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日蓮大聖人・池田大作

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4 老人への福祉  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 一般に、いわゆる先進諸国においては、平均寿命が延びるとともに出産率が低くなって、必然的に人口構成が変わり、総人口のなかに占める老齢者の比重がしだいに大きくなっています。これにともなって老人問題がクローズアップされるようになり、たとえば老人養護施設を増やしたり、年金制度を完備することが強く要請されています。
 学者など知的職業人は別として、一般の老人にとっては、社会生活のなかで、また家庭生活の場において、いかに生きるかはきわめてむずかしい問題です。現在、日本では、この問題が緊急に解決を要する重要問題となっていますが、福祉制度がすでに充実しているイギリスでも、同じように重大な問題としてとらえられておりますか。
 トインビー ええ、この問題はイギリスでも、日本と同様、たしかに重要な問題となっています。また、他の福祉制度の問題にしても、同じことがいえます。
 イギリスでは、私自身も含めて、すべての老人が毎週国から年金を受け取っており、老人ホームもあります。実際に、私の妻の妹は公営の老人ホームに住んでいます。しかし、こうした養護施設は、祖父母と両親と子供たちが一緒に暮らし、真に人間らしい生活を分かち合っている″三代家族″に比べれば、心理的にも精神的にも、とうていその一肩代わりとなるものではありません。
 私の学友の一人で、私よりも一歳年上の人がおります。この人が数年前に奥さんを亡くしたとき、彼の息子夫婦は、一緒に住むようにと彼を引き取りました。そのころは、まだ孫たちが小さかったため、彼はよく車に乗せて学校まで送り迎えをしていました。こうした実際的なやり方で、彼は新しい家庭生活に溶け込んでいったのです。いまでは、その孫たちも大きくなりました。彼の息子は農場経営者で、働き手を使っています。そこで今度は、この人たちの子供を車に乗せて通学させています。彼はこのようにして、そこでの家庭生活にいまなお参加しているわけです。
 この人の場合、息子が農業を営んでいることが、ある意味で大事な要素になっています。それは、農村に住んでいるために、息子の家には妻や子供たちの部屋以外に、父親用の部屋もあるからです。都会では、ほとんどの人が、小さな家や狭いアパートに住まねばならず、したがって、せいぜい夫婦と子供の部屋ぐらいしかもてません。
 池田 まったくその通りです。老人に対する社会保障のあり方は、たんに物質的な意味で福祉施設が整っていればよいというものではありません。それ以上に、はたして精神的な豊かさに満たされたものであるかどうかを考えなければなりません。養護施設ができて″墓場まで″の社会保障が整っているからといって、それが老人にとって最大の贈り物になるとはかぎらないからです。核家族化が進行して、養護施設が完備しているという理由から、老人をそこへ追いやるならば、かえつて老人を失望させることになるでしょう。
 老人問題の最も重要なポイントは、精神的な充足感をどのようにしたら与えることができるかを考慮することです。もしこの点に着目するならば、そのためにとられるべき方法とは、老人を社会の現実から離れさせるようなものであってはならない、ということが理解されるでしょう。なぜなら、人間の生きがいとは、社会に参加しているという意識に裏づけられてこそ生まれるものだからです。社会から追い出される身ではなく、社会のなかで大事な役割をもつ一人として、積極的に社会に参加し、自ら何らかの価値を創造しつつあるという実感が、老人の最大の生きがいとなるのではないでしょうか。
 トインビー 社会にとって余計な存在になったと感ずる心理的な苦痛から、人間をいかにして救うかという問題は、老齢のため仕事から締め出された人々にも、また産業のオートメーション化によって職を失った人々にも共通する問題です。都市化による悪影響は、祖父母を含む伝統的な″三代家族″を崩壊させており、さらに、距離的に近い隣人同士を社会的には他人同士にさせてしまいます。
 経済的な意味での社会保障によっては、自分が社会のはみだし者であるという心理的な不安感を埋め合わせられない、というご意見には、私もまったく同感です。老人ホームの施設は、いかに医療設備や物質面での慰め、楽しみを完備したとしても、精神面からいえばカムフラージュされた捕虜収容所のようなものです。
 池田 おっしゃる通りですね。人間は社会的責任から離れて気をゆるめた瞬間から、老け込んでしまいます。世間で責任をもって活躍している人は、いつまでも若々しいものです。老人を大事にすると口ではいいながら、そのじつは無用視して、その仕事を奪うようなことがあってはなりません。
