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日蓮大聖人・池田大作

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5 科学的思考法の限界  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 科学には限界があり、その扱いうる対象はきわめて限定されています。しかも、人間にとって大きい関心事については、まったく明確に答えることができません。そうした、科学の扱えない問題に対して、人間に一つの信念を提示しているのが宗教です。その意味で、宗教こそ人間にとって、より重要な必需物であるということは明らかでしょう。
 しかしながら、科学的思考法は、その扱いうる対象については、理性の光で照らし、一定の法則を発見することに成功してきました。私は、このような科学的思考法を″科学の眼″と呼びたいと思います。そこで、では宗教の思考法と″科学の眼″とはどう違うか、という点を考えてみたいと思います。
 私のいう″科学の眼″とは、磨かれた理性の眼によって客観的に対象を照らし出し、そこに一定の普遍的な法則を見いだしていく認識力です。理性の力によって法則を見いだす過程においては、当然、分析的手段が使われ、普遍化、抽象化が行われます。また、分析的方法が対象の定量化をともなうことも当然でしょう。
 トインビー 科学は、人間の知覚がとらえるデータ(既知事項)の全内容から気まぐれな抽出を行うことによって、観察の対象として選んだ分野を、客観的に見つめることに成功しています。ただし、これは″客観的″という言葉の意味を「人々が意見を交換したとき、必然的にすべての人間の知性に同一のものとして映る現象や思考」と定義した場合のことです。ところが、この″客観的″という意味を「実在自体の、ありのままの正確な反映」と定義するならば、話は違ってきます。つまり、諸現象のなかから科学が抽出するものは、そのように科学による処理を経て切り取られる以前の現象よりも、少なくとももう一段階、実在それ自体からかけ離れたものになりやすい、と結論せざるをえないと思うのです。科学が、いろいろな現象を解明しつつあると主張するのは、一応納得できます。しかし逆に、科学は諸現象を歪めているという非難もまた、同じく納得できるものでありましょう。
 池田 科学的方法を用いる以前の対象物と、″科学の眼″によって抽出され定量化された対象物とが、まったく同一であるはずはありません。ここに″科学の眼″が、事実そのものに迫りえない″本源的限界″があるようです。
 トインビー 科学はいろいろな現象の特性のうち、同一種類に属する個体のすべてには共通しないもの、したがって定量化できないものを、たしかに、意図的に無視します。
 定量化の代償としては、独自性の無視ということが行われます。これはまさに高価な代償です。なぜなら、独自性というものは、実際には画一性と同じく、あらゆる現象における本質的かつ不可欠の特性であるからです。いろいろな現象のうち、いわゆる無生物界に属する種類の現象でも、それぞれある程度の独自性をそなえているものです。まして生物にあっては、この独自性という要素は、さらに重要性を増してきます。そして、意識をもつ生物において、その重要度は最大限に達するわけです。
 こうみてくると、選択を好む科学の思考法が、物理学とか無機化学など無生物界の現象を扱うことに適用された場合に最大の成功を収めているのは、たんなる偶然事ではありません。これが、生命体を扱う、たとえば有機化学とか生物学などに適用されると、その成功率は低下してきます。さらに、精神のうちの意識層、つまり認識論や論理学などの分野に適用されると、成功率はさらに低下します。
 そして、精神のうちでも潜在意識層への探究となると、これはもはやごく最近になってやっと開始されたばかりという状況です。もっとも、インド哲学では、すでに二千五百年もの昔からこの分野を探究していますが――。この、科学がこれまでに試みたなかで最新の、しかも最も難解な分野について、その成否を予測することは、むろん時期尚早です。しかし、科学が諸現象についてわれわれに知らせ、理解させる力をどれほどもっているかを測るカギがこの点にあることは明らかです。人間の知性が近づきうるすべての現象のうち、この潜在意識レベルの精神現象は、おそらく、われわれにとっては最も重要であり、同時に、科学にとっては最もとらえがたいものでしょう。
 池田 科学は、その限界のゆえに、その対象物にそなわっている独自の特性、たとえば定量化したり普遍化することのできない面を、どうしても捨象しがちです。とくに人間を対象とする場合、精神の独自の働きや、感情、意識といった微妙な性質等が排除されてしまいますね。
 トインビー 科学は従来、諸現象の特性のうち、人間にとって技術上の目的を除いたあらゆる目的のために、最も重要なものを無視してきました。そして、そのかぎりでは成功を収めています。ところが、技術以外の目的にあっては、質的な印象を量的な概念に置き換えて表すことは、人間の知性や審美眼を貧しくすることになります。つまり、音響学とか光学とかの科学によって量的に変形された音や色よりも、実際にこの耳で聞く音色、この目に映る色彩のほうが、われわれにとってより意義深く、より心を満たしてくれるものであるわけです。
 池田 科学においては、対象はすべて″物質化″されてしまいます。とくに生命体は、物理的側面はほんの一面であるにもかかわらず、物質的な面だけが重視される結果、その精神的側面のもっている独自性は見失われ、抽象化、普遍化された生命一般という概念のなかに埋没してしまいます。つまり、科学的思考法は、本来、生命の物質化という働きを、その思考過程のなかに含んでいると考えざるをえません。
