Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

1 学問・教育のあり方  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  (1) 教育のめざすもの
 池田 博士は、学問・教育の本質は、実利的な動機に基づくものではなく、宇宙の背後に存在する″精神的実在″との霊的な交わりを求めることにあるとされています。私も、学問や教育というものの本来の意義は、そうした、ある意味での宗教的なものにまで迫ることにあると思います。そして何より、人間としていかにあるべきか、人生をどのように生きるべきかという、人間にとって不可欠の問題を解明し、解答を与えるところに、その根本的課題があると思うのです。
 教育についていえば、たしかにそこから得られる実利的効果には、非常に大きなものがあります。しかし、それはあくまで結果としてそのようになるということであって、実利のみを動機とし、目的とするのは、教育のあるべき姿ではないと思います。現代の技術文明の社会にあっては、教育が実利性の侍女に成り下がっており、欲望追求の具になってしまっているように思えてなりません。
 トインビー 私は、教育のめざすべきものはあくまでも宗教的なものであり、欲得ずくのものであってはならないと主張してきました。教育は、人生の意味や目的を理解させ、正しい生き方を見いださせるための探求でなければならないのです。
 この、精神的に正しい生き方とは、基本的にすべての人間に共通のものだと私は信じます。同じように、実際面での正しい生き方というものも、かつてはあらゆる人々にとって共通のものでした。つまり、初期には単純であった人間社会の組織や技術がしだいに複雑化し、そこから分業の必要性が生じるに至るまでの時代には、人類共通のものだったのです。
 今日、文明時代にあっては、正しい生き方の教育を行うにも、専門的知識や特殊技能に関する職業的訓練を施して、これを補うことが必要です。ただし、実際に職業に就くにあたっては、知的職業の訓練を受けたすべての者が″ヒポクラテスの宣誓″を行うべきです。これは、昔から医業にたずさわる人々が行ってきた宣誓です。
 いかなる職業であれ、新たに知的職業に就く者はすべて、自分の専門的な知識や技能を、人間同胞の搾取に向けることなく、彼らへの奉仕に用いる旨を誓うべきでしょう。そして、自らが負った奉仕の義務を、自分や家族の生計という付随的な必要性よりも優先させるべきです。最大限の利益ではなく、最大限のサービスこそ、知的職業人が目的とし、身を尽くしていくべきものです。
 池田 まったくおっしゃる通りだと思います。現代の教育が実利主義に陥ってしまっているのは、悲しむべきことです。
 こうした風潮は、二つの弊害をもたらしていると思います。一つは、学問が政治や経済の道具と化して、その本来もつべき主体性、したがって尊厳性を失ってしまったこと。もう一つは、実利的な知識や技術にのみ価値が認められるために、そうした学問をする人々が知識や技術の奴隷に成り下がってしまっていることです。そこからもたらされる結果は、人間の尊厳の失墜です。そのような、知識や技術に人間が奉仕し、政治や経済に操られるようになった学問・教育を、本来の、人間としての基本的なあり方や人間存在の根本を明らかにする学問、また、それを伝えていく教育へと転換することが、どうしても必要だと思います。
2  (2) 生涯教育について
 池田 次に、具体的な話になりますが、個人の才能を開発し伸ばしていくためには、一人の教師が何十人もの青少年をみなければならない現在の学校教育のやり方では、目的を達しえないだろうと思われます。
 人間には、それぞれ能力の違いがあり、その人なりに何らかの優れた長所や資質をもっているものです。その各人の内奥にある長所や資質を、生活、実践の場でいかに引き出すかが、カギであるといえましょう。そのさい、周囲の人々として心がけるべきことは、児童に対して、家庭にあっても学校にあっても、学問ができる、できないということだけで縛りつけるようなことがあってはならない、ということです。
 人生は、学校教育で教えることだけで律せられるものではありません。学生時代の優等生が必ずしも人生の成功者とはかぎらないという事実が、これを証明していると思います。学校教育の年代にはあまり目立たなかった人が、中年期あるいは晩年になってから、優れた才能をあらわす場合も多々あります。
 また、学問それ自体が年々発達し進歩しているため、学校時代に学んだ知識が、年月が経つと、もはや時代遅れの役に立たないものになってしまっていることが、少なくありません。
