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日蓮大聖人・池田大作

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1 人間の動物的側面  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 人間とはいかなる存在であるか、またどうあらねばならないかを考えるとき、われわれは人間もまた動物の一種であり、種々の本能的欲望をもっているという事実を無視することはできません。
 そうした本能的欲望はたくさんあげることができますが、ここではとくに性に関する問題をとりあげてみたいと思います。多くの本能的欲望のなかでも、性欲にはとくに強く羞恥心がつきまとうため、文明社会においては性を秘密にすべきだという一種のタブー観がありました。ところが、人間のありのままを見直そうとする現代の傾向は、そうした性ヘのタブー視をことさらに排除しようとして、これとの間に相克を現じています。
 現在、性の解放は世界的な傾向として、とくにヨーロッパ、アメリカ、日本などで顕著です。その急激な勢いは現代社会を根底から揺さぶっているといっても過言ではないでしょう。
 性を正しく理解することは当然必要ですし、いたずらに隠微に閉ざしておくのもどうかと思われます。それではかえって歪んだ性を助長することになるでしょう。しかし、今日の性解放の状況が、一部でいわれるように人間解放への道であると手放しでいえるかどうかとなると、はなはだ疑問です。私には、ここには何か重大な欠陥があるように思えてなりません。性に対する考え方の基盤に、何かが欠けていると思うのです。
 トインビー 人間は、たまたま動物であると同時に自意識をもつ精神的な存在でもあるという、厄介な、困惑すべき立場にあります。つまり、人間はその本性に精神的な側面をもつがゆえに、他の動物のもたない尊厳性というものを与えられていることを知っており、その尊厳性を維持しなければならないと感じます。このため、人間以外の動物とも共通する、したがって生理的に野獣と同類であることを思い起こさせ、人間の尊厳を損なわせるような身体的器官、機能、欲望などに対しては、人間は当惑してしまうわけです。人間以外の動物には自意識がありませんから、自らの身体的資質に当惑するということはありません。自身の尊厳を失う恐れからくる当惑、現実に尊厳を失ったときの屈辱感などは、すぐれて人間特有の問題なのです。
 人間の本性にそうした動物的側面があるにもかかわらず、なお人間の尊厳性を保とうとして凝らされる工夫が、いくつかのしきたりを設けることであり、人間はこれによって自らを他の動物から区別するわけです。これは他の動物には真似ようとしても真似られないことです。それらのしきたりによって、人間はその本能的で拭い去ることのできない、生物学的遺産の一部である動物的器官、機能に対処しているわけです。このように、人為的なしきたりを設けて、すべての動物に共通する肉体的器官、機能に対処するという人間のやり方がどこまで進んでいるか、その度合いが人間の文化、文明をおしはかる一つの尺度といえましょう。
 池田 すべての文明にはそれぞれ独自のしきたりや習慣があり、それらが世代から世代へと受け継がれていきます。性にどう対処するかということも、文化の一部として伝承されてきたわけです。それが今日、性教育ということで、何か特別のことででもあるかのように論じられています。つまり、各文化に伝承されてきた性にまつわるしきたりは、人間の生き方というものの一部として主体化されていたわけですが、これに対して今日の性教育は、性を唯物化ないしは客体化しているように思えてなりません。
 トインビー たしかに多くの文明には、性に関してもその他のことに関しても各種のしきたりがあり、それらのしきたりが幾度となく変遷を重ねてきています。
 今日、われわれのもつ現代文化にあっては、人間は生殖器官や排泄器官を覆い隠しています。まして、公衆の面前で性行為に及んだり、普通、人前でははばかられる、いわゆる排尿・排便を平気で行ったりはしません。また、食事作法もきちんと守られています。