 トインビー ある人のことを評して「彼はサイフアー(記号、とるに足らない人)だ」というとき、それはその人物に対する軽蔑の意を含みます。その意味は、その人物には、人間性に顕著な、重要で貴重な資質が欠けているということです。ところが、科学は文字通り人間をサイファーに変えてしまいます。つまり、人間の精神とか、その精神が関与している心身相関の生命体とかが、科学によって数式で説明されるとき、人間はたんなる記号と化すわけです。さらに、身元カードとかコンピューター用カードには人名の代わりに番号が記載されますが、これも科学が人間を記号化している別の例です。
 池田 つまり、普遍性を追求する科学を成り立たせようとするならば、個性的な要素、個体の独自性といったものは捨象せざるをえないわけですね。
 こうした科学の思考法が、生命軽視の風潮を生み、生きている人間の真実の姿を見失いがちにさせていることは事実です。それは、現代人が、科学のこうした人間を記号化する思考法、個性を捨象する考え方が、あくまで部分的な目的を達成するための手段にしかすぎないことを忘れて、これを絶対視し、目的視していることによると思います。
 しかも、人間の記号化、数式化は、人間を手段視するものであって、それは、真理を導き出すための思考の過程では許されても、社会や組織の運営、人間を対象とした実際的行動のうえでは、断じて許してはならないと私は考えます。
 トインビー 人間は、人間性が喪失される度合いに応じて、操作されやすくなるものです。このことは、戦争が行われたとき、初めて発見されたといってよいでしょう。つまり、人間同士が、互いに喧嘩相手でもないのに、命を賭して殺し合うのを納得させるには、厳しい訓練によって催眠術をかけておかなければならないことがわかったのです。この戦争の訓練以外に、人間を他の人間の意志に従わせる方法としては、官僚主義化とコンピューター化とがあります。
 操作とは技術です。操作の対象が人間であろうと、人間以外の生物であろうと、あるいは無生物であろうと、それは変わりありません。そして、技術は定量化によって便利なものとなります。しかも定量化は、その対象物となるものを知的にも美的にも損傷してしまうものでありながら、技術にとってはまことに便利なものであるため、人間以外の自然と人間自身とをともに支配する力を生み出す源泉となっています。このように、科学は、技術による操作という、唯一の実用的な目的のために重要であるにすぎないのです。
 科学が、定量化によって、技術のもつ潜在力を増大させるのは、善いことなのでしょうか、それとも悪いことなのでしょうか。本質的には、善悪いずれでもありません。この問題への解答は、場合に応じて出されるべきです。すなわち、科学の与える力を行使する人間自身が、そ2局められた力を間違いなく善用し、決して悪用しないだけの高い道徳的水準を身につけているかどうか、それによっていまの答えが決まるわけです。
 池田 お説の通りです。科学それ自体は、善でも悪でもありません。善悪は、それによって得られる力を用いる段階で生じてくるものです。ただ、私は、そうした科学に対する人間の主体的なあり方を確固たるものにするためにも、科学的認識が、物事の把握において、絶対的なものか、それともそれ自体においても限界をもつものなのかの判断が、なされなければならないと考えます。
 もし、われわれが、欠陥のあるものを完璧であると思ったら、それを真に生かすことはできません。真に活用できるためには、その長所とともに短所
 も、正しく認識していくべきでしょう。
 仏法では、われわれが対象を認識する力を眼になぞらえて、五種の眼を説いています。すなわち、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五つです。肉眼というのは、一般の人間的――生物的な感覚器官の一つである、この眼による認識です。″天″とは本来指導者のいる所をいい、天眼とは、指導者として人の心の動きを読み取る、敏感な察知力と考えていいでしよう。
 慧眼というのは、理性によって物事を抽象化し、そこに普遍的な法則を見抜いていく力です。したがって、″科学の眼″は、五眼のなかでは慧眼に含まれるものと考えられます。この科学的理性である慧眼より、さらに深い認識力が、五眼のうちの法眼と仏眼です。
 法眼というのは、自身の生命を磨き――仏法では、自己の生命の内奥から、慈悲の一念を湧き出させることを指して、生命を磨くといいます――それを鏡としてあらゆるものを照らし出し、対象物をありのままに見抜く認識力を示しています。仏眼というのは、宇宙生命の脈動する力と宇宙のあらゆる実相を自ら実感するとともに、それを体現し、そのような生命自体によって、人生、社会、宇宙等の諸事象を見抜く、透徹した洞察力を指します。
 このように、仏法が五眼という概念を立てる真意は、理性や人間の感覚器官等の奥にある、生命内奥の英知を開き顕すことにあります。このような法眼や仏眼を磨き、顕現させることが基盤となって初めて、慧眼の働きとしての科学的思考法がもつ″本源的限界″を乗り越え、科学の理性の光をさらに増すことができる、と私は考えています。また、人間の思考法の面からいっても、じつはここに、宗教としての仏法の役割があると思うのです。
 トインビー ただいまの、法眼、仏眼というのは、意識的知覚としての肉眼と、心理学的洞察力としての天眼と、理性の働きやそれを用いる科学的方法を含む慧眼の三つを、補い、矯正するものですね。そして、法眼、仏眼とは、慧眼と同じく、たんに物を見るためのものではなく、行動の手段ともなるわけですね。私には、法眼によって湧き出る慈悲というものは、人間性喪失という科学の悪影響に対する解毒剤になるもののように思えます。

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