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日蓮大聖人・池田大作

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1 医学における倫理観  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 近年、医学技術は、西洋近代科学の発達とともに、目をみはるような進歩を示しています。とくに二十世紀後半に入ってから、生物学、生化学等の基礎的な学問の領域や、外科技術、麻酔等の分野では、その進歩は著しいものがあります。
 この結果、かつては侵すべからざる″神聖な領域″と考えられてきた心臓や大脳にまでメスが入れられるようになりました。臓器移植や、人工臓器による入れ替え等も、すでに特殊な症例ではなくなり、一般庶民の手の届く範囲に入ろうとしています。そして将来は大脳移植による人間改造という、極端な手術が行われる可能性さえでてきました。薬学もまた進歩しつつあるため、薬を利用して、思考や記憶や欲望さえも自由に操作する日のくることも、夢物語ではなくなろうとしています。
 こうした人間の身体や心の健康、病気を対象とする医学は、そこに倫理という問題をともなってくるため、医学と倫理の関係については、とくに深い関心が寄せられるべきでしょう。
 トインビー 現代の科学にあっては、医学部門においても他の部門と同様、その業績のカギとなってきたのは、選択であり、定量化であり、機械化、非人格化でした。しかし、人間を基準として考えるとき、そのような代償を払って得た医学上の成果が成功に結びつくという確信を、はたしてわれわれはもてるでしょうか――これは疑問です。
 池田 まさに、その点が重要なところです。医学が人間生命を直接左右する力をもてばもつほど、それを医師がどのように使うかが、大きな問題になってきます。医学の力は、これを善用すれば、人間の幸福に計り知れない貢献をします。しかし、もし悪用すれば、人間生命を破壊しかねません。
 ところが今日、医師の側において、生命の尊厳に対する畏敬の念が薄れ、倫理観の低下が問題にされています。もちろん、今日に至る以前にも、倫理観の欠けた医師はいたでしょう。しかし、それは少数であり、また医学の力がまだ巨大でなかったこともあって、それがもたらす弊害は、今日のそれに比べればずっと軽微なものでした。
 トインビー まさにただいまのご意見に示された通りで、現代の医業は、患者からも、そして結果的には内科医や外科医自身からも、尊厳性を奪い去りかねません。尊厳性を奪われた生命はもはや人間生命ではなくなり、そのような生命を望む人もいないでしょう。この点から、私は、内科ないし外科による特定の処置が適切であるかどうかの基準は、それが人間の尊厳にとってどういう影響をもたらすか、ということにあると考えます。その処置が人間の尊厳を守るものであるか、それとも損なうものなのか――すべてはそこで決まるわけです。
 池田 私も同じ意見です。日本では、昔は″医は仁術″といわれてきました。仁の術、つまり、慈愛ある治癒の術であったのです。医師は、そうした意味で、人々から尊敬され、信頼を集めていました。
 トインビー 医学、医療は、まぎれもなく治癒術であるべきです。内科医、外科医を問わず、およそ医師が自らの尊厳を支えるためには、まず人間同胞ヘの奉仕を第一の関心事とし、そのことを、自分や家族の生活費を稼ぐことに優先させることが要請されます。もちろん、自由業にもそうした経済的な副産物があってしかるべきですし、それは必要なことでもありますが――。
 池田 残念なことに、医師は″仁術″を行うものであるという、人々の医師への信頼感は、今日では薄れてしまっています。その結果、医療は本来、医師と患者の相互の人格交流に基づくものであるにもかかわらず、いまやそれが崩壊に瀕している状態です。
 こうした医師の倫理観の喪失は、私は、人間としての医師個人個人の姿勢自体に、一つの原因があると思います。もう一つの原因は文明社会全般にある生命軽視の風潮で、西洋近代科学を基礎とする医学そのもののなかにこれを増長する要素があり、それが医者をして医学の力を悪用する方向へと走らせているのではないでしょうか。
 トインビー あなたの推測は正しいようです。近年、アメリカでは、医師たちがその職業をもっぱら自分個人の金儲け仕事としてのみ遂行しており、もはや一般への奉仕などと考えていないということで、社会から非難されています。たしかに、内科専門医にせよ、外科専門医にせよ、自分の技術をできるだけ高値で売りつけることを何よりも大事に思うような医師は、老練な医療技術の持ち主ではありえても、患者にとって人間的で思いやりのある友人には、とうていなれないでしょう。