 食事作法についてはじつにさまざまな様式があり、それぞれが各文化の相違を示すデリケートな指標になっています。ただし、これとても文化の健全度や病弊度を指し示す、確実無比な指標とまではいえません。なぜなら、人間にとって食べたり飲んだりは、たしかに動物としての機能であり、ネズミやウシと共通することではあっても――齧歯類や反芻動物と同じやり方で飲み食いするのでもないかぎりは――別段恥ずかしいと感じることではないからです。
 これに対して、排泄とか性交とかの行為となると、文化様式の相違にかかわりなく、あらゆる人間にとって本質的な当惑のもとになります。このため人間は、この生来の機能を呆たすにあたって誰でもしきたりを守るわけです。
 性はとくに人間に当惑を与えます。それというのも、人間の性欲というものは普通、思春期に至って初めて生じるものだからです。したがって、青年期に入った人々には性に関する正しい知識を与える必要があります。ところがこの教育がまた手際を要します。もし子供が性的に成熟してしまうまで年長者が性を神秘化し、知識を与えるのを遅らせていれば、その結果、子供の好奇心はかえって煽られ、それまで何も知らされずにきたことを憤ることでしょう。これによってその子供が性の強迫観念にとらわれ、性行為に過度の願望をいだくというのはありうることです。その反対に、もし両親が子供の目の前で性行為に及ぶようなことがあれば、子供に対する親の威信は失われ、子供は肉体的に成熟する前にすでに性への関心にとりつかれてしまうでしょう。
 このように性教育では、一方の有害なまでに行き過ぎた開放主義、放任主義と、他方の有害なまでに度の過ぎた秘密主義、抑圧主義の、いずれにも偏しない中庸の道をとることはむずかしいのです。
 池田 まったくおっしゃる通りです。これは現代において最もむずかしく、また最も重要な問題の一つですね。
 トインビー 人間の尊厳性に関する弱点は、動物としての器官や機能を入為的に覆い隠すこと以外に、尊厳を保つ、よりよい方法がわれわれには見つからないということです。
 ここで仮に人間以外のある動物が一時的に人間と同じ知力を借りて、人間の生態を自由気ままに観察する機会を与えられたと想定してみましょう。すると、この架空の観察者は、きっと人間の尊厳などはたんなる見せかけにすぎず、実際には他種の生物と大差ないのに、その事実を隠す慣習的な工夫によって尊厳性を維持しようとしているのだ、と判断することでしょう。
 しかしなお人間は自らが尊厳性をもっており、尊厳性を維持できなければ人間以下の存在に堕してしまうと、心底から思っています。私自身、さきの架空の観察者による人間の尊厳への判断よりも、この人間自身の言い分のほうが真実であると思うのです。人間が尊厳性を自覚しているということは、いいかえれば生理的には動物という有機体でありながら、しかもなお自身を一個の精神的存在として認識しているということです。
 池田 その通りですね。精神の働きをたんなる空虚なこと、架空の現象であるとしてしまうなら、人間の尊厳性ということも、また人間が自らを尊厳ならしめるために考え出した行動様式というものも、まったくナンセンスなものとなるでしょう。しかし、現実には精神の働き、精神の世界が人間にとって重要な比重を占めています。そこに人間が性や食事や、その他のあらゆる行為に関して考え出した行動様式ないしは禁制といったものが、決して無意味なものでないことの根拠がありますね。
 トインビー 人間はその動物的器官、機能を律する規範を自らに課し、それによって自分が人間であることを主張し、人間性を擁護しています。
 これまでのところ、人類は普遍的で画一的な規範というものをもちませんでした。各々の人間社会で実施されてきた規範はそれぞれに異なっています。いくつかの異なる規範体系を比較するさい、われわれは、こちらのほうがあちらよりもよい、といった判断を下します。またわれわれは不断に規範の修正を行っています。しかし、われわれの知り及ぶかぎり、あらゆる規範を一掃してしまった人間社会などというものは、どこにもありません。たとえそのような社会が存在したとしても、それが人間社会として存続できるとは、まず考えられません。