 トインビー 知識が常に増大し、しかもその解釈がたえず変化している今日の世界では、フルタイム(全日制)の青少年教育だけでは十分ではありません。引き続いて、生涯にわたるパートタイム的な自己教育をしていく必要があります。今日では、年少期に学んだことだけでは、その後の人生を生きるのに、もはや十分ではありません。このことは、学生が学校教育で得た資格や大学を卒業して得た学位が、その人の一生にわたる評価とはなりえず、たんなる仮の評価とみなすべきことを意味しています。
 われわれは、成人してからも、おのおの繰り返しテストされ、再評価される必要があります。つまり、各人が人生の各時期ごとにどれだけ実績をあげたかが、そのテストとなるべきでしょう。人がまだ十六歳とか二十二歳とかの年齢で、ただ一度だけのテストで一流とか三流などと等級づけられ、それで終わりというのはばかげており、不当なことです。
 人間には、人生の晩年期に花を咲かせる晩成型の人もいますし、反対に、若いときに輝かしいスタートを切りながら、その能力が実を結ばずに終わるという人もいます。ウインストン・チャーチルは、子供のころは明らかにおくてであり、青年期には明らかに才気換発であり、中年期には明らかに失敗者であり、六十代にはまぎれもなく偉大な人物でした。
 イギリスの歴史に決定的な影響を与えたもう一人の人物は、七世紀のギリシャ人キリスト教宣教師、タルソスの聖テオドロスでした。テオドロスが、イギリスのキリスト教会改革の目的で派遣されてきたのは、チャーチルがイギリスを侵略から救うべく首相に任じられたのと、ほぼ同じ年齢のころでした。
 チャーチルと同じく、テオドロスは自分の使命を見事にやり遂げました。彼は、六十代、七十代の二十年間にわたる奮闘によって、イギリス国教会を改革したのでした。彼らとは逆に、晩年を期待はずれに終わった人々の例も、もちろんあるわけです。
 池田 実際問題、社会に出たときには、学問に示される能力は、その人の人間としての価値を決めるものではありませんね。むしろ、心の広さや、生活のうえで身につけた経験の深さなどのほうが、より大きな価値をもつことが少なくありません。また、もてる才能を発揮し尽くすには、知的労働と肉体労働とでは差はありますが、頑健な身体と、神経の機敏性ということも、必要になってくるでしょう。
 そのためには、学校教育においても、机上の学習だけではなく、社会との接点をつくって人生の経験を踏ませる方法を考えるとか、課外活動や共同生活の経験をもたせるよう、なるべく多くの機会を設けなければならないでしょう。現在求められている教育のあり方として、私は、この全体人間を志向した人間教育の必要性を強調したいと思います。
 トインビー さきにも述べたことですが、成人期に教育を続けることの利点の一つは、成人者は自分の個人的な経験を、学問的に――つまり間接的に――学ぶ事柄に関連づけることができるということです。ここでさらに付け加えたいのは、課外活動や共同生活を通じて実際的な経験を積ませることについても、青少年教育のなるべく早い時期にその機会を与えなければならない、ということです。
 このことは、イギリスでは従来の、いわゆる″パブリック・スクール″という教育制度のなかにみられます。そうしたパブリック・スクールーーといっても実際には公立ではなく私立の学校なのですが――のいくつかは、たしかに体制側の温床であるとの批判は免れません。しかし、これらの学校では、年長の生徒たちに実際に権力を行使させ、責任感を養う機会を与えています。これは大事なことです。この点、私には、イギリスのパブリック・スクールは貴重な模範を示してきたと思えるのです。私自身、そうしたパブリック・スクールの一つで教育を受けましたが、生徒会長は常に「権力は人格の試金石である」というギリシャの格言で戒められていました。
 人間の能力は多種多様であり、これら多種多様な能力はすべて社会的に価値があるものです。各個人がもつ独自の能力というものは、すべて発掘し、育成すべきです。それを可能にするには、学生たちに、実際に経験を積み、それを生かす機会を与えてやらなければなりません。また、理論と実践とが互いに補足し合い刺激し合うような、一体化した教育を、生涯続けることが必要です。
3  (3) 教育の資金源について
 池田 残念なことに、現代においては、教育は国家権力の支配下におかれ、国家が追求する目的に、教育行政が従属している実情にあります。とくに、教育の淵源ともいうべき学問研究自体が、国家権力と密接な関係におかれています。
 これは、研究が巨額の費用を要するため、国家権力の支援なくしては思うままに研究を進められないという事情にもよります。その結果、国家利益に直結する分野の研究が過分に優遇され、国家利益と結びつかない分野、あるいは国家利益に不利な意見をもつ研究者は、不当に冷遇される場合がままあります。
