって、性的関係を結ぶべき相手の人間の身体との関係が、ちょうど、その人と飲食物との関係のようになってしまうのです。これはもはや、人間対人間の関係ではありません。しかも、人間同士が互いに非人間的な関係をもつということは、双方を堕落させることになります。性的関係とは、そこに相互の愛情と価値ある共通の人生目的がともなって、初めて人間的なものとなるのです。
 普通、結婚の目的は子供を産み、育てることにあります。ただし、結婚した一組の夫婦がもつ子供の数は、今日では最大限の数である必要はなく、またそうであってはなりません。医学の進歩によって、死亡率、とくに乳幼児の死亡率が、低下してきているからです。
 池田 一説によれば、一夫婦がつくる子供の数は、二人ぐらいに抑える必要があるといわれています。さらに何人かの学者は、将来、子供を三人以上つくった夫婦を罪人として罰すべきだとまで極論しているくらいです。
 そうした法的な規制の是非はともかくとして、将来、何らかの抑制措置を講ずることは、私も必要であろうと考えます。博士は、当面の措置としては、どういう方法が最も現実的だとお考えですか。
 トインビー 一家族の子供数の縮小は、できるだけ自主的になされるべきです。しかし産めるだけ産むという昔からの、深く根強い習慣を変えるのを、もっぱら自主性だけに任せていたのでは、必要なだけの数の縮小は実現しそうにありません。そこで、私は、将来、社会が、なかんずく公的機関が、出産数に対する強制的な規制を加えざるをえなくなるだろうと予想します。
 過去においては、出生児の数は、当然のことながら両親だけの関心事であるとみなされていました。もちろんこれまでにも、子供をたくさん産んで大家族にすることが、公的機関によって積極的に、ないしは少なくとも消極的な形で、督励されるというケースはありました。しかし、いかなる全体主義的な政府も、一家の家族数の増減に対して直接的な措置を加えることだけは、これまで差し控えてきています。
 しかし、私の予想では、出生児の数は、もはやたんに両親だけの私的な関心事にとどまらず、社会全体の関心事として認識されることになると思うのです。しかも、それは政治上の非常措置といった、実際的な形でなされることでしょう。そこでは公的機関が、権利と義務をもって家族計画に介入するばかりか、効果的な処置を講じるようになり、その最終決定権は両親よりもむしろ公的機関が握ることになるでしょう。
 池田 私も、公的機関による出産数に対する何らかの規制措置は、やむをえないだろうと考えます。もちろん、出産数を減らすことは、市民の間で自発的に行われ、慣習化していくことが望ましいわけですが、それが芽ばえてくるのを待つ間に、絶望的な状況を招いてしまう恐れが多分にあるわけです。
 ところで、このような人口抑制手段がとられた場合、いろいろな問題が起こってくることが予想されます。人類は、人口を増やす方向を当然の行き方と考え、社会機構も生活倫理も、それを前提として打ち立てられてきました。その大前提が変わるのですから、これは非常に大きな問題だと思うのです。
 そうした問題の一つとして、私は教育の問題があると思います。子供の数を少なくすることは、子供の人格形成や教育のためには不利な条件になることも考えられます。つまり、子供の数が少ないと、親はともすると、いわゆる″猫可愛がり″に傾くため、子供は両親への依頼心が強くなり、わがままな、自立心の弱い子になりがちのようです。日本でも、戦前は子供五人というのが一般家庭の平均でしたが、戦後は多くても三人です。そうした兄弟数の少なさが子供の人格形成に与える影響には、見逃せないものがあるでしょう。
 トインビー 思い切った出産数の削減は、それが自発的なものであれ強制的に行われたものであれ、地球全体の破局という、誰もが承服できない事態に代わる唯一の道として、広く世論に迎え入れられていくように思われます。ただし、地球の破局よりは出産数の思い切った削減のほうがまだましだとしても、そこにはまた厄介な影響が生じてくることでしょう。そうした影響には一時的なものもあれば、永久に尾をひく問題もあるはずです。
 一時的な影響の一つとして、各年代層間の正常な数的均衡が崩れるでしょう。そのため、一世代ないし二世代の期間というものは、そのとき壮年期にあるきわめて少数の人々が、老年層や若年層を支えていかざるをえないでしょう。