 私は、老人の特質として、一つの仕事に忍耐強く取り組むこと、そして責任感が強いということがあげられると思います。さらに、肉体の衰えは避けられないにしても、頭脳、精神活動は、年齢の割にはさほど衰えない人がたくさんおります。むしろ、その長い、豊かな人生経験に支えられて、さらに輝きを増していく例も数多くあります。こうした老人の特質を生かせるような職業に従事させることによって、自己の存在が社会にとって不可欠なのだという自覚を与えることが、最も肝要なのではないでしょうか。
 トインビー 実質的な平均勤労年限が延びることは、たしかに個人にとっても社会にとっても助かることですが、しかし、それは、今日の都市化文明、オートメーション文明のなかで、老人問題を未解決のまま引き延ばすだけのことです。
 ただし、老人のなかでも、肉体活動でなく精神活動を要する社会的に有意義な職業をもつ人、また知力と活力を死ぬまで保ち続ける人については、老齢にともなう問題は起きません。私は、九十歳を過ぎてもなお、知力を失わなかった頭脳労働者を、少なくとも三人知っています。しかしまた、肉体の死が訪れる前に精神の死を迎えてしまった、つまり耄碌してしまった知人もあります。これは恐ろしい運命に陥ったということですが、実際にそういう人が増えているのです。
 現代医学は、肉体的寿命を延ばすことにかけては驚嘆すべき成功を収めていますが、知力の寿命を延ばすことに関しては、さほど成功しておりません。今日、耄碌化した人間を、医師の手に新たにゆだねられた手段によって肉体だけでも生かし続けるべきなのか、それともその屈辱的な生ける屍の状態から自然が患者を解放するのに任せたほうがよいのか、その決定が非常に重大な問題になっています。
 知力を死ぬまで保ち続けられることは、誰にとっても幸運なことです。なかんずく、頭脳労働者にとって幸運であるのはいうまでもありません。大多数の人々は、しかし、肉体労働者であるわけです。私は、身体がいうことをきかなくなって労働をやめざるをえなくなり、生きがいのない無為の余生を何年も送るという、わびしい見通ししかもてなくなった農業従事者を何人も知っています。
 池田 ご指摘の通り、人口の大部分を占める肉体労働者の老後をどうするかは、最もむずかしい問題です。
 私は、養老施設をつくるにも、老人に各人の能力に応じた仕事を与え、張り合いをもたせるような、生きた養老施設にすることが、老人への最大の贈り物になると思います。老重化によって、壮年期にやってきた仕事はもはやできなくなる場合も少なくないでしょう。しかし、ある能力は衰えてしまったとしても、まだ別の能力は残っているはずです。そうした実情を正しく把握し、その能力によって社会生活に参画できるようリードしてあげる機関が必要でしょう。
 トインビー博士がご高齢にもかかわらず、なおかくしやくとして、世界の人々に多大な影響を与え続けておられるのは、博士の存在、あなたとの対話を世界が必要とし続け、博士ご自身もそのことを自覚しておられるからではないでしょうか。他の高齢者も、それに似た自覚、人生の充実感を、それぞれ分野こそ違え、もてるようになれば問題はないわけです。しかし、実情はそうではありません。私は、老人を必要とすることが、老人を最も尊敬することになるということを、社会がもっと認識すべきであると思います。
 トインビー 私はいま八十五歳という年齢でありながら、まれにみる幸運に恵まれています。幸い妻も健在ですので、私は、夫婦という人生で最も貴重な人間関係をいまだにもっているわけです。頭脳のほうも、まだ損なわれずにすんでおります。ただし先年、冠状血栓症を患って以来、体力のほうは衰えましたが――。しかし、まだ口頭や文書で質問に答えることはできますし、記事や著書の執筆にも耐えられます。さらに幸いなことには、他の人たちが私の著書や記事の発表を望んで、いまだにテレビ・インタビューや、テープ吹き込みとか文書による質問を寄せてきています。
 このような恵まれた状況のなかで長生きすればするほど、私は、第一次世界大戦中に二十代の若さで戦死した、私と同世代の人々の運命を嘆き悲しまずにはおられません。さらにまた悲しみをさそわれるのは、私の終生の友人で、私より三カ月ほど年下だった男のことです。彼はすでに亡くなりましたが、それは彼にとってむしろ幸せなことでした。というのも、死ぬ前の彼は、老耄化がしだいに激しくなっていたからです。しかも、その老耄化の度合いも、自分に訪れている運命を感じなくなるほどのものではなく、そのためかえって苦しみ続けなければならなかったのです。
 池田 それは、まことにお気の毒な方でした。博士のお気持ちも、私にはよくわかります。仏法でも″老い″は生老病死という人生の四苦の一つとしてあげられておりますが、″老い″それ自体は、いかんともしがたい問題です。しかし、その時にあたってどのように生きていくかは、多分にその人の内なる力と人生観によって決まるといえましょう。それはすぐれて宗教的分野の問題といえます。結局、老人への福祉は、決して物質的なものだけであってはならず、精神的な面をも兼ねそなえた、人間味のある、真の意味での福祉でなければならないことが明らかなわけです。そのためには、やはり老人が自己の道を切り拓くためのチャンスが、社会的に最大限与えられていなければならないと考えます。

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