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日蓮大聖人・池田大作

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6 母親業という職業  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 子供はいわば″純白の布地″であり、そこには無限の可能性が秘められています。この子供をどのような人間に育て上げるかは、母親にとっての最大の責任であると同時に、その特権であるといえましょう。たしかに、この育児という仕事は、相当の労力と細かい心遣いを必要とする大変な仕事です。まさに母親の子供に対する限りない愛情があって、初めてできることだと思います。しかも、幼児期は無限の可能性を秘めているだけに、その時期に幼い心に植えつけられる印象は、何ものにもまして大事なものです。
 ところで、いま私が問題にしたいのは、この幼児期の教育について、一部においてではありますが、母親もしくは家庭に代わって、社会的な機関を設け、それによって行うのが未来の理想ででもあるかのように語られていることです。そのような機関によって母親を育児の負担から解放することが、あたかも真の女性の解放であるかのように論議されていることに、私は大きな疑問を感じるのです。
 トインビー まつたくおっしゃる通りで、子供の人格や気質が形づくられる幼児期にあっては、家庭環境における母親というものは、子供の教育者としてかけがえのない存在です。
 子供の性格の一部は、両親から物理的に受け継がれる遺伝子によって、決定されているものと想像されます。つまり、子供は両親の性的結合によってできるわけですが、すでにそのさいに親の性格を部分的に引き継いでいるわけです。しかしながら、人格というものは、各個人の遺伝形質と、その人の環境に対する反応とが、相互に作用し合って形成されるものです。また、人格は人生のあらゆる段階で変えていくことはできますが、その決定的な形成がなされるのは五歳までであり、この人格形成期にあって、子供が家庭で母親に育てられている場合、その環境的要因として主に寄与するのは母親の教育による影響だということは、大方の意見の一致するところのようです。
 イギリスでは、第二次世界大戦中に多くの子供が母親の手元から引き離され、人間味の乏しい施設に預けられました。これは女性の戦時動員が図られたためでした。ところで、今日ではすでに成入したこの子供たちについて、その何人かの経歴を調べた心理学者たちは、一様に、この幼児期の生活の激変は、彼らにその後いつまでも悪い後遺作用を及ぼしているという意見を述べています。
 池田 人間社会の未来は教育のいかんにかかっています。とくに″純自の布地″である幼児期において、そこにプリントされるべきものは、あくまでも人間味豊かな温かいものでなければなりません。
 今日、物質的な生産活動に関しては、何をつくるにしても男性のほうが主導権を握っていくことは避けられないでしょう。しかし、物質ではなく人間、それも非常に繊細で鋭敏な感受能力をそなえた幼児を、一人前の人間に育て上げていくという、この人間を対象とする生産活動は、男性よりも女性のほうが適しています。女性には、心の繊細な変化に対して鋭敏であるという特性、しかも、献身的な愛情を捧げるという特質があるからです。
 子供は、このように献身的な愛情をもって接してくれる母親の教えやしつけはもちろんのこと、なにげない振る舞いから感情に至るまで、全体像をそのまま敏感に吸収して、いつのまにか一個の人間としてのすべてをそなえ、人間文化の本質を受け継いでいきます。昔から、日本では子供は母親の鏡であるといわれてきましたが、いったん映った映像は容易には消えず、生涯にわたって残っていきます。社会的機関によって、いかに知能の教育を行い、知識を詰め込んだとしても、やはり母親と家庭がもたらすすべてを与えることはできないでしょう。
 トインビー 女性が自らのもつ他の才能を伸ばし、活用しながら、同時に、自身の知識や愛情を幼児に分かち与えられるようにするには、われわれは男性本位でも女性本位でもない社会、両性の利益に合致した、人間のための社会を創るよう努めなければなりません。
