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日蓮大聖人・池田大作

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観世音菩薩普門品(第二十五章) 指導者…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  「世音を観ずる」慈愛と智慧を
 池田 人の心を一番深くとらえるものは何だろうか、さまざまに言えるだろうが、やはり「慈愛」であり「優しさ」ではないだろうか。
 「あの人は、自分のことを、本気になって心配してくれた」
 「わがことのように祈ってくれた!」「大事にしてくれた!」「目に涙して叱ってくれた」「優しかった」
 その思い出は、生命に刻みつけられて離れない。指導者の根本条件も「慈愛」です。これしかない。大事に大事に、皆を守っていくことだ。
 私は観音品(観世音菩薩普門品)というと、この「慈愛の指導者」を思い浮かべる。
 斉藤 はい。観音の姿も、慈母のような優しさに、あふれています。
2  一生を支えた母の一言
 遠藤 「悲母観音」というのもありますね。
 池田 お母さんは、だれにだって懐かしい。
 昔、ある壮年からこんな話を聞いた。
 小さい時、父は毎日、酒ばかり飲んでいた。「兄弟は多いし、貧乏も貧乏。乞食のような暮らしでした」と。
 お母さんが細々と働いて、父の酒代まで工面していた。父は、母や子どもをよく殴った。酒を買いにやらされるのは、いつも男の子。ある寒い日の夕方、一升ビンに酒を入れてもらって、七、八歳の少年は日の暮れた道を一人たどっていた。
 父親のことは大きらいだったが、「母ちゃんの苦労が、しみこんだ酒だ」と思って、大事に抱えて歩いた。しかし、ビンは重いし、だんだん手がかじかんできた。もう少しで家に着く。明かりが見えた。ほっとしたのでしよう。しびれた手