 こうした学問・研究の世界の実情は、そのまま教育界にも反映されています。つまり、国家利益に結びつく分野の教科が重視され、そうでないものは軽視されるわけです。また教科書の内容に不当な干渉がなされることさえあります。こうした事情のもとでは、全き人格育成という理想は踏みにじられ、歪められた人間像をつくってしまう恐れがあります。私は、この点を大いに心配するのです。
 トインビー 教育への融資、コントロール、指導などを国家に独占させるのは、好ましくないことです。国家は、権力を増大させてくれそうな研究分野に補助金を出したがるからです。国家はまた、そのようにして公的な融資や統制を受ける教育に対して、イデオロギー上の歪曲を加えようとしがちです。これは、学生たちを体制側のイデオロギーの支持者にするためです。教育が公的財源の補助を受けることには、もちろん利点もあります。たとえば、すべての少年少女たちに均等な機会が与えられることです。今日のイギリスにも、貧しい家庭の出身ながら、公的な補助金制度のおかげで最高度の教育を受けた人々が、あらゆる職業の指導層に何人もいます。
 池田 教育の機会均等という面から考えると、たしかに、教育費を全面的に個人の負担にすることはできません。したがって、国家あるいは公共自治体が、その財源から教育を援助するという方式をとることは、やむをえないことだと思います。ただし、その教育内容に干渉したり、または間接的にせよ教育に偏向をもたらすような施策は、とられてはならないと考えます。その意味で、援助の方法がどういう形で行われるかという問題が重要ですね。
 トインビー イギリスでは、第一次世界大戦以後、公共資金で運営されても政府のコントロールは受けないという、半官法人が設立されてきました。これらの法人は、自治体が管理します。その一つに大学補助金委員会があり、これが現在、イギリスの大学基金の大部分を供給し、配分しています。現在、大学基金のうち、学生の納付金や民間の寄付金が占める割合は、ほんのわずかにすぎません。
 この半官法人の意図するところは、政府が財力を使って半官法人の方針に干渉するのを差し控えさせることにあります。これまでのところは、この意図もおおむね実行されてきています。しかし、長い目でみた場合、大学補助金委員会やその他の半官法人――たとえば、重要な教育機関でもあるBBC放送――の自治性を、今後とも議会が尊重し続けるかどうかを論ずるのは、時期尚早です。
 こうしてみると、半官法人という仕組みも、まだ明らかに不確かなものであるわけです。したがって、十分に確実な恒久的基盤の上に教育を独立させることが大切です。そのためには二つの条件が必要だと私は考えます。すなわち、まず、国家や企業のコントロールを受けない恒久的な財政基金であり、次に、誰がみても高い倫理的・知的水準にあって、そのため誰からも尊敬され支持されるような教職スタッフ、教育行政スタッフです。
 このような基金には、撤回不可能な形での寄付金をあてるのがよいでしょう。つまり、贈与者は、寄付金を提供するにさいして、本人もその相続人も、基金の管理運営に口出しする権利は一切放棄するという、法的拘束力のある誓約をするのです。アメリカの民間財団にあっては、このことが研究と教育の向上を図るうえでの原則となっています。またこのやり方は、アメリカ政府が大学に土地の無償払い下げをするさいの原則でもあり、そうした無償地が州立の総合大学、単科大学の財政源の一つとなっています。
 土地は、永久基金の形態としては最良です。地価の変動は貨幣価値に反比例しており、貨幣価値は、現在のように高度のインフレが速いベースで進行しているときでなくても、下落する傾向にあるからです。私が一九〇二年にウインチェスター校で得た奨学金は、この大学の創立者が一三九五年に寄付した土地からの収入でまかなわれていました。
 私は、あらゆる国のあらゆる教育機関が、撤回不能の土地の寄贈を受けて、学生の学費を安く、教職者の給料を高く維持できるようになってほしいと思います。これによって初めて、国家や大企業によるコントロールからの自由が保障されることでしょう。
 教育機関は、あくまで完全な自治的機関でなければなりません。教育法人の規約には、教育行政スタッフや教職員だけでなく、小中学校の場合は両親、高校や大学の場合は学生を含め、それぞれの代表からなる代議制度を規定すべきです。また、教育は社会全体が重大な関わり合いをもっている社会活動ですから、一般大衆からの代表も出すべきでしょう。このような多様な参加者がそれぞれもつ権限によって、教育方針の作成とその実施が決定づけられることになれば、それこそ多くの議論が交わされることでしょう。これは、この問題に関する、最近の世界中での論争が示す通りです。

1
1