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日蓮大聖人・池田大作

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2 天災と人災  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 ここ数年間に、世界各地でさまざまな大きな自然災害が頻発しています。一部の学者の説によると、これらは人類が過去数千年の間に、まれにしか体験しなかったほどのものであるということです。
 一部の例をあげましても、一九六八年にはイタリアの大洪水、中国や韓国での大千害がありました。翌六九年には世界的な寒波が襲いかかり、アメリカやコーロッパ各地では、夏冬ともに平均気温が三度以上も低下したと聞いております。また、一九七〇年には、四十九度にものぼる熱風が、インドやエジプトに吹き荒れ、多数の死者を出したと伝えられました。
 日本も例外ではありません。一九七一年の夏、沖縄地方は長期にわたって水不足に悩まされました。一方、北海道や東北地方では、気象観測所開設以来の涼しさを記録し、これが冷害となって稲作に大損害を与えました。また同年八月に日本を襲った台風は、かつてなかったような変わった移動のしかたをしました。
 気象学者によりますと、この数年間のこうした災害は、日本やアメリカ、コーロッパなどを覆った、何万年ぶりかの異常な気圧配置に原因があるとのことです。しかも、この気圧の変動は地球全体の大気の動きにも影響して、そのためか、一時的ではありましょうが、地球の自転速度が一万分の三・五秒ほど速くなったことが観測されているというのです。
 こうした異常現象の原因は、いろいろと究明されていますが、人間の自然破壊がその一因となっているとみる人々も少なくありません。私も、それはありうることだと考えています。
 トインビー 人類は、われわれの記憶にあるつい最近の時代に入るまで、じつは人間としての生活を営み始める以前とほとんど変わらないくらい、まつたく大自然のなすがままにされてきたのです。人間と自然の力関係が逆転したのは、ほんのごく最近のことであり、したがって、この事実はなかなか認識されがたいのです。まして、われわれがこの力関係の逆転という新たな状況に対応して、物事を感じ、考え、行動するということは、なおさら困難なわけです。
 池田 たしかに、最近頻発している大災害をみると、そうした自然対人間の力関係の逆転からもたらされたとしか思えないような現象が、多く見受けられます。
 これに対する説明の仕方は、もちろん、いろいろあります。たとえば、そうした異変には、太陽の黒点や海水の温度の変化が関係しているかもしれないという推測もあります。そして、それは事実であるかもしれません。太陽の黒点が、地球の気圧の配置を異常にし、そこから気候の異変や災害がひきおこされるというのは、ありうることです。
 しかし、それらの変動、災害に、何らかの形で人間の営みが関係しているのではないかと私が推測するのは、次のような理由からです。つまり、いかに表面的には自然独自のものとみられる現象であっても、より本質的な観点からみるならば、人間を含めた生命世界全体の働きかけがあって、その原因のいくつかを形づくっている、と考えられるからなのです。もし、この推測が正しいとすれば、最近みられる災害の多くは、間接的には人間の営みが関係しており、したがって天災の形をとって現れた人災であるということになります。
 そうした、人間の行為が関わり合っていると推測される、自然界の異常現象の例は、いくつかあげることができます。たとえば、都市地域では、炭酸ガスの温室効果によって、気温が上昇しているところがあります。逆に、微小浮遊物が太陽の光をさえぎって、冷却化現象が起きているところもあります。また、石油廃棄物が海洋に投棄されることによって海水の蒸発が阻害され、それが気候に変化をもたらした事実も確認されています。これらの異常は、それだけにとどまるものと考えてはならないでしょう。こうしたいくつかの異常が重なり合って、地球全体の異常化をきたす可能性は十分にありうるからです。もしこれを見過ごしておくならば、地球を破滅に追い込むことにさえなりかねません。
 地球は、われわれ人間が生存を託している宇宙のオアシスです。そのかけがえのない地球を、私たちは何としても破滅から救わなければなりません。そのためには、人間の行為が自然の運行、自然界の調和に及ぼす影響性を厳しく考え、少しでも危険性をはらむものは、厳重に規制していく必要があると思うのです。
 トインビー われわれは、人間がいまや自分の環境に対してどれだけ暴威をふるい、どれだけそれを破壊しているかについて、たぶんまだ過小評価しているのでしょう。ご指摘の点は、私も同じように考えています。つまり、最近の環境的災害のなかには、明らかに人災として確認できるものを別にしても、他にもおそらく、人間による災害があるはずです。それらは、人間が災害源になっているという確証がまだつかめていなくとも、おそらくは人災なのでしよう。
 池田 現在のように近代技術文明が地球全体を覆い尽くしてしまう以前は、災害は、そのほとんどが自然災害、つまり天災だったといえましょう。そうした天災といわれる環境異変は、人間にとって恐ろしい脅威であったため、人類は必死になってこれに抵抗し、しだいにその脅威を乗り越えてきました。たとえば、土木工事や気象観測などによって対応してきたわけです。また、かつて猛威をふるった伝染病の流行に対しては、衛生学や医学の発達が大きな力を発揮するようになりました。つまり、こうした災害との戦いのなかから、科学の発達ももたらされたわけです。