 人間は他の動物に比べてはるかに大きな行動の自由をもっています。われわれは、人間以外の動物より悪い行動をとることも、よい行動をとることもできます。したがって、もしわれわれが規範というものをもたずに生きるとしたら、きっと動物以下の行動に走っていることでしょう。
 性交という問題に対処するうえでの適正な判断基準となるのは、人間の尊厳をいかに維持するかです。そして人間事象のこの分野にあっては、性的関係は、さらに重要な精神的特性、すなわち愛によって人間的なものになるわけですが、尊厳性はここでそのための必要不可欠な条件となります。愛も尊厳もない、たんに動物的欲望を満たすだけになった人間の性的関係というものは、もはや精神の堕落をもたらすだけです。
 人間以外の動物の場合、性的衝動に対して示される反応は自意識をともなわず、したがってそれは純真無垢なものです。しかもこれら動物の性の営みにおいては、そこに感駕そなわつた自然の最織斌ぼよって性交もおのずから調節されています。人間の生活では、尊厳も愛もともなわない性はたんに獣欲となるだけでなく、自然の抑制力によって営まれる野獣の性交よりも、精神的、倫理的に程度の劣るものとなってしまいます。
 池田 社会に規範がなかったならば、それはもはや人間の社会とはいえません。動物の社会にさえ劣るものでしょう。ある程度の精神的機能をもつ動物は、必ず何らかの行動規範をもっています。猿の集団を観察したある学者は、そこに食事の順序や性関係を規制する規範が厳然と存在することを報告しています。もし人間がすべての規範を放棄するとすれば、それはこうした動物よりも劣ることになります。
 トインビー なかんずく、性に関する規範は最も重要なものです。それは性が、人間の本性の動物的側面のうちで、最も深刻な要素をなしているからです。人間の身体にそなわるそれ以外の動物的機能は、すべて一個人の問題にとどまるものです。ところが性関係では、少なくとも二人の人間がその影響を分かち合います。そしてそこに子供の誕生という当然の結果をみるならば、すでにその影響はより多くの人間にも及ぶわけです。
 人間はそれぞれ個人をとってみれば、性関係をもたずに生きることもできましょう。修道僧や修道尼はこれを断っています。しかし人類全体となると、性関係なしに存続することはできません。それ以外に繁殖の術がないからです。
 そこで、性関係に規律が加えられることによって、初めて愛が人間生来の性欲の充足にともない、それはまたこの愛によって尊厳性をもち、高められるのです。夫婦の愛、親子の愛は、孔子の教えにあるように、人間の社会性、道徳性の核心をなすものです。
 池田 よくわかります。その点、私も基本的には賛成です。しかし、そうした性関係における道徳性の喪失、さらには愛の欠如という現象の底流を探ってみると、そこには人間生命の物質視ともいうべき風潮があるようです。これが性における肉体と精神の分断となってあらわれ、性そのものを快楽の道具とするような結果を生んでいるのではないかと思われます。
 私は、結局、この点に焦点を当てなければ、抜本的な解決の道を見いだすことは不可能ではないかと思うのです。
2  トインビー 人間社会の規範や風俗、習慣は互いに連携しあって、一つのネットワークを形成しています。人間生活の諸分野を律する規範には、それぞれ論理上の脈絡はないかもしれません。しかし一分野でとられる放任主義や抑制主義が他の分野にも波及しやすいという意味での心理的な脈絡は、まぎれもなく存在します。現在、性関係にみられる放任主義が、麻薬の服用や悪徳行為などの放任状態を呼んでおり、また個人的ないしは政治的目的のために暴力に訴えることも、自由放任的になってきていますが、これらは決して偶発的なことではありません。
