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日蓮大聖人・池田大作

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5 理性と直観  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 物事を帰納法的に探究していく科学的理性と、演繹的に把握する直観は、互いに補完関係にあると私は思います。といいますのは、理性は、その前提として必ず直観が働くものですし、また直観が把握したものは理性によって正され、あるいは明らかにされます。また理性の鍛錬が積み重なって直観智を啓発します。
 また理性は、複雑な対象を単純な構成要素に分析する働きをします。これに対して、直観は対象を全体として把握し、直接その内部の本質に迫るものといえましょう。
 このように、両者は互いに対立するように見えても、実際には人間の英知の二つの面であり、両者が相まって人間性を高めていくものと考えられますが、いかがでしょうか。
 トインビー 人間が知覚によって得るデータ(既知事項)は、科学上の仮説における素材となります。仮説とは、こうして集積されるデータを、仮に説明づけるものです。したがって、仮説は、検証による裏づけを必要とします。この検証の手段は二つあって、そのいずれもが適用されなければなりません。
 その一つは、理性によって試すものです。すなわち、その仮説が、他の諸仮説と相容れるかどうか、さらに、一般的にみて、暫定的ながらすでに認められている知識の全体系と矛盾しないかどうかをみるのです。
 もう一つの検証手段は、その仮説が導かれる基礎となった一連の現象と、その仮説とを突き合わせてみることです。これによって、その仮説がそれらの現象を十分に説明し尽くしているかどうか、なかにはその仮説と矛盾する現象もありはしないか、ということをみるわけです。
 ただし、どうみても、仮説の正しさが結論的、決定的に証明されるということはありません。これは明らかなことです。なぜなら、われわれがいかに一連の現象を網羅しようとしても、それが完全であるという確証は、どこにもないからです。
 われわれは、将来のある時点において、当然その系列に入るはずでありながら、それまでは観察されたことがないといった現象に、気づくことがあるかもしれません。そして、この新たに観察された現象が、この一連の現象についてこれまで受け入れられてきた仮説的な説明と相容れないことが判明するかもしれません。そういう手に負えないケースが一つでもあると、それだけで、この一連の現象に関する仮説的な説明が信用を落とすに十分なわけです。
 では、いったい、仮説の根源となるものは何でしょうか。仮説がわれわれに提起されるのは、知覚されるデータによってではありません。仮説はデータそのものではなく、データの説明なのです。仮説はまた、理性によって提起されるものでもありません。われわれの理性の働きは、仮説を検討したり批判したりはしますが、それを生み出すことはしません。理性は、その働きかけの対象となる仮説が現れて、初めて活動を開始するのです。理性と知覚とは、ともに精神の意識レベルで作用しています。
 われわれに仮説を提起するものは、直観なのです。直観は、潜在意識の深層から湧き出て意識の中に入り込みます。意識そのものは、たんに潜在意識から直観を受け入れるだけで、直観を生み出したり、創造したりはしません。理性と知覚は、ともに非創造的なものです。人間精神の創造的活動は、直観によるものであり、その根源は潜在意識なのです。
 池田 いまのお話は、人間精神の創造的活動についての、非常に明快な説明です。直観は、科学にせよ宗教にせよ、創造者たちにみられた偉大な精神の飛躍ともいうべき事象の源泉をなしています。理性は自ら何かを創造することはできず、事象を創造的に洞察するには直観智によらなければなりません。
 ただ、直観は多分に主観的であるため、一歩誤れば独善になりがちなものです。したがって、直観が覚知したものがはたして正しいかどうかは、理性的認識によって検証されなければなりません。しかし、そこからさらに進んで、理性と直観とが互いに補い合うような認識の規範、いうなれば″直観的理性″″理性的直観″といったものが、求められてしかるべきではないでしょうか。
