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日蓮大聖人・池田大作

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5 終末論に対して  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 世の多くの識者は、いまのままでは、人類の未来が決して明るいものではないことを訴えています。たしかに、今日、世界の各地で頻発している災害や、それらを予測する科学的データを考察しますと、はたして人類が二十一世紀まで生き延びられるかどうかさえ疑問視せざるをえません。
 この現代の終末観ともいうべきものは、かつて世界の歴史に登場した種々の終末論と同じ悲しい響きをもっているようでも、本質的な相違を認めざるをえません。たとえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に流れる終末論は、世の終わりのとき人間は最終的な神の審判にかけられ、そのあと現在の秩序がまったく変わってしまうというものです。
 これには、まだ一種の楽天的目的論に傾く可能性も残されています。すなわち、キリスト教では、現実の衰亡を目の前にしながらも、なお未来への執念といったものが、人々の心をとらえています。この執念は、最後の審判を信じ続けるなかに現れており、しかも現に最後の審判では善良な人々は救われるとされています。つまり、かつての終末論では人間の良心の有効さがまだ信じられていました。
 それに対し、今日の人類絶滅論には、未来への希望は一片たりとも残されていません。今日の終末論では、人間生命の善なる領域さえも認められず、人々は深い絶望感に陥っているようです。
 トインビー かつて旧世界の西端部、つまリヒンズー教や仏教が広まった地域より西方では、われわれが知っている形でのこの世界が、全能の神の定めにより、前もって決められ、まだ誰にも明かされていない未来のある日に、とつぜん終末を迎えるということが信じられてきました。神の意志によって終局がもたらされるというこの信仰は、ゾロアスター教徒の間に起源をもち、その後、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の信ずるところとなったものです。
 このように、われわれがこれまで経験してきたような形の人生が終局を迎えるのではないか、という展望に人類が直面したのはいまが初めてではないわけですが、それにしても、ご指摘の通り、今日の状況はたしかに未曾有のものです。かつて人類は、人間の力ではどうにもならない自然の力によって、幾度か絶滅の脅威にさらされてきました。しかし、人類が、自分自身で行ったこと、ないしは行い損なったことによって、直接その未来が決せられることを知ったのは、今度が初めてなわけです。
 池田 たとえば、″ノアの箱船″は、そうした意味で象徴性がありますね。当時の人々にとって、洪水はまったく自然そのものの脅威であり、人間の力の貧弱さを思い知らされるものだったのでしょう。襲いかかる巨大な自然の力のまえに、ただ平伏することしかできない人間の思いが、終末論に結びついていったとしても不思議ではありません。
 ところが、今日の人類絶滅論が内包している終末観は、人間自身のもつ力に対する認識にかかわるものです。すでに現代人は、科学を武器として、地球全体さえ動かしかねない力をもっています。この力によって自分がつくった文明に裏切られ、まさにその文明によって死に追いつめられているという、想像だにしなかった事態に、現代人は当面しているわけです。
 人類の終末をもたらすものが、自然災害などの人間以外のものであれば、一時は絶望の底に突き落とされても、自己の生存を危うくするものへの挑戦の意欲が再び湧いてくることでしょう。しかし、科学という自らの力を使ってもがけばもがくほど、死ヘの行進を早めるのではないかという恐怖に、抜け道を与えるのは容易なわざではないと思います。
 また、かつての終末論には、自然災害によって物質的な貧困に追い込まれ、死に絶える、という思想がありました。ところが、現代の人類絶滅論は、人口や食糧の問題もありますが、それよりも、物質的な豊かさのなかに死に絶えていくのではないかという恐怖をはらんでいます。現代人は、汚れた豊かさのなかで、新しい意味での飢餓、つまり精神的飢餓によって脅かされているわけです。
 トインビー まさにおっしゃる通りです。しかしながら、人類の生存を脅かしている現代の諸悪に対して、われわれは敗北主義的あるいは受動的であってはならず、また超然と無関心を決めこんでいてもなりません。これらの諸悪が、もしも人間に制御できない力から生じたものであったなら、たしかに現代の人間に残された道は、諦観や屈服だけしかないかもしれません。しかし、現代の諸悪は人間自身が招いたものであり、したがって、人間が自ら克服しなければならないものなのです。
 池田 そこが大事な点だと思います。今日の人類絶滅論の根拠は種々にあげられるでしょうが、基本的には二つの主な要因に集約されると思います。
 第一には、いうまでもなく、核兵器の問題です。現代科学の中核的な役割を果たしてきた物理学の粋が生み出した、大量殺人兵器の存在です。これとともに、生物学や化学の生み出したBC兵器等も、当然、同列のものと考えなければなりません。第二には、七〇年代に入って一挙に火を噴いた、環境の汚染と破壊の問題です。それはまた、地球の汚染による気候の異変や生態系の破綻という問題でもあるわけです。
