Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

6 地球の汚染を防ぐために  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 環境の汚染と破壊の現状をみますと、大別して、産業廃棄物によるものと、近代都市生活者全体の浪費によるものとの二つがあります。このうち、産業廃棄物によるものについては、原因となっている工場やその廃棄物質がはっきりとらえられるならば、その経路をチェックし、防止することは比較的容易です。ところが、都市生活者の消費生活が引き起こす汚染のほうは、すべての人が何らかの形でその発生に荷担しており、汚染物質もきわめて雑多です。
 従来は、完備した都市機構が円滑に作動すれば、汚水にしても、種々の汚物にしても、ほぼ完全に処理できるはずでした。ところが文明の進展とともに、もはやそうした機構では処理しきれないものが増えてきております。
 産業公害の場合は、加害者は特定の企業であって、市民の大多数は被害者です。したがって、政治的な規制や法律改正、市民運動などによって、その絶滅は比較的に容易だといえましょう。ところが、都市生活にともなう汚染の場合は、市民の大多数が加害者であるとともに被害者でもあるところに、大きな問題があると思うのです。
 トインビー 環境汚染には、おっしゃる通り、一つには産業廃棄物と、もう一つには近代都市生活者全体による個人的な無駄の多い消費との二つの原因があります。またこれらを阻止するについては、後者のほうが、前者よりもはるかに困難であるということについても、その通りだと思います。
 たしかに、産業廃棄物を出しているのは、汚染源としてはっきり確認できる限られた数の営利企業ですから、法律によって効果的に規制できるでしょう。これに対して、個人の消費への規制は、数えきれないほどの人々がそれぞれ自発的にこれを行っていく以外にありません。通例、倹約令といったものは、工場規制法などと違って、効果のないことがはっきりしています。しかしまた、消費を規制する自発的行為といったものについても、それが宗教によって啓発されたものでないかぎり、効果がなさそうです。
 池田 まことに複雑な、むずかしい問題であり、結局はそういうことになると思います。その前提として、市民は他を責めるのではなく、自分自身の暮らし方を改めなければならないでしょう。市民であるわれわれ一人一人が、自分の生活を振り返ってみて、加害者としての自分の側面をできるだけなくすように努力する必要があるわけです。
 たとえば、モータリゼーションの問題にしても、企業は毎年のようにモデルチェンジをして、新しい車を買うように宣伝しています。新しいスマートな車に乗らなければ現代人として失格であるとでもいった、巧みな働きかけです。また、電気製品や日常品にしても、使い捨ての効用を盛んに宣伝しています。
 このような宣伝、情報に受動的に動かされて、主体的に選択することなく、自分の物質的欲望のままに生きていけば、結局は、自己と人類の滅亡にたどりつく以外にありません。われわれは、自分たちの日常的な行為が積もりつもって、人類の子孫の生存権を奪っていることを、深刻な事実として銘記しなければなりません。この点の認識を深めることによって、初めて、人間は現代社会における自らの生き方を主体的に確立することができると思うのです。
 トインビー かつて人類が一様に貧困であった時代、われわれの祖先は、衣食住その他の生活必需品の不足によって、絶えず生存を脅かされていました。こうした状況のもとでは質素が美徳であり、贅沢は悪徳であるとみなされていました。
 しかし、産業革命以後というもの、質素倹約は、生産者には製品をさばく市場の不足という脅威を与え、またその結果、被雇用者には失業という脅威をもたらすようになりました。したがって、消費者側の倹約は、生産者とその被雇用者の側からみれば、美徳ではなく、悪徳となったのです。生産者は、いきおい、広告宣伝という人為的な手段によって消費に刺激を与えようとしました。広告宣伝業が産業革命と同時に出現してきたのは、必ずしも偶然ではありません。
 しかしながら、こうして消費を刺激することによって得た一部の生産者とその被雇用者側の利得は、ご指摘のように、社会全般の利益に反するものです。すでに、宣伝によって貪欲性が刺激されたことから、全面的な汚染が発生しており、これが現代人の健康にも、またその生命自体にも、脅威を与えています。現代人の貪欲さはまた、かけがえのない資源を消費し尽くして、未来の世代から生存権を奪おうとしています。
 しかも、貪欲は、それ自体一つの悪です。貪欲は人間性の内にある動物的な側面です。しかし、人間は、動物であるとともに動物以上の存在でもあり、貪欲に溺れていたのでは人間としての尊厳性を失ってしまいます。
 したがって、人類が汚染を克服してなお存続しようとするなら、われわれは貪欲性を刺激しないことはもちろん、逆に貪欲を抑制しなければなりません。また仮に、貪欲によって現代人が汚染され、子孫が窮乏に追いやられるという、物質面での破滅的な結果が生じないとしても、これは変えてはならない原則です。
 産業革命以来、生産者は、宣伝によって大衆を操作し、欲望を最大限に充足させることを、他のすべての目的に優先させようとしてきました。われわれは、いまこそ、この優先順位を逆転させ、貪欲の抑制と倹約の励行を第一としなければなりません。