 人間にとって自由解放とは、いろいろな潜在能力を発揮実現できる自由のことです。そこには当然、男女に共通しない潜在能力、つまり両性の明確な生理的、心理的な特性からくる、それぞれ独自の潜在能力を発揮することの自由も含まれます。
 池田 男女が、ともにそのもてる能力を十分に発揮できる社会を築かねばならない、という博士のご意見には、私もまったく賛成です。
 社会的に実現されるべき男女の平等とは、男女それぞれがその特質を発揮できる機会の平等であり、それに対して受ける報酬の平等であると思います。私は、現代の錯覚の一つはここにあると思います。いまの社会は、まだ女性がその潜在能力を男性と同じように発揮できる平等社会ではなく、男性と同じだけの仕事をしても平等の報酬を受けているとはいえません。
 改めなければならないのはこの点であって、家事や育児、あるいは出産等といった、女性でなければできない仕事からの解放は、むしろ人間の存在を行き詰まりに落とし込むことになるでしょう。女性にとっても、これは、いってみれば自分の最も大事な拠りどころというか、根城を放棄するようなものです。むしろこれらを自己の掌中にしっかりつかみ、そのうえで女性の能力の発揮できる機会の平等をかちとり、平等の報酬をかちとることが、女性にとっては有利な、そして誰でも納得できる主張となると思うのです。
 ともあれ、女性のすべてがその一生を育児という仕事に縛りつけられているわけではありませんし、女性が社会の種々の活動に男性と同じく従事できるということは、ぜひとも望ましい理想です。もちろん、そこにはいろいろな問題も生じてきますが――。
 トインビー この問題の第一の解決策は、出産や育児にたずさわる年代の母親たちが、別に各種のパートタイムの仕事に従事できるように、労働力の配分を再調整してやることです。家庭での雑用が器具の使用によって合理化されれば、母親にも時間ができるでしょう。しかしながら、心理的な面ではそれ以上に困難な問題がでてきます。それは、たとえ女性に母親としての仕事のほかに何か別のパートタイムの仕事をする時間ができたとしても、彼女にとっては、両方の仕事に自分の注意と関心を申し分なくうまく振り分けることは、むずかしいことかもしれないからです。その結果、一方では子供が、またもう一方では職場の同僚が、当然払うべき関心を彼女が払ってくれないと感じて、多少憤慨することになるかもしれません。
 もう一つの解決策は、医学の進歩の結果、最近、実働年齢の上限が平均的に延びたために展望が開けたものです。すなわち、女性はいまや申し分のない高等教育を受けることができ、そのため知的職業に従事する資格を身につけることもできます。また、やがて結婚して、子供を産み、育てるわけですが、その間も事態の新しい進展を知り、これに歩調を合わせつつ仕事を続けるということは、十分にできます。そして、ついには子供たちが育って手元を離れたとき、その職業にフルタイムで専念することができるわけです。しかもそのころでも、彼女はおそらくまだ人生の盛りにいることでしょう。――少なくとも、一家の子供の数が家族計画によって自主的に制限されている社会ではそのはずです。
 母親であるということは、非常に重要で報われることの多い可能性を秘めており、したがって、女性が母親でありたいと願うのは、ごく自然のことです。
 池田 社会制度的に幼児教育を考えるならば、その教育の任に当たるべき母親の地位というものは、社会的にも経済的にも保障していく必要があると思います。そして、母親が育児からの解放を願うのではなく、そこにこそ人類文化の担い手としての誇り、使命を感じていけるような条件をつくっていくことが大切でしょう。
 トインビー 人間は、報酬が得られ、仕事に見合う地位が与えられるなら、よい仕事をしようという気持ちになるものです。自由企業の経済体制下にあっては――残念なことですが――主要な身分の象徴は賃金です。したがって、私は次のような提案をしたいのです。すなわち、母親には、他の教育者と同様、給料を支払うべきであり、その給料も高額でなければならず、しかもそれは直接母親に支払うべきであるということです。そうすれば、彼女らは夫の収入とは別に自分で得た収入が手に入ることになります。
 ところで、母親に給料が支払われることになれば、その費用として社会全体の賃金総額のなかから、かなりの額が要求されることになるでしょう。そして、その費用を捻出するためには、これまで男性に割り当てられていた賃金額を相当削減しなければならなくなるでしょう。今日の社会で、このように女性に有利なように社会の総収入を男女間で再配分することは、女性の社会的地位の向上につながることでしょう。
