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日蓮大聖人・池田大作

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妙荘厳王本事品(第二十七章) 盤石な「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  「実証」に勝る雄弁なし
 池田 この間(一九九九年二月)、沖縄にアジアの代表の方々が来られた。そのなかのあるご一家に関して、私は言いました。
 「お嬢さんは高校三年生──将来、恋愛したり、お嫁に行くとき、一番、寂しがるのは、お父さんです。お父さんは娘が一番かわいいものだ。
 お母さんは『年をとれば、結婚してもしかたない』と思っている。でも、お父さんは、ふとんの中で熱い涙を流している(笑い)」
 「法華経には竜女の成仏が説かれる。『竜女』の『竜』は父、『女』は娘。関係が深いのです。だから、お嬢さんは、恋愛しても、お嫁に行っても、『私は、お父さんが一番好き!』と言ってあげれば、一番喜ぶし、一番の親孝行なんです。最後まで『パパ、大好き!』と。それが一番、一家が幸せになります」
 斉藤 たしかに、簡単なようで、根本的な人間学だと思います。
 池田 日蓮大聖人は「物に随つて物を随える」という智慧を教えられた。仏法心理学であり、人間学です。当時の社会状況を踏まえて、女性に対しての御指導になっているが、男女ともに必要な智慧でしょう。夫婦でも、親子でも同じです。
 遠藤 未入会のお父さんに対しても同じですね。
 池田 同じです。いや、なおさら、お父さんを大事にしてあげることです。「お父さん、お父さん」と慕って、「お父さん、体を大事にしてね」「お父さん、長生きしてくださいね」と真心から大切にしてあげてほしい。
 良き子ども、良き妻、良き夫になるのが信心の実証です。それが、信心したために、反対になったのでは、何のための信仰かわからない。信仰のことで争っては愚かです。
 また、信仰のことで未入会家族が反対する場合も、じつは信仰そのものよりも、信仰している家族の振る舞いについての不満の場合が多いのです。
 夫婦間の問題を、信心にかこつけていることも多い。もちろん根本的には、自分自身の宿業の問題がある。三障四魔の場合もある。ゆえに大聖人は「此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ」──この法門のためには、たとえ夫に殺されたとしても後悔してはならない──と教えられている。
 「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」です。どんなことがあっても、強盛な信心を貫いていく。それが「幸福」の根本です。
 自分の信心を深める。強くする。これが一切の根本です。それが一家一族全体を、幸福の軌道に引っ張っていくのです。そして、強盛な信心というのは、勇ましい格好のことではない。相手の立場を思いやれる境涯のことです。ちょっとした配慮のなかに、きらりと光るものだ。
2  「子を、妻をかわいがりなさい」──戸田先生
 池田 戸田先生の質問会でも、「家族に信心を反対されている」という悩みが多かった。先生は、子どもが信心に反対の人には、「本当に真剣に、子どもをかわいがっておあげなさい」と教えておられた。
 「親が子どもを献身的にかわいがって、それで、その親に、はむかうはずがありません。親の慈悲には勝てません。子どもを愛する情熱にとぼしいから、家庭にそういう争議が起こってくるのです。子どもが悪いのではない。親が悪いのです。それを御本尊が悪いように、なんくせをつけると、災難は大きいのです」と。
 また妻が信心に反対する人にも、「主人としての務めをきちんとしなさい。かせぎが足りないのです。女房をかわいがってやり、たまには、着物の一枚でも買ってやれない主人では困ります」と。
 「まずあなたから解決しなさい。問題は女房にあるのではない。あなたにあるのです。まず自分自身が変わることです。立派になることです。あなたは反対されることで、女房の家来になっているのです。自由奔放になりなさい。それぐらいの境地を開きなさい」
 「女房に文句を言ううちは、まだまだ信心ができていません。女房を仏さまみたいに、ありがたいと、このようになると、女房が文句言うわけがありません」
 「大体、女房に不足を言う理由がないのです。みんな、女房に月給なんか払ったことないでしょう(笑い)。
 着物なども買ってやったことないではないですか。だから、あんまり、ぐずぐず言わず、女房を大事にしなさい。それが信心の始まりです。自分がろくなこともやらないで、女房が信仰しないとか、女房を責めてばかりいるのは、私はきらいです」。大体、こんなふうに、指導しておられた。