 これには少なくとも三つの根拠があります。すなわち、人間の尊厳を保つこと、現代入を汚染の危険から守ること、地球の限られた天然資源を未来の世代のために保存することです。われわれは、広告産業によって巧みに吹き込まれた理想を捨て去り、それに代わるものとして、仏教やキリスト教の修道院生活のなかに示されている理想を取り入れる必要があります。
 池田 おっしゃる通りです。自由は、人間にとって尊重すべきものですが、人間性のなかのどれに自由を与えるかという問題こそ大事です。欲望に無制限の自由を与えることは、崇高な精神の自由をかえって圧迫することになります。なぜなら、欲望には崇高な精神を押しつぶしてしまう必然性があるからです。
 これは、ちょうど、凶悪な無頼漢に自由を与えた場合、善良な市民が苦しめられ、圧迫されるのと同じです。欲望の解放は、この悪人を野放しにすることに等しいものです。善良な市民の自由を確保するためには、悪人を監視し、また必要とあらば拘束しなければならないと同じように、崇高な精神の自由のためには、欲望を規制する必要があるわけです。
 ただし、これは社会的、外的な力によってではなく、個人の主体的な自覚と意志によって行わなければならないでしょう。
 トインビー 今日、先進国と呼ばれる国の国民は、いわゆる発展途上国の国民を見下し、恩着せがましく振る舞っています。彼らは、憐れみか軽侮かの、どちらかの態度をとっていますが、しかし、いまの世代からみて子供か孫の世代には、両者の立場が入れ替わってしまうことが予想されます。
 いわゆる先進国の生活様式にあって、貪欲は美徳として賛美されてきました。しかし私には、貪欲の暴走を許してきた社会に、希望ある前途があるとは思えません。自制をともなわない貪欲さは、自滅を招きます。今日の先進国には、すでに、生産による分捕り品の配分をめぐる闘争が、生産そのものを麻痺させるといった兆候がみられます。また、きまりきった作業の単調さが、労働者にとってこの種の仕事を耐えがたいものにし、それによる利益の分け前がいかに大きくとも、彼らの心理的負担を埋め合わすことができないという兆候もみえています。こうした労働者の疎外は、生産活動の麻痺とともに、先進諸国の生活様式に終止符を打たせるかもしれません。これらの諸国は、当分の間は発展途上国より豊かであっても、最後には、事実上、より貧困化してしまうかもしれないのです。
 現在は発展途上国も、最大限の工業化、都市化をめざす競争において先進国に追いつく努力をしていますが、先進国が直面し始めた諸々の問題をみて、やがてはこれを思いとどまることが考えられます。すでにビルマ(編注。現ミャンマー)は、そうした方針を放棄することにしたと聞いております。この国では、近代技術の導入は、衣食住や公衆衛生といった基本的な生活必需物の供給に役立つものだけに限るよう、計画中だとのことです。ビルマ人はこのように近代化を最小限にとどめ、その範囲内で伝統的な牧歌風の、農業中心で豊かさを追わない生活様式を保持しようとしているわけです。
 ビルマは、現在、セイロン(編注。現スリランカ)に代わって南伝仏教の中心地となっていますから、影響力がないわけではありませんが、やはり小国であることには変わりありません。しかし、このビルマの方針が先例となって、中国やアフリカ諸国がこれに続けば、この転換は、やがて未来の波動として証明されるでしょう。
 池田 深い洞察に基づいた、刮目すべきご意見です。なお、さきほどご指摘のあった人間の尊厳という観点に立脚するとき、私は具体的に次のような運動が現代人にとって必要であろうと考えます。
 まず第一に、物資の消費を最小限に抑え、廃棄物を最大限、再生して使うことです。これは、環境汚染の防止に有効であるとともに、資源の枯渇を防ぐために、どうしても必要なことです。第二に、人間の肉体的エネルギーを活用することです。これは化学的、物理的エネルギーの生産のための資源の消費と汚染とを防止するのに役立つとともに、人間の健康保持のためにも有益です。第三には、薬品にせよ食品添加物にせよ、その他のあらゆる化学的な生産品にせよ、必ず利害両面があることをよく認識したうえで、その乱用を戒めることです。
 私は、これらのことを、市民の一人一人が自分の生活のなかで実行していかなければならないと考えます。また、自分が関わり合う社会の領域のなかで、そうした原則を冒して人類の存続を脅かす者と戦うべきでしょう。
 たとえば、科学者は、その学問を生かして広く市民を啓発すべきです。またジャーナリストは、ベンの力で悪を鋭く告発すべきです。主婦は、家庭生活と直結した問題について戦うことができます。そして労働者には、企業内からの告発という手段があります。
 このような運動は、しかし、いずれも正しい精神的基盤に支えられたものでなければなりません。それには、やはりさきほど博士がいわれましたように、宗教の力が必要となってくるでしょう。そして、その宗教とは、一人の人間生命は地球よりも重く、しかもこの生命の尊厳は、自然との調和によってはじめて維持できるという原理を、一人一人に実感させることができる宗教でなければならないと思います。
 トインビー その通りです。人類の生存に対する現代の脅威は、人間一人一人の心の中の革命的な変革によってのみ、取り除くことができるものです。そして、この心の変革も、困難な新しい理想を実践に移すに必要な意志の力を生み出すためには、どうしても宗教によって啓発されたものでなければならないのです。

1
1