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日蓮大聖人・池田大作

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普賢菩薩勘発品(第二十八章) 広布の同…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  普賢とは「智慧」、勧発とは「励まし」
 池田 ある幹部を、私は厳しく指導したことがある。
 彼は、ある人が会合に遅れてきたのを、皆の前で叱ったのです。それを聞いて、私は激怒した。「君に、その人を叱る資格があるのか。とんでもない。忙しいなかを、せっかく駆けつけて、広布の世界に馳せ参じてこられたのではないか。『よく来られました』『本当に尊い』と最大にたたえ、守り合うのが同志ではないか」
 これは、だいぶ前の話だが、いわんや今は不況の時代だ。一人一人の経済状態が、どうなのか。また家庭の状況が、どうなのか。それを知りもしないで指導しても、それは「虚像」のうえの指導です。
 形式主義になってはならない。権威主義になってはならない。
 ある場合には、「きょうの会合は、私が行って話を聞いてきて、お伝えしますから、あなたは仕事に頑張ってきてください」と言ってあげたほうがよい場合もある。そういう「思いやり」が、百万言の「励まし」になる。また、ある場合には、「仕事も活動も、全部、やりきることが、根本の福運をつくることになるんですよ。今が宿命転換のチャンスですよ。頑張りましょう」と激励したほうがよい場合もある。
 厳しい内容の指導でも、相手を思う祈りが深ければ、通じるものです。また、慈愛が強くなくては、本当のことを言ってあげることもできないでしょう。
 いずれにしても、相手を思う一念があれば、いくらでも「智慧」は出るはすだ。それが「普賢菩薩」の生命でもある。
 斉藤 普賢菩薩について「普とは諸法実相・迹門の不変真如の理なり、賢とは智慧の義なり本門の随縁真如の智なり」と、御義口伝には仰せです。
 池田 「不変真如の理」とは「原則論」です。
 「隋縁真如の智」とは「価値創造」です。
 原則論がなければ、いいかげんになって崩れてしまう。原則論だけ振り回していては、硬直してしまう。その両方を堅持できるのが「信心」です。
 皆を絶対に幸福にしきっていこうという「責任感」の信心だ。その信心があれば、それが「普賢菩薩」であるし、「普賢菩薩の威神の力」です。この力で、広宣流布は進むのです。
 (「御義口伝」に「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」と)
2  魂魄をとどめる思いで
 遠藤 かつて先輩から、こんな思い出をうかがったことがあります。
 池田先生が、会長就任後、会長室で、ある人を指導しておられた。その人は肺病で、信心して数年。なかなか良くならないので、夫妻で指導を受けに来られた。話の最中に電話が鳴ったので、北条さんが出ました。北条さんに用事でした。小さい声で話を続けていると、突然、先生が「うるさい、やめなさい!」と大喝された。
 びっくりして受話器を置くと、先生は静かに、「この人は肺病で苦しんでいる人だ。私は指導する時は御本尊を胸に浮かべて、体当たりで指導している。その中に雑音を入れることは、魏延ぎえんだぞ。あれと同じだ」と、諭すように言われた。
 『三国志』で、諸葛孔明が病魔と戦いながら、最後の祈りをこめていた。六日間、燃えていた火が、あと一日、燃え続ければ活路が開ける。その時、魏延が突然、入り込んできて場を乱し、大切な火を消してしまう。そして、やがて孔明の命の火も燃え尽きてしまった──という、あの話です。
 先生が一人の人を激励するときの「真剣さ」が衝撃的だったと、言われていました。
 池田 あの時は怒って、悪かった(笑い)。その方は厳しく言っても大丈夫な方だったからです。今は、本当に厳しくすると、だれもいなくなってしまう(笑い)。しかし、時代が変わっても、信心の峻厳さだけは、忘れてはならない。
 私は、だれに会っても、「もう、この人には二度と会えないかもしれない」と思って、魂魄をとどめる思いで接してきた。
 海外広布にしても、草創期、だれも「世界広宣流布」なんて信じていなかった。しかし、これは法華経の予言であり、日蓮大聖人の御命令である。今、「一歩」を始めなければ、道はできない。
 今、私が世界を回って、その国に、妙法という平和の「種子」を植えておけば、いつかは芽が出る。今、私が「道」を開いておけば、その後に必ず、後輩が誇りをもって続いてくれるに違いない。そう思って、私は「私の後を、青年が胸を張って続いてくれる。『ああ、SGI会長はここまで足跡をとどめていたのか』と励みに思ってくれるに違いない」。そう信じて、行動した。金もない、応援もない、人材もない、時間もない、何もないなかで、道なき道を開いてきました。今、その確信通りに、世界百二十八ヵ国(=二〇〇七年七月現在、百九十ヶ国・地域)で、地涌の友が舞っている。
 「普賢」とは「普く」「賢くする」すなわち「一切の人を」「智慧を開かせ、幸福にする」という意味にもとれる。自分が接する一切の人を幸福にしていこう! その気迫が「普賢」の心です。
3  法華経の「要点」を説く
 池田 ところで、冒頭、「会合に遅れた人」の話をしたが、それを思い出したのは、ほかでもない。普賢菩薩自身が会合に遅れてきたんだね(笑い)。
 斉藤 そうなります(笑い)。霊鷲山の説法が全部、終わろうかというころに駆けつけてきたわけですから。
 須田 「普賢菩薩勧発品(第二十八章)」は、いよいよ法華経の最後の章ですが、冒頭、いきなり「普賢菩薩が、東方の別世界から霊鷲山に駆けつけてくる」シーンから始まります。
 遠藤 東方の「宝威徳上王仏の国」にいたところ、娑婆世界で釈尊が法華経を説いておられるのを知って、「無量無辺百千万億の諸の菩薩衆」とともに、やってきたわけです。
 斉藤 日蓮大聖人は、そこのところを、実に面白く描写されています。
 「(普賢菩薩は)遅れてやってこられたものだから、『これは仏様のご機嫌が悪いのではないか』と思ったからでしようか、真剣な面もちになって『末法に必ず法華経の行者を守護いたします』と真心から誓われたのです。すると釈尊も、『法華経を閻浮提(世界)に流布することを、とくに真剣にやります』と誓う姿を、よしと思われたのでしょう。かえって先の上位の菩薩よりも、とくに手厚く普賢菩藤をほめられたのです」(「日女御前御返事」、御書一二四九ページ、通解)
 池田 じつに、よくわかる説明です。もちろん経文には、こういう「心理描写」が書いてあるわけではない。法華経の心をくんで、わかりやすく婦人門下に教えてくださったのです。
 ありがたい御本仏です。いつも心をくだいてくださっている。
 須田 普賢菩薩は、釈尊に嘆願します。「どうか教えてください。どうすれば、仏様の亡くなった後、この法華経を体得できるでしようか」と。
 斉藤 大事な質問ですね。
 もちろん、薬王品(第二十三章)以後、妙音品(第二十四章)、観音品(第二十五章)、陀羅尼品(第二十六章)、妙荘厳王品(第二十七章)と、一貫して「滅後の法華経実践」について説かれてきたわけです。そのうえで、普賢菩薩のこの質問によって、釈尊が法華経実践の「ポイント」を述べるわけです。
 池田 だから普賢品のことを「再演法華(再び法華を演べる)」という。いわば全体の「復習」です。
 ″ここがポイントだよ! これだけ覚えておけば大丈夫だよ!″という法華経の要点が、まとめられているのです。

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