 池田 非常に素晴らしい、また道理に合ったお考えであると思います。そのようにすれば、育児のために自分が犠牲にさせられているという女性の不満もなくなることでしょうし、男性としても、また社会全体としても、育児ということがいかに大変なことであるかを十分に認識せざるをえなくなるでしょう。
 これまで、人間社会にあって、とくに男性本位の社会にあっては、育児を女性の当然の本能的な仕事であるとして、この仕事に正しく報いることを無視しすぎてきたと思います。一部の女性が、育児を女なるがゆえに課せられた苦役であるとして、それからの解放を叫んでいるのも、このためといえます。
 トインビー 女性のなかには、母親になるよりも他に職業の天分があり、それをどうしても生かしたいという気持ちが強いため、一生の実働時間のすべてをその職業に捧げ、そのために母親たることをあきらめようとする人もいます。最近までは、女性の職業として尊敬されるものはといえば、母親となることを除けば、ほとんど宗教だけに分野が限られていました。過去の典型的な職業婦人は、仏教やキリスト教の尼僧でした。ただし、尼僧のなかには、育児や教育を専門の職業としていた人もいました。これら二つの職業は、最終的には一般の女性にも開放されたわけです。そして、いまも人々の記憶にあるごく最近になって――主として三度の世界大戦中に男性の労働力が民間の職業から引き抜かれたことと、近代、肉体労働が機械化されたことによって――かつては男性の領域だったほとんどすべての職業に、女性が進出できるようになったわけです。
 池田 女性は、母親であり妻である前に一個の人間でなければならない、というのが私の考えです。しかし、一個の人間であるから母や妻として家庭に拘束されるのを嫌うというのは、女性解放の真実の意味をはき違えているといわざるをえません。もちろん、尼僧など宗教関係者のほかにも、生涯家庭をもたず、職業婦人として生きる女性も少なくありませんが、そうした女性たちの諸権利が守られなければならないのは当然のことです。
 トインビー 私の意見では、結婚をあきらめて、母親になるよりもフルタイムの職業に従事して一生の実働時間を過ごそうとするような女性にも、男性と平等の条件で職業生活を送れる十分な機会が与えられないかぎり、女性の権利としての女性解放は完全とはいえません。しかし、女性でありながら母親の地位を断念することは、たとえよくよく考えた末のことであっても、女性の大切な能力の発揮をやめたということで、その人は心理的に悩むことでしょう。これは、逆に、ある女性が他の何らかの職業に非常に強い使命感をもっている場合、たとえ母親となって母性能力を十分に発揮したとしても、なお多少の挫折感を味わうかもしれないのとまったく同じです。
 この二つを比べると、私は、概して後者の挫折感のほうが、母親になるのをあきらめることで悩む欲求不満よりも、女性としては心理的なダメージが小さいだろうと感じます。私は、これに対する最も円満な解決策は、女性が母親であると同時に、実働時間の一部をさいて何か別の職業に従事できるよう、世の中の仕事を再調整することだろうと思います。
 いずれにしても、女性が母親として社会に奉仕する存在であるかぎり、女性には、母親という重要な職業に値するだけの高い地位と高い給料とをどうしても与えなければならない、と私は感じます。母親の地位の高さは、たとえば、少なくとも大学教授とか、治安判事とか、パイロットなどと同じであるベきです。また、彼女の給料もそれに相当する額でなければなりません。
 子供にとっては、母親の愛情と世話は、心理的に欠かせないものです。いまや、女性には母親となる以外にも、それに代わる多くの職業があるわけですから、社会は、自然のうちに今後も良い母親がたくさん出てくるだろうなどと、安閑としてはいられなくなります。したがって、社会としては、良い母親をつくるために、男性には生理的に不可能なこの母親業という職業を、女性にとって大いに魅力あるものにしていくべきです。母親業は、大いに名誉な、報酬の多い職業にしていかなければなりません。

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