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日蓮大聖人・池田大作

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終論 法華経は師弟不二の経典

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  戦い続ける信心を永遠に継承
 斉藤 草創の方の思い出です。山口県の下関に、戸田先生が行かれた。寺院の改築落慶法要でした。法要が終わって、祝宴に移り、余興の歌が、次々と歌われた。
 ある人が「日本男子の歌」を歌い始めると、戸田先生はその歌ではなくて「白虎隊」の歌を歌いなさいと言われた。そこで一生懸命に歌うと、戸田先生は立ったままで、じっと聴いておられた。厚い眼鏡の奥に、いっぱい涙を浮かべておられた。歌い終わると、こう言われたそうです。
 「今、こうして皆、楽しんでいるが、私のかわいい大(=池田名誉会長)が、大阪で死にもの狂いの戦いをやっている……白虎隊の歌を聴いたので寝るよ」。
 声を詰まらせて、こう言われて、席を下がられた──皆、冷水を浴びた思いだったそうです。
 遠藤 昭和三十……。
 池田 三十二年(一九五七年)の四月でしょう(四月二十日)。ありがたい師匠です。
 遠藤 池田先生が、大阪の参院補欠選挙に行かれた時ですね。先生が入獄(七月三日)される、きっかけになった戦いでした。
 斉藤 腐敗した既成権力との対決でした。この十日後(四月三十日)、戸田先生は突然、倒れられます。一年後に、ご逝去です──。ご自分の体も不調の中、後を託す池田先生のことを、どれほど思っておられたか、厳粛な気持ちになります。
 池田 大慈悲の師匠でした。
 「もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」と言ってくださった──。
 私も、殉教の決意で、一切をお守りしました。
 斉藤 本章で「法華経の智慧」は終了になりますが、結論として、私が痛感するのは、法華経とは「師弟不二の経典」であるということです。
 その心棒が、全編を貫いています。
 たとえば、方便品(第二章)で諸法実相を説いて、一切衆生に平等に仏性があることが明かされます。これによって、それまで成仏できないとされていた二乗が、次々と成仏していきます。迹門では、仏(師)と衆生(弟子)が「不二」であることを、あの手この手で語っていきます。
 池田 そうだね。そして悪人も女人も成仏できると説いていく。(提婆達多品〈第十二章〉)
 須田 「万人が仏になれるんだ!」と──。
 池田 「万人が仏である」と悟った人を「仏」と言うのです。
 「仏」の悟りとは、ほかのものではない。だから、いばったり、人を見下す仏など、いるわけがない。それだけでもう、「にせもの」と分かる。
2  「増上慢」との戦いが法華経
 須田 勧持品(ユング第十三章)の「三類の強敵」には、すべて「増上慢」と付いています。(俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢)
 「増上慢」こそ「法華経の敵」ということだと思います。
 とくに僣聖増上慢は、人々から聖人のように尊敬されながら、内面は悪心に満ち、「人間を軽賎する者」と呼ばれています。
 遠藤 日顕宗ですね。経文通りです。
 法華経は「人間を尊敬する」仏の心と、「人間を軽視する」魔の心との戦いです。「第六天の魔王」との戦いが、法華経であると思います。
 池田 その通りだ。その戦いを「師弟一体」で断行していくとき、はじめて、わが身の上に「仏界」が涌現する。「妙法蓮華」の花が咲いていくのです。
 「妙」は師匠、「法」は弟子。一体です。「蓮華」は因果倶時を表す。因は九界で弟子、果は仏界で師。師弟不二です。妙法も蓮華も「師弟不二」を表しているのです。それが妙法蓮華経(法華経)です。この妙法を広宣流布していく「信心」を指して「仏界」という。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(中略)此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」の仰せを、かみしめなければならない。
 (この御本尊は、まったくよそに求めてはなりません。ただ、私たち衆生が、法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのです。〈中略〉この御本尊も、ただ『信心』の二字に収まっているのです)
 「信心」とは「実行」です。「戦い」です。戸田先生も、最後の最後まで、「広宣流布」へ、命を燃やされた。牧口先生も、そうであった。世界的大学者で、大人格者の牧口先生が「獄死」ですよ。日本の権力に殺されたのです。
 牧口先生は入獄される年(昭和十八年〈一九四三年〉)、「今こそ国難を救うべき時だ」と叫ばれ、春ごろから学生に「立正安国論」の講義を始められた。その年の七月六日に投獄です。
 それまで「牧口先生」「牧口先生」と言っていた弟子たちが、手のひらを返したように「牧口の野郎」とか「牧口のせいで」とか罵倒した。人の心は、恐ろしい。
 その反対に、戸田先生だけは「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と感謝しておられた。天地雲泥です。
 牧口先生は、投獄の翌年十一月に逝去された。「安国論」を身で読まれての獄死です。
3  獄中で「思い出した」──戸田先生
 池田 そして不二の弟子・戸田先生は、同じ獄中で「法華経」を読まれ、その真髄を覚知されたのです。それは「仏」とは、宇宙に遍満する「大生命」のことであり、久遠の昔から常に、この世界に「永遠の命」として働き続けている──自分もその「永遠の大生命」の子どもであり、仏子であるという自覚です。
 「生命」についての、この悟達は、今後、人類の探究が進めば進むほど、正しさと偉大さが証明されていくに違いない。もう、すでに、そういう時代に入りつつある。
 戸田先生はよく、「勉強したんじゃない、思い出したんだ」と言われていた。獄中でのご苦労のため、先生の目は極度の近眼になっていた。御書を読まれるときなど、眼鏡をはずして、目を細め、鼻をすりつけるようにして読んでおられた。「私は目がこんなだし、みんなのように御書を読んではいないよ。大聖人様の仏法は、思い出すのだ」と言っておられた。
 仏法の質問を受けられて、先生は「私は、こう思う」と言われ、「大聖人様も、きっと、そう教えておられるはずだ。どこかにあるはずだ」と言われる。調べてみると「御義口伝」などに、ちゃんと出ている。
 「分からないところを思索していると、ふうっと分かることが、たびたびあった」とも言われていた。
 戸田先生の悟りも「師弟不二」の悟りです。久遠以来、日蓮大聖人の弟子として、一体で活躍してきた、その事実を「思い出した」のです。これが分かれば、何で命が惜しかろうか。
 ただただ感謝して、広宣流布へ向かうはずです。永遠に広宣流布へ「向かっていく」──その「信心」以外に、末法の悟りもなければ、仏界もない。
 これが戸田先生の教えです。

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