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日蓮大聖人・池田大作

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4 都市から農村ヘ  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 現在、大量の農薬と化学肥料が、農作物に投入されています。これによって農業が機械化され、人間の労働が軽減されていることは確かです。しかし、化学肥料の使用は、作物の風味を落とします。そのうえ、化学肥料は病原菌などに対する作物の抵抗力を弱めるため、どうしても農薬を使用せざるをえなくなるといわれます。
 日本のある農学者のリポートを読んだとき、イギリスのある学校の給食について書かれた個所がありました。それによりますと、化学肥料で育てた農作物を給食に当てていたときは、学童たちの間に病気が絶えなかったのが、自然肥による農作物に替えたところ、学童たちは見違えるように元気になった、ということでした。
 もしこれが事実なら、自然肥を使い、太陽の光と熱のもとで自然のままに営む農業が、いちばん望ましいことになります。しかも、農薬の使用が自然を汚損させ、昆虫や小動物を絶滅させ、ひいては人間の健康や生存それ自体にも脅威を与えていることを考えれば、われわれは、農業の近代化の方向について、大きく思考の転換を迫られているというべきでしよう。
 トインビー たしかに、最近、化学肥料や殺虫剤の大量使用によって、農産物の出来高はめざましく増大していますが、私も、こうして作られた食物は栄養分も少なく、健康にもよくないのではないかと危惧しています。さらに、こうした不自然な扱い方によって、天然の土壌の肥沃さが、やがて取り返しがつかないほど損なわれてしまうのではないかと心配するのです。
 これまで、ほぼ一万年にわたって農業を営んできた経験から、われわれは、さほど高い生産性を望まないかぎり、家畜の糞を肥料に使う混合的な農法をとったり、作物の輪作を行ったりして、農耕地の肥沃さを長く維持しうることを実証してきました。また、そうした農法がとれない地域では、田畑を定期的に休ませることもできるわけです。
 農業に適した土地は、稀少な資源です。そうした土地は、地球の陸地全体のうちでも、ほんのわずかな比率を占めるにすぎません。したがって、土壌の保護は、何にもまして優先的に行う必要があります。昔ながらの農法に頼っていた時代でさえ、地域によっては、もともと肥沃だった土地が、耕作と牧畜のしすぎのために、砂漠になってしまった例もあります。
 われわれは、日先の貪欲さにつられて生産増加を急ぐあまり、同じような荒廃を、より大規模な形で招く危険性が、すでにあるのです。そうした危険性は、最近、農業に化学が応用されたことによって、ますます深刻化しています。人類には、食糧供給の維持を危険にさらしていいほどの余裕は、とてもありません。これらの点を考えてみれば、われわれは、明らかに、かつての伝統的な農法にいまこそ立ち返るべきなのです。つまり、人間の労働力を主体とした農法に、立ち戻らなければならないのです。
 池田 そうした、人間の労力を主体とする農業は、たくさんの農業労働者を必要とします。このような労働力に対する需要の増大は、現段階においては困難な問題を起こしていますが、都市部において工業のオートメ化が進めば、工業労働人口は減少することも予想されます。それを考えれば、これまで農業から工業へ、農村から都市へと集中していた人口が、逆流現象を起こすのではないかとも予想されます。つまり、工業人口が減り、農業人口が多数を占めるようになる、という推測も成り立つわけです。
 工業のオートメ化によって物質的な豊かさが保証されるのであれば、いま申し上げたような転換は、人間の肉体的、精神的健康のためにも、きわめて好ましい方向ではないかと私は考えます。もちろん、そのような転換は、現代産業社会で強大な発言権をもつ化学工業の企業から、大きな抵抗を受けることになるかもしれません。それを克服するためには、広範な民衆の意識変革と、社会運動の展開がなされなければならないでしょう。
 ともあれ、これからの人間文化の流れとして、一方的に農業社会から工業社会へという方向だけを考えるべきではないでしょう。工業社会から農業社会へという方向、ないしは少なくとも農業と工業が並立する社会へという方向が考えられますし、また考えていかなければならないと思うのです。