 遠藤 明快ですね。
 須田 創価学会の指導の在り方は、一貫していますね。
 斉藤 「妙荘厳王品」を勉強する前に、結論が出てしまったみたいですが(笑い)。
 池田 いやいや、きちんと裏づけをもっていることが大事です。
 本当に立派な「一家和楽の信心」ができるためにも、しっかり学んでおこう。また、この品には、さまざまに大切なことが、ちりばめられている。
 遠藤 「妙荘厳王本事品」。本事とは由来のことですから、妙荘厳王という王様がどういう人であったか、どんな物語、体験があったか、それを説いています。
 池田 内容は有名だね。
 須田 はい。王様だけが「未入信家族」で、夫人と二人の子どもは仏法を信仰していました。三人が、どうやって王を入信させたか──その物語です。
3  旧い「しきたり」と「進歩」の相克
 遠藤 はるか昔、妙荘厳王という王がいました。后の名前は浄徳夫人。二人の王子は浄蔵と浄眼。三人とも「浄」の字がついています。
 三人は、雲雷音宿王華智如来という仏が説いた正法を信仰しました。しかし、家族のなかで、父の王だけが、バラモンの教えに執着する「邪見の人」でした。
 斉藤 バラモン教というのは、その当時、すでに社会の体制となっていた「古い教え」と考えられます。
 これに対し、仏法は、仏が出現して説いたばかりの「新しい教え」です。
 池田 父親というものは、保守的なものです(笑い)。
 青年には進取の息吹がある。「正しいものは正しい」と、素直に真理を求めていく。しかし、おやじのほうは、「正しかろうが間違っていようが、これが昔からのしきたりだ!」となりやすい(笑い)。新旧の世代の問題でもある。
 須田 「子どもや女房の言うことなんか、聞いてたまるか」と。″沽券にかかわる″と、意地を張ってしまう。
 遠藤 案外、気がちっちゃいものです。自分も男だから、よくわかります(笑い)。
 池田 学会でも、ほとんどが、まず「母と子」が信心して、父は一番後から(笑い)──法華経と同じだ。不思議です。
 斉藤 仏教が広まったころのインド社会では、基本はバラモン教的な「家父長制」でした。父親が家族全員に対して支配権をもっていたわけです。そういうなかで、新しい仏法の教えに、青年や婦人が、どんどん引きつけられていった。
 多くの家庭で″家庭争議″がもち上がったものと思われます。実際、それをうかがわせる仏典も残っています。
 この妙荘厳王品にも、そういう背景があったのではないでしょうか。
 池田 新旧の思想の衝突だね。家庭で波が起きるからこそ、その思想は本物だとも言える。青年の頭のなかだけの観念的なものであったり、気休めや、一時の流行であったりしたら、生活の場である家庭には「新旧の対立」は、あまり起こらない。
 遠藤 たしかに、「お地蔵さんを拝みに行きます」と言って、大問題になることはありません(笑い)。
 須田 むしろ「信心深い、珍しい青年だ」と、ほめられるかもしれません(笑い)。
 斉藤 しかし、現実を根底から変えゆく、生きた、革命的な宗教は、どうしても旧いものから反対されてしまいます。本物である証拠です。
 池田 もちろん非常識で、反社会的な運動に反対するのは当然です。そうではなく、一家の幸福のため、社会の幸福のために、道理をもって行動しても、何らかの波乱が起きる。これが「新時代を創る波」の宿命です。そして、一つ一つの家庭において、この対立の小さな波を乗り越えて、「一家和楽」を確立しきっていってこそ、社会の変革も磐石なものになる。
 広宣流布という「社会革命」は、一つ一つの「家庭革命」という巌の上に、盤石に建設されていく。
 斉藤 妙荘厳王品は「息子が父を教化する」というストーリーです。これは当時の人々にとっては、画期的なものだったと思います。
 中村元博士は、「従来のバラモン教の家父長制的な『家父長に対する一方的な絶対服従』の観念が、仏典では排除されている」と指摘しています。(『原始仏教の生活倫理』、『中村元選集[決定版]』17、春秋社)
 池田 仏法では、家族のだれであれ、「すべて個人として平等に尊厳」と見る。非常に進歩的です。だからこそ、「先祖の宗教に従え」といった「家」中心の思想とは相いれない面がある。
 須田 仏法の考え方は、近代の人権思想と共通しています。人権思想の結晶である日本国憲法でも、個人の「信教の自由」を完璧に保障しています。
 池田 その意味では、「先祖の宗教」等と「仏法」がぶつかっているのではなく、「(個人の人権を認めない)旧いしきたり」と「人権」とがぶつかっている──それが実相かもしれない。ちょっとむずかしい表現になるが。
 遠藤 自分の信仰を貫いていくのは「人権闘争」なんですね。

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