 しかし、現代では、人類の生存をおびやかすものは、もはや天災ではなく、人災であることが明らかになってきました。いや、むしろ人災としての要素を含まない天災などありえないほど、科学が駆使しうる力は巨大になってしまっています。
 トインビー 環境に及ぼされる人間の力が、すでに人類の自滅を導くところまで達したことは、もはや疑問の余地がないように思われます。もし人間がその力を貪欲を満たすために使い続けるなら、自滅は必至でしょう。
 人間は、本来、貪欲な存在です。なぜなら貪欲性は生命の特質の一部だからです。人間のもつこの貪欲性は、また他の生物にも共通のものです。しかし、他の生物と違って、人間には意識があり、そのおかげで自分の貪欲さを自覚できるわけです。つまり、人間は、貪欲性に力が加わると、それは破壊性をもち、したがって悪となる、ということを認識できるのです。このため、人間はまた、自己抑制の実践という、困難な倫理的努力を払うこともできるわけです。
 池田 つまり、人間の内面的な変革があって初めて、災害防止の方途も見いだせるということになりましょう。私は、政治家や企業家や科学者をはじめ、人間一人一人がこのような視点から災害の原因を見つめなければならないと考えます。さもなければ、地球を破滅から救うことはできないというところまで、現代社会はきているように思われます。
 一部の科学者は、現在の災害はすべて科学が一段と発達するならば、やがて防止することができると考えているようです。しかし、私はそうは思いません。公害をはじめ、人間の行為が引き金となって起こった災害を、科学の一層の発達によって解消しようというのは、科学の力を過信することではないでしょうか。それでは、むしろ人間の倫理的な変革という、現代に最も要求される根本的課題から目をそらさせ、ひいてはさらに大きな災害をもたらす要因ともなりかねません。
 現代文明はたしかに科学を駆使することによって、一面では自然災害を防いできたという実績があります。しかし、もう一面をみるならば、その業績自体が人災の原因となり、新しい災害の起因となった場合が少なくないわけです。
 トインビー カがもたらす邪悪な結果に対応するためには、知的な行為ではなく、倫理的な行為が要求されます。ところが、科学は倫理的には中立の一つの知的作業です。したがって、科学が発達し続ける結果どうなるかは、倫理上用いられる善悪という意味合いで、科学が善用されるか悪用されるかにかかっているわけです。科学が生み出す諸悪は、科学それ自体で根治することはできません。
 池田 その通りですね。科学技術は、あらゆる生物を含む自然界を征服したり統治したりする目的に用いられるべきではありません。科学はむしろ、人間が自然のリズムに調和し、その律動ある営みを最大限に生かしきっていくために、活用すべきでしょう。これは、たとえば人間生命と薬剤や外科的手段のようなものです。投薬や手術も、人間生命がもつ本来の治癒力を助長するために適用すべきものだからです。
 私は、科学者にしても政治家にしても、また高度の科学技術に立脚する現代産業にたずさわる人々にしても、すべてこうした科学技術の用い方に徹してほしいものだと思っています。それによってこそ、人間が自然界に反逆した結果生じた災害、つまり人災を防ぐことが可能になると考えます。
 したがって、これにはまた、科学者をはじめ現代のあらゆる人々が、自己の生命の内奥から自然に対する姿勢を改めていくことが、どうしても要請されます。私は、ここに科学技術文明をリードすべき宗教の役割があると信じます。
 すなわち、まず宗教のもつ理念によって現代人の思想の転換が図られる。次いで、こうした変革を経た人々が、科学者や技術者を中心に、科学技術の環境への適用を図っていく。そしてさらに、そこを起点として、新たな段階の科学技術の発達が期される。――こうした三つの過程を通じてこそ、私は、初めて人災の防止と科学の進歩が両立できると考えるのです。
 トインビー もしわれわれが、自然は人間のためにあるという仮想のもとに行動していくなら、科学は破壊的な目的のために使用されていくことでしょう。この集団的な自己中心的仮想は、各個人の精神生活の場においてのみ克服できるものです。すなわち、人間一人一人が、それぞれの自己中心性を克服していかなければなりません。したがって、まさにご指摘の通り、宗教のみが、人間本性の働きのなかにあって、個人的にも集団的にも、自己を克服するよう人間の心に働きかけてくれるものなのです。
 われわれは、人間の生命とその環境に対する宗教的な姿勢を通してのみ、かつて祖先たちがもっていたと同じ認識を、もう一度取り戻すことができるのです。すなわち、人間はずばぬけて巨大な力をもちながらも、やはり自然の一部にすぎない存在であること、また人間は、自然をこのまま存続させ、自らも必要な自然環境のなかで生き続けようとするなら、あくまで自然と共存していかなければならないことを認識できるわけです。
 宗教は、意識をもつ存在、したがって選択力をもち、そのためにまた不可避的に選択を迫られる存在にとって、生きるうえに不可欠なものであると思われます。人間のもつ力が増大すればするほど、宗教は必要になってきます。科学の応用についても、それが宗教によって啓発され善導されなければ、科学は欲望の充足のために利用されてしまいます。そうなると科学はきわめて効果的に欲望に奉仕し、したがって破滅を招くことになるでしょう。

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