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日蓮大聖人・池田大作

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2 臓器移植に関して  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 臓器移植、とくに心臓移植については、一九六七年十二月に行われた南アフリカのバーナード博士の移植手術以来、倫理的な観点から、また哲学的な観点から、あるいはまた宗教的な問題としても、賛否両論が戦わされてきました。日本でも、一九六八年八月に、札幌医大の和田教授によって行われた心臓移植の適否が論争の的となり、一九七一年の日本医学会総会でも、各医学者からいろいろな見解が発表されました。
 心臓移植は、腎臓移植と異なり、提供者の死が前提となります。そこで、心臓組織を完全な状態で保つ必要上、提供者の死がはっきり確認される前に心臓が摘出されるのではないか、という懸念が生じるわけです。日本で問題となった和田教授も、二人の死――つまり、心臓の提供者と心臓移植を受けねばならなかった患者の、二つの生命の消滅――よりも、一人の生を選ぶという観点から、心臓移植を行ったと主張しています。
 私は、たとえば腎臓移植や角膜の移植等は、十分な医学的理由が成立すれば、許されてもよいものと考えます。腎臓移植も、現段階の医学技術では、成功率はまだ十分とはいえないでしょうが、しかし、患者の状態に応じて、医学的な判断のうえから適否を決めてよいと思います。この種の移植は、提供者の″死の判定″が重要な課題として入り込まないからです。
 心臓や肝臓の移植、またさらに進めば脳移植等も考えられるでしょうが、この種の移植には、提供者の″死の判定″が大きな問題として関わり合いをもってきます。そこで私は、現段階の医学者の意見も考慮したうえで、この種の移植は、現在の医学水準では、原則として行うべきではないと考えます。とくに大脳の移植の場合は、移植を受けた人の本質的部分である″考える自我″さえも他人のものと入れ替えられてしまうわけですから、これは絶対に許されるべきではないと思います。心臓や肝臓の移植も、″死の判定″に対する科学的解明が明確になるまで、医学者は移植手術を待つべきではないでしょうか。
 トインビー ただいまのお話には三つの問題点が含まれていますね。私はこれを一つ一つ別個に論じたいと思います。
 その第一は、臓器一般、またはある特定の臓器の移植というものが、望ましいかどうかという原則論です。第二は、移植が原則として望ましいと判定された場合、その実施が医学知識と技術能力の現状からみて望ましいかどうかという点です。第三には、その実施が現在の倫理基準と倫理的行為の水準からみて望ましいかどうかということです。
 第一の原則論については、人権の擁護に最大の配慮を払うべきであるという信念の強さが、そこでの判断の基準になるものと私は考えます。なかんずく、人間の尊厳を守るという点が最も重要でしょう。人間は、その生命を自己の意志に反して奪われない、という権利をもっています。したがって、たとえ他人の生命を維持するためであるにせよ、ある人間が自らの意志に反してその手段に利用されるとすれば、それは、人間の尊厳への侵害となります。ただし、ある人が死んだ後、もしうまく移植に成功すれば、生きているもう一人の人に丈夫な心臓を提供することができ、それによってその人の生命が救われるという意味で、心臓だけはまだ生きているという場合も想定できます。また、ある人が、他人の生命を救うために、自らすすんで自己の生命を犠牲にするという場合も考えられます。その例としては、ギリシャ神話中にも、王妃アルケーステイスが夫の身代わりとなって、自らすすんで冥府に下ったという話があります。日常生活においても、他人を救出しようとして自分が溺れ死ぬとか焼け死ぬということは、よくある例です。
 次に想定されることとして、一方に死んだ人間がいて、その脳がまだ移植可能の状態であり、他方に脳を損じてしまった生きた人間がいたとします。この場合、後者が、自分の人格が変わるかもしれないのを承知のうえで、前者の脳を移植してほしいと頼む、といったケースも考えられます。