 また、永続的で好ましくない影響として考えられるのは、家族の平均的規模が縮小することでしょう。各夫婦が法定限度までしか子供を産むことを許可されないとした場合、人類全体の立場からは――生物圏との関連からいえば――最適の数となるような一家族平均の子供数も、ひるがえって個々の子供自身の福祉という観点からみるならば、今度は少なすぎるということになるでしょう。
 昔、普通よくみられた比較的大規模な家庭にあっては、子供たちは両親から教育を受けるだけでなく、子供同士でも互いに教育し合ったものです。互いに仲良く暮らし、世話をし合うことを学ぶのは、子供たちの社会性を養ううえで、最も重要な教育的要素の一つとなっていました。しかも、これこそ人間教育の核心をなすものです。なぜなら、人間は社会的動物であり、その社会性が適正に伸ばされなければ生きていけない存在だからです。六人の子供がいる家庭といえば、それはすでに一つの小さな社会であり、しかもそれ自体に、正式とはいえないまでも有力な、社会教育上の効果があるものです。これと同じ効果は、子供の数がせいぜい二、三人に限られた家庭からは生まれません。
 池田 子供同士が接し合うことは、たんなる知識の伝承よりももっと大きい、人格形成という点で重要です。大人は、子供に対する場合、どうしても相手を子供として扱いがちです。子供同士の場合は、あくまでも相手を対等の一個の人格として接します。そうした関係を通じて、子供は自分のわがままを抑えるべきことを学び、男の子は自分より弱い女の子をどう扱うべきかを学びとっていきます。
 これは、同じ家族のなかでの兄弟姉妹間にもみられますし、一つの地域のなかでも、近隣の子供たちが集まって一つの子供集団が形成されるなかにみられることです。ところが子供の数が少ない場合、どうしても子供同士の関係よりも、両親と子供との関係のほうが強くなってしまいます。
 トインビー そこで、子供の数が子供自身のために最低限必要な数を割らない家庭を、いかにしてつくりだすかが問題となります。われわれは、子供だけの小社会で育つという子供自身の利益と、出産率を減らすという人類全体の利益とを両立させる、何らかの方法を探し出さなければなりません。
 この二つの利益の衝突は、残念ながら現代社会の都市化地域では当たり前になっている、小規模構成の家庭で起きております。典型的な都会的家庭は、いまや一組の夫婦に未成年の子供たちという構成に限られています。しかし、こうした小家族というものは、ごく最近の現象にすぎません。それは、過去三百年間にその数が増大した人類のうちの少数者が、工業化、都市化を推し進めてきた産物なのです。
 いずれの人間社会にあっても、伝統的な家族とは、祖父母たち、息子や娘とその連れ合いたち、それにその子供たちからなる三代家族でした。こうした伝統的構成の三代家族にあっては、いとこ同士は互いに同居家族として育てられるか、少なくとも隣人同士として育てられるものです。したがって、いとこ同士の関係は、まるで兄弟姉妹のように親密になります。また、たとえ各夫婦の子供数が――自発的にせよ強制的にせよ――最大限二、二人に限られたとした場合でも、三代家族にあっては、子供たちが小社会を形成するだけの人数はそろっていることになります。
 こうした伝統的な三代家族は、現代社会でも、地域によってはいまなお残っているところもありますが、はたして今後とも存続できるものでしょうか。また、すでに二代家族へと置き換えられてしまった社会で、再び三代家族を確立することははたしてできるでしょうか。人類のうちすでに都市化してしまった少数者にとっては、この問題の解決は困難になりつつあります。部分的な解決ならば、今日の巨大な都市人口を農村に復帰させることのなかに見いだせるかもしれません。しかし、そうした農村への復帰は漸次的にしか行えません。しかも、ある程度の都市集中化の現象は、人類の社会生活の特徴として、今後、永久的に続くものと思われます。したがって、われわれは、三代家族を都会的条件のもとでも営めるようにする、何らかの方法を考え出さなければなりません。

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