 トインビー あなたの示唆される転換は、農業にとって望ましいだけでなく、現在の都市人口にとっても好ましいことです。産業革命以降、技術、経済面でのいわゆる先進諸国においては、人口の大部分が農村から都市へと吸い込まれていきました。これは一つの社会的災害でした。都市の工場や会社での仕事は、人間の生き方として、また生計の資を得る手段としては、農村での農耕や牧畜に比べると、心理的にもはるかに満足感が少ないからです。都市化、工業化は、いまや経済的な問題ともなっています。オートメ化、コンピューター化が進んで、人間の労力を主体とする筋肉労働や事務作業が余分な存在になりつつあるからです。
 高度に都市化の進んだ地域においては、都市人口を農村に復帰させることが必要となるでしょう。これは骨の折れる作業になるはずです。なぜなら、この二百年間というもの、都会の住民たちは、都市生活を幸せに営む方法や手段を見いだすことこそなかったものの、それでも都市での生活には慣れきってしまったからです。もしも、失業した元工業労働者たちが、都市のスラムから農村のスラムヘと追いやられ、そこでもなお職が得られないとしたら、彼らはさらに困窮し、不満をつのらすことでしょう。
 したがって、都市の労働力に余剰が生じ始めるちょうどその時期に、もし農村がより多数の労働者を必要とするようになれば、それこそ願ってもない幸いとなるわけです。
 しかし、そうはいっても、いわゆる先進諸国において人口の大多数を都市から農村に再移住させることは、やはり困難な、苦痛をともなう、しかも、長期にわたる作業となることでしょう。これらの諸国では、この脱工業化という反革命が完成するまで、おそらく長い危機の期間を経なければならないでしよう。
 ただ幸いなことには、そうした高度の工業化社会、都市化社会というものは、人類全体からみればまだほんの一部にすぎません。いまだ人類の大多数は、かつて新石器時代初期よりこのかた多数者の経済的、社会的制度となってきた、人力中心の農耕、牧畜によって支えられる農村的な生活様式から、さほど遠くはかけ離れていないのです。したがって、このいわゆる″後進的多数者″にとっては、将来、人類全体の到達すべき安定的な″世界国家″に到達することは、″先進的少数者″の場合に比べて困難が少ないことでしょう。
 このことは、各国の運命に劇的な逆転が起こることを示唆しています。従来の先進諸国にあっては、長期にわたる逆境をくぐらざるをえなくなるでしょう。逆に、従来の発展途上国は、より少ない苦痛で、しかもより急速に、未来の″世界安定国家″ ヘと到達できることでしょう。
 池田 非常に興味深いご指摘です。先進国が発展途上国になり、発展途上国がかえって先進国になる可能性もあるということですね。そこで思うのですが、いまアメリカや西欧の青年たちのなかに、日本の禅やインドのヨガなどを学ぶ人々が出てきています。彼らにしてみれば、一般的に後進性の象徴と考えられてきたことや、そうした国々が、じつは最も時代の先端を行くものを秘めているのだという意識があるのだと思います。
 しかし、まだ現実の生活、先進国社会の一般市民の日常生活から遊離した、そのような特殊文化が対象であるかぎりは、文明全体の転換をもたらすものとはなりえません。生産活動や市民生活に直接かかわる問題について、アジアやアフリカに残っている古くからの人間の知恵が着目され、学び取ろうとされたとき、それこそ人類の歴史を大きく転換するものとなるのではないでしょうか。
 トインビー 私の予測に説得力があるとするならば、中国は将来、過去を振り返ってみて、工業化が立ち遅れてかえってよかったと喜ぶことになるでしょう。この立ち遅れのために、中国はかつて一世紀にわたって弱体化し、屈辱的な待遇に甘んじてきたわけです。しかし、そのおかげで極端な都市化、工業化が避けられたのですから、これは安い代償
 だったということになるかもしれません。
 これに対して、ロシア人と日本人は、西欧諸国民の工業化によってつきつけられた挑戦に対して、あまりにも迅速に、旺盛に、そして効果的に応戦してしまったことを、将来、悔いるようになることが考えられます。ロシア人も日本人も、西欧の例にそっくりならうことによって、この西欧からの挑戦に応じました。つまり、両国民とも、工業化の波にどっぶりと首までつかることによって、これに対応したのです。短期的な視野からみた場合、それも先見の明があるもののように思われました。しかし、いま新たに開け始めたより長期的な展望に立つとき、やがてそれが近視眼的な、性急な反応の仕方だったと判明するはずです。

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