 一人の医師が、感情の通い合う人間関係を必要とする患者の友人という立場と、感情抜きの作業を必要とする冷静な科学者という立場を、.同時に兼ねそなえることは可能でしょうか。医師と軍人とを比べた場合、人に恩恵を施すのが前者であり、人に害を加えるのが後者の職務です。しかし、この両者には、一つの共通する特徴があります。それは、医師も軍人も、ともにその職業柄、心身の苦痛、死への恐怖、死それ自体、死別の悲しみといったことを、常に目の当たりにしていなければならないことです。これでは、感情を抜きにしないかぎり、効果的に職務を遂行することはできないでしょう。しかし、医師の場合は、感情を殺したうえで、なおかつ思いやりがあるというのでなければ、十分に適性ある本物の医者とはいえないでしょう。
 池田 非常に深い、適切なご指摘です。そういった本物の医師が少なくなってきたことは、医師の倫理観の喪失についてさきほどあげた原因のうち、医師個人個人の姿勢という点からも考えるべきですし、また、医学の偏った進歩の仕方という点からも検討する必要があると思います。
 申すまでもありませんが、現代医学はデカルト以来の科学的思考法に立脚しています。科学は、医学に疾病究明のための有効な手段を与え、そのおかげで、現代医学は長足の進歩を遂げてきました。しかし反面、科学はあらゆるものを客観視し、突きはなし、理性の″メス″で切るという性質を内包しています。したがって、自然界を科学の眼で見るとき、自然は自己とは切り離された客観的存在となってしまいます。同様にして、人間生命に科学の光を当てるとき、人間の生命自体が、医師との精神的交流を断たれた客体となってしまいます。ここに、人間生命の″物質化″が当然起きるわけです。
 こうした医学の医師に与える心理的影響をあらわす例として、私の知人である医師から聞いた言葉は、いまもきわめて印象的に胸に焼きついています。それは、外科医を長く続けていると、ベッドに横たわっているのは生きた人間ではなく、一個の肉体という″物質″にすぎないように思えてくる、というのです。
 こうして、医師が科学的思考法に精通すればするほど、その医師の心は、人間を物質視する危険性に絶えずさらされることになります。ここに、現代医学のもつ逃れられないジレンマがあると思うのです。つまり、現代医学そのものが、それを駆使する医師の人格を変え、医師から生命自体に対する尊厳観を奪い続けることになるわけです。
 医学は、本質的に理性の光に照らされた冷徹な科学的思考法を必要としますが、それと同時に、いやそれ以上に、温かい人間的な心情が要求されます。相手の生命をあくまでも主観的にとらえ、血の通った精神的な交流を尊いものとする姿勢が、どうしても必要とされるでしょう。
 トインビー そして、そのためには、医者は冷静な技術者であると同時に、情け深い、思いやりのある友人でもなければなりません。しかし、愛情深さと冷徹さとを一つの心に同居させることは、はたして可能でしょうか。この疑問に対して、一神教的宗教の信奉者たちは、次のように答えるでしょう。すなわち、医師は神への愛のために仕事をすべきであり、そうすることによって、普通ではおそらく相容れない、それら二つの感情をあわせもつことができる――と。
 中世におけるキリスト教の病院は、聖者たちのために献納されたものです。またローマ・カトリックの尼僧たちは、病人を看護することによって神に仕えたのであり、それはいまも変わりません。今日、西洋では新教国にあっても旧教国にあっても、看護婦という世俗職業はすべて、もともとは、カトリック系のいくつかの教団が行っていた看護婦業に端を発するものです。今日の非宗教的な看護婦が着る制服にも、またイギリスで看護婦を呼ぶのに″シスター″という呼称が使われていることにも、この職業の歴史的起源の名残がとどめられています。
 また、キリスト教以前のギリシャにおける医業は、ギリシャの治療の神アスクレーピオスに捧げられたものでした。
 池田 医師の倫理観のよりどころとして、そういった何らかの宗教的信念が必要であったことは、非常に重要な一点ですね。
 医学界では、さきほどふれた現代医学のジレンマを乗り越えるためにも、ヒューマニズムの確立が叫ばれています。
 欧米キリスト教文明においては、信仰がそうしたヒューマニズムの上台になっていたのですが、今日では、その信仰自体が崩壊の危機に瀕しています。ここで、私個人の考えを申しますと、医師が医学の基盤に仏法の″生命の哲理″をおくことによって初めて、医師の倫理観喪失という問題に抜本的な解決をみることができるでしょう。真のヒューマニズムとは、生命の本質と人間性への明晰な洞察を基盤とすべきものであり、そこに立脚した信念によって初めて強固に支えられるものだからです。
 トインビー あなたは、西洋キリスト教の今日の衰退を示され、それに代わる医学への新たなインスピレーションが仏教のなかにあるかもしれないと述べられました。私も同じ考えから、人間の生命に対して、また人類の生存の場であるこの宇宙に対して、何らかの宗教的ないしは哲学的な見解、態度をもたないかぎり、いかなる人も精神的、倫理的に十分適格な医師にはとてもなれないだろうと思います。

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