 最近、人間生活の多くの分野で無法状態が生じている原因として、一つには過去三回の世界大戦と、同じく一九一四年以降に頻発した局地戦争において、何百万という人々が兵士にされたことがあげられます。戦争は人間生命を奪うことへの人間の正常な抑制心をあえてくつがえします。兵士にとっては、同じ人間同胞を殺すことが――一般市民として犯せば罪に問われるべき殺人が――罪どころか義務になっています。人間の主要な倫理規範がこのように恣意的に、非倫理的な方向へとくつがえされてしまうのは、それ自体すでに乱脈を示すものであり、道義に反することです。しかも従軍中の兵士たちは、かつて慣れ親しんできた社会的環境からまったく引き離され、したがってそれまでの社会的制約からも解放されています。すでに殺人を命じられている以上、彼らが強姦、略奪、麻薬服用などへの通念的な抑制心にもはや縛られなくなったとしても、そこには何の不思議もないわけです。ベトナムにおけるアメリカ軍兵士の道徳的頑廃も、じつはどこの戦場の兵士にも常に起こることが端的にあらわれたケースなのです。
 池田 まったく、戦争がもたらす倫理観の恐ろしいほどの低下は、いつの時代でも同じですね。
 トインビー 戦争は悪です。ただし、科学的精神は悪ではありません。ところが知らずしらずのうちに、しかも間接的にですが、この科学的精神は現代の無法化を、とくに性関係において助長してきたと私は思っています。科学が倫理上もつメリットは、真理の発見とその直視に寄与することです。科学はあらゆる伝統的な信念、しきたり、風習に挑みます。
 性行為に関する伝統的なしきたりは、どこの社会でも程度の差こそあれすべて抑制的なものでした。私は、これは倫理上正しいことだと考えます。しかしながら、規制というものは、厳しければ厳しいほど、それを破ることが頻繁となり、悪質なものとなり、その違反を慎重に隠そうとする行為も、ますます偽善味を帯びてくるものです。現代の子供たちは、正規の学校教育を通じてだけでなく時代精神を通じても、真理への科学的情熱と、まやかしに対する科学的侮蔑心をもつよう教えられています。その結果、今日ではクレディビリティ・ギャップという形で、親や政府の威信が、したがってまた権威が失墜しています。現代っ子たちは、性関係についてもその他のことについても、親たちの言行は一致していないと頭から疑っているわけです。
 このことがもし性行為に関する伝統的しきたりヘの現代の反抗の一因であれば――私はそうだと信じていますが――若者たちは、その性の行動を規制しそうにはありません。公的機関が抑圧的な措置を加えても、あるいは性的禁欲主義への自主的な運動が起こっても、彼らをその気にさせることはできないでしょう。
 池田 現代の若者たちに見られるそうした性の放縦の傾向は、物質主義的な文明の圧力に押されて、彼らの生命自体が衰弱化しているところにその真因があるのではないかと私は見ています。弱りきった生命から、どうしてみずみずしい愛の精神が生まれるでしょうか。
 かねて博士は「愛の働きに、現代の状況を乗り越える方向がある」と主張しておられます。私はそのご見解にはもちろんうなずけるのですが、さらにその愛自体を生み出し、支える、もう一歩深いところに基点をおかなければ、真に現実的な力とはなりえないのではないかと感じます。
 性に人間的道義性を回復させる道としては、まず若者たちの精神を抑圧している物質主義的な力を除いてやることが先決でしょう。それと同時に、愛を支え、愛を生み出す根源の生命自体を開発し、躍動させ、強めていくことが必要です。私は、それを可能にするものが何であるかが問われるべきだと考えます。
 トインビー 性の放縦を正すものとして期待できるのは、積極的な方法だけでしょう。性の放縦は、人類の未来に対する信念と希望の喪失を示すものです。それを癒すものとしては、まぎれもなく若い世代に生気を吹き込む――といって空想的なものではない――何らかの目的を与えてやることです。
 性の行為を律するどんな規範体系も、たしかに神聖不可侵のものではありません。といって、もし人間の性関係が何らかの規範体系によって律せられていなければ、人間の生活は獣的なものになってしまいます。
 この規範体系とは、人間が他の動物と共通にもつ生理機能のうちでも最も厄介な性というこの機能に、人間の尊厳を与えるものでなければならず、またそのことがはっきりと認められるものでなければなりません。

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