 といいますのは、たとえばアインシュタインの相対性理論の発見にしても、ニュートンの万有引力の発見にしても、それ自体は偉大な天才の直観智によってなされたものですが、そこに至る前提としては、理性のあらんかぎりの力を駆使した思索があったわけです。そうした直観と、何らの理性の前提的努力のない偶然の思いつき的な直観とは、私は決して同列に扱うことはできないと思うのです。
 直観によって得られた真理は、第三者にとってはまだこれから検証されるべき仮説であっても、このような理性のあらんかぎりの駆使の果てに直観智によって究めた人にとっては、それはたんなる仮説ではないでしょう。そして、そこに働いた直観は、たんなる偶然的な直観ではなく、理性的直観というべきものであったに違いないと考えるのです。
 トインビー 知覚と理性はともに意識レベルで作用しますから、これによって、さまざまな人間が何を知覚しどう推論しているかについて、互いに意見を交換することができます。彼らはこうして共通する現象の説明、共通する思考の結論に達することができます。
 われわれは、そうした共通の説明や結論を、客観的と呼びます。その意味は、それらがある一人の個人だけに特有の、したがって他の説明や結論と異なるような、その個人にも他の人間にも共通性のない、私的な見解や思想であってはならないということです。しかし、実在それ自体がありのまま正確に人間の知性に映じたものを客観的というのならば、いま述べたような意識的思考の共通内容が、はたしてそうした意味での客観性をもつかどうか――これを確かめる手段はありません。もしかしたら、これらの共通内容は、集団的な幻覚にすぎないかもしれないのです。
 直観のなかには、ある一個人に特有のもの、という意味で主観的なものがあります。そうした個人的な直観は、他の人々には納得のいかないものであるかもしれません。事実、そうした直観は、すべての人間にとって自明であるとはかぎりません。しかし、それでもなかには、考えを変えてこれを受け入れる者も現れることでしょう。科学者や詩人、宗教的覚者などの個人的な直観が、これにあたります。
 しかしながら、これまでの研究成果によれば、潜在意識はいくつもの明瞭な精神層から成り立っているようです。そして、個人的な直観のレベルの下層には、もう一つの層があり、そこではC・G・ユングが″原初イメージ″と名づけた類の神話を、潜在意識がつくりだしているように思われます。この原初イメージは、意識レベルにおける知的活動と同じく、万人に共通するものです。
 同一の原初イメージは、多くの異なる諸民族の儀式や民話に投影され、表画化します。それはまた、時と場所を違えて諸文明を代表する人々によって書かれた、手のこんだ戯曲や小説のプロットにも現れています。原初イメージは強力な心的エネルギーをもっているため、強制力があります。それは、時として、意識的な人間の意志を圧倒し、人々に本来の意図に反するような行動をとらせることがあります。
 池田 ユングのいわゆる″原初イメージ″は、″集団心″といわれているものと同じだと解釈できますね。つまり、一人一人の人間の心の奥底には、人類発生以来のすべての遺産が、人類共通のものとして受け継がれ、奥深く潜在しているということでしょう。
 宗教は、そうした潜在意識層を含み、さらにその奥に真実の実在を求めようとするものです。したがって、宗教は多分に直観の世界であるわけですが、しかし、宗教が直観だけを強調するとドグマに陥ってしまいます。私は、宗教の直観智も、理性の光に照らされて初めて現実に生きたものになると考えています。さきほど、理性的直観でなければならないと申し上げたのは、そうした意味も含めてです。
 同様に、科学においても、理性だけでよしとするのでは片手落ちであり、直観智に支えられた理性でなければならないと考えるのです。
 トインビー 私は、科学と宗教は、人間の潜在意識のなかの″個人的な層″からも″普遍的な層″からも、直観を引き出すものと信じています。この点、科学者の立てる仮説は、宗教的覚者の洞察と同質のものです。ただし、科学者たちは、その直観を意識の場において検証にさらしますから、その点での厳密さは宗教家にまさります。
 これに対して、宗教的覚者たちは、宇宙の本質とか人生の意味とかの根本的疑問に、ドグマチックな解答を与えることのほうに、より多く意を用います。これらの根本的疑問は、たいていの人々がその生涯でいつかは問いかけるものですが、しかし、これに対する検証可能な解答というものはありません。それは人間の思考能力を超えたものなのです。にもかかわらず、そうした根本的な疑問こそ、われわれの心に最も切実に迫り、最も執拗に解答を求めるものです。宗教的覚者がこれに与える解答は、検証不可能という意味では、たしかにドグマチックです。ただし、ギリシャ語の″ドグマ″という語の原義は、一般的に認識され承認されている真理に対して、一つの意見、という意味なのです。