 これらに対して、もし人間が英知を働かせて全力を尽くすならば、私は、地球の汚染を進めてきた文明それ自体の本質的な転換も可能になるものと信じます。また核兵器を永久に使用しないですむ道も、必ずや開けるはずです。しかし、人間が英知を曇らせ、欲望とエゴイズムの虜となり、そこからくる空しさをいだき続けるかぎり、人類絶滅論を取り払うことはいつまでもできないでしょう。
 トインビー われわれが当面する人為的な諸悪は、人間の貪欲性と侵略性に起因するものであり、いずれも自己中心性から発するものです。したがって、これらの諸悪を退治する道は、自己中心性を克服していくなかに見いだせるはずです。経験の教えるところによれば、自已中心性の克服は、困難で苦痛をともなう課題です。しかし、同じく経験のうえからいえば、人類のなかにはすでにこの目標を達成した人々も何人かいるのです。もちろん、彼らも完全にはできませんでしたが、それでも彼ら自身の生き方を大きく変革しましたし、さらにそうした彼らの実例に啓発された人々の行動をも変革するに至っています。このように、すでに一部の気高い人々が、革命的な度合いにまで自己中心性の克服を成し遂げているということは、同じくどんな人間にも、必ずある程度まではそれが達成できるということです。聖者といえどもあくまで人間であり、彼らが実行したことは他の人間の能力をまったく超越したことではないからです。
 人類の生存に対する今日の脅威が人間自身に起因しているというのは、恥ずべきことです。しかも、自己中心性克服への精神的努力を払いさえすれば、われわれにはまだ自己を救済する力があるのに、そうした状況のなかでもなお自己救済を怠ったとしたら、それこそ、ますますもって恥ずかしいことです。われわれは、そうした状況にあることを恥じ、もって自己克服への努力を払う刺激とすべきです。さらにまた、われわれはそれに成功する力をもっていることを知り、そこから希望と勇気と活力を得て、この機に応じて立ち上がるべきです。
 これに対して、われわれ人間が、自分自身ではコントロールできない諸力によって破滅させられるという見通ししかもたない場合、そうした見通しはわれわれを無気力にしてしまいます。そこにはもはや、人間の行為によって破滅を回避できることへの希望が、まったくないからです。しかし、この場合、かえってそのために、こうした見通しに直面して消極的な諦観をもつことが、非道義的なことでなくなります。われわれ人間の力で抑止できないことに身を任せるのは、恥ずべきことではないからです。その反対に、恥ずべきであり、したがってまた非道義的なことは、明らかにわれわれの力の及ぶところに努力の道があり、その意志さえあれば明らかに自らが救われるのに、あえてそうした努力を払うことを拒んで、わが身をみすみす破滅させることです。このような状況での無気力は、まさに自殺行為も同然です。それは、もはや事実上の自滅にほかなりません。
 池田 人類は、今日の状況を乗り切るために、最大限の努力をしなければなりません。これはしごく当然のことです。ところが、現代の青年のなかには、反対の生き方をしている人が少なくありません。ある者は無気力な生活を送り、ある者はレジャーで気をまぎらせ、ある者は暴力による体制の破壊に走り、またある者は麻薬の世界に逃避するといった風潮があります。こうした青年の生活態度は、まさに人間そのものへの疑いと絶望を示しているのではないでしょうか。
 かつて日本の平安朝の末期に、末法思想が人々の心をつかみ、念仏の哀音が世に満ちたことがありました。そうした社会風潮のなかで″極楽往生″を願って、多くの人が入水自殺や、絶食による自殺を図ったという史実が残っています。今日の状況も、それに似たところがあるようですね。
 トインビー 今日の危機に対する、恥ずべき無気力さがもたらした非道義的な影響は、まぎれもなく、若い世代の心を荒廃させる働きをしています。青年たちは、どうにも救ぃのないことを感じ、自暴自棄になったり世をすねたりしています。彼らの反動は、親たちが世の諸問題を解決しないがゆえに自分たちが呑み込まれることになった破局を、手をこまぬいて待ちつつ、自らの生命をさまざまなやり方で破滅させるという形をとっています。
 こうした破滅的な道をたどる青年たちも、しかし、一つの事実には目を閉ざしているように思われます。それは、青年たちも、人間として親たちと同じ本質をもっており、そのおかげで、親たちと同じく一定の自由があるということ、したがって、いまは親たちほどの大きな力をもっていなくとも、人類の運命を決める責任の一端は、彼ら自身にもあるということです。
 彼らはまた、もう一つの事実を見落としています。それは、彼ら自身の自由と同じく、親たちの自由もまた限られたものにすぎないということです。すべての人間は自分の宿命によって自由を制限されています。しかし、われわれには、自分の行動によっていますぐにでも自分の宿命を向上させるという自由もあります。今日の状況はたしかに危機的ですが、しかし私の信ずるところでは、われわれのもつ自由も、人為的な諸悪を退治するに足る、十分大きなものです。とはいっても、この自由も絶対的なものではありません。われわれは自らの宿命を向上させることはできても、宿命自体を捨て去ることはできないからです。
 池田 つまるところ、問題は人間が自分自身の宿命をいかに転換し、向上させていくかにあるわけです。これには、人間生命に内在する利己性や種々の欲望にどのように対処するか、ということが含まれるでしょう。このことからも、人類が生き延びるためには、科学とともに、どうしても宗教が必要であることが明らかになってくると思います。

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