 これらの仮想上の三つのケースでは、いずれの場合も、移植は人間の尊厳に合致するのではないか、あるいは、実際に人間の尊厳がそれを要求するのではないか、と私には思われます。仮に、私自身、自分が重禄し始めたり、気が狂いかけていることに気づいたとします。その場合、自分のだめになった脳を別の無傷の脳と替えてもらうことによって、それが自分にも他の人間にも負担をかけず、かえって自分を蔵能させることになると判断できたなら、私はきっと、そうしてほしいと願うことでしょう。
 第二の問題に対する答えは、比較的簡単です。次のような場合には、現状では移植を試みないほうがよいでしょう。すなわち、まず第一には、内科および外科の知識と技術の現状に照らして、医学的にまだ死の瞬間を判定する十分な基準を設定できない場合です。次には、その移植の結果がはたしてどうなるのか、医学によってはまだ予測できない場合です。そして最後は、この分野における外科技術がまだ十分でなく、成功する望みがほんのわずかしかない場合です。
 第三の問題は、三つのなかでは、おそらくいちばんむずかしいものでしょう。過去の経験に照らせば、医学知識や外科技術は今後も向上するであろうと思われます。この可能性からいえば、特定の移植が、現状では医学的に是認できなくとも、やがては是認されるようになるだろうと期待するのは、たしかに道理にかなっています。しかし、同じく経験からいえば、倫理的基準とか倫理的行為とかが、医学技術と同じように今後向上するということは、とても期待できないのです。われわれの祖先が人間として歩み始めてよりこのかた、それらが少しでも向上したという証拠は、何一つないからです。
 池田 たしかに現段階でも、心臓等を含む臓器の移植をしなければ、生命を保てないことが明らかな場合もあるでしょう。その場合、適当な提供者が現れたとなると、移植を行うかどうかが問題となるわけですが、私は、やはりその前提としてあくまでも慎重なプロセスを踏むことが大切であると信じます。すなわち、移植手術を行うべきかどうかの決定が下される以前に、まず、手術を担当すべき医師団ばかりではなく、他のそれぞれの分野の専門医、たとえば免疫学者、哲学者、法律学者等が十分な協議を行うべきでしょう。協議の結果、あえて手術の実施に踏みきることになったとしても、そのさい、提供者の臓器を摘出する医師と、それを移植する医師とは明確に分けるのが当然でしょう。また、移植手術とその後の経過については、詳細に公表することを義務づけるのも当然の措置と考えます。
 トインビー ある特定の移植が、原則的に道理にかなっており、技術的にも実行可能と考えられる場合、ある特定のケースにおいてその移植を試みるべきかどうかという判定は、たしかに一団の人々によって下されるべきです。
 この異なった立場の一団の人々にあっては、それぞれの倫理的基準も異なるでしょうし、その基準を守る度合いにも差があることでしょう。さらに、そのケースに対する各人の個人的関係もさまざまでしょう。臓器の提供を受ける者とその提供者とは――その人がまだ生きているとして――このケースに対しては、当然、密接な関わり合いをもっています。また、双方の血縁者や友人たちもこれと深い関係にあります。臓器を摘出する外科医とそれを移植する外科医もまた、このケースにきわめて深くかかわることになります。これに対して、専門的コンサルタント、法律家の代表、公共機関の代表者たちは、比較的関係が薄いといえます。そのケースの処置にさいして各人がとる倫理的行動は、それぞれがこのケースにどれだけ深い関係をもつか、それによって左右されるでしょう。
 池田 ただ、現段階ではやはり、提供者の死が絡む臓器移植については、原則として行うべきではないという基本線を貫くことが必要ではないでしょうか。
 私が現段階での臓器移植に反対するのは、一つはこの″死の判定″の問題があるからです。もう一つは、臓器移植の″要″ともいわれる拒絶反応を克服する医学的手段が、十分に確立されていないからです。しかし、仮に拒絶反応の抑制が可能になったとしても、医学の進むべき方向は、あくまで臓器移植ではなく、人工臓器の開発にあると私は考えます。
 トインビー 臓器移植は、科学技術の進歩という一般的な問題のなかの、一つの特殊な例です。科学知識や技術技能の進歩は、人間に力の増大をもたらします。人間のもつ力が増大すると、人間は、かつて例をみなかったことで選択を行う責任に直面します。そのような選択範囲の拡大にともなって、以前にはなかったような倫理上の諸問題が生じることになるわけです。

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