 科学者たちは、いろいろな現象を観察し、それらに合理的な説明をさがし、そこから得た結論を調べる努力に、彼らの目的を限定しています。こうした科学に対して、宗教のほうは、人間が意識に目覚め、これから一生を過ごさなければならない、この神秘的な世界の地図を与えてくれます。この地図はもちろん憶測によるものにすぎませんが、しかし、われわれはそれなしですますわけにはいきません。それは人生に不可欠なものです。しかも、この地図は、科学的探究法によって人間が近づきうる宇宙のうちの小断片を調べ、立証してきた科学の調査結果の多くよりも、われわれにとってはるかに実質的な意義をもつものなのです。
 もちろん、科学も人生に欠かせないものですが、科学のなかで不可欠なのは初歩的なものだけです。科学的な観察や理論は、最初期の旧石器時代に道具が作られたさいにも、すでに必要とされていました。人類が存続していくためには、そうした初歩的な科学だけで十分だったのです。その後の科学の長足の進歩は、生存という目的からみれば、無用の長物でした。しかも、その進歩は人類の自滅すら招きかねないのです。
 池田 おっしゃる通り、宗教と科学は、とくに人類の歴史の現段階において、人間の生活に必要不可欠なものになっています。私は、科学も宗教も、決して互いに対立すべきものではないと考えています。科学の基盤に宗教がおかれ、宗教もまた科学性を内包する、そして科学と宗教がともに相まって高揚されていく、それが人類の眼を一段と開くことになる、と信じております。アインシュタイン博士の「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教にも欠陥がある」という言葉は、いまやますますその重みを増していると思います。
 トインビー 科学と宗教は、対立する必要はなく、また対立すべきでもありません。宇宙に対応するためには、人間は宇宙に精神的に接近しなければなりませんが、科学と宗教は、そのための相互補完的な方法です。
 科学は、宗教の領域への侵入を禁じられています。これを侵害しようとするなら、科学は検証不可能なドグマチックな発言をしなければならず、そうなれば科学独自の検証という手順を放棄することになり、結局自らの存在意義を失ってしまうでしょう。
 宗教のほうは、かつて時折、科学の分野を侵害しましたが、科学がその領有権を主張したとき、退却せざるをえませんでした。しかし、この退却によって宗教自体の領域が傷つくことはありませんでした。
 池田 宗教と、宗教のもつ直観とは、人類全体に価値をもたらすものであり、したがって、すべての人がその本質的価値に目覚めることが大切です。私は、宗教と科学の相互補完的な関係をそうした立場から考えてみるときに、次のような方法も考慮されてよいのではないかと考えます。
 すなわち、博士のご指摘にありましたように、宗教は、人間にとって最も根本的な課題にドグマチックに答えることのほうに多く意を用いています。一方、科学は合理的な説明を求め、その結果を検証することに意をくだいていますから、そこにおのずと限界があります。ただし、人々の理性に訴えるので、納得させやすいことも事実です。このような、直観を中心とする宗教と理性を主とする科学の、それぞれの独自性を認めたうえで、双方の間に一つの″懸け橋″をかける努力をする、ということです。つまり、宗教者と科学者が、その各自の領域を一歩超えて、相手に接近しようと努力することです。
 むろん、それは侵害ではなく、相手の立場を尊重しつつ近寄るのです。いかに近づいたとしても、科学の方法は、宗教の領域には侵入できないでしょう。しかし、宗教独自の領域に人々が心を寄せるようになるための、一つの″懸け橋″となることは可能だと思います。
 その一例として、博士が種々の高等宗教の説く教義と″究極の精神的実在″との関係を考えるうえで、物質の極小の形における相容れぬ特性を、考察の一つのステップとして使われたことなどは、きわめて有効であると思います。博士が使われたのは、人間の理解能力の限界を示すためでもありますが、そのことが見事に各高等宗教間の矛盾を解きほぐす、一つの有効な手段になっている、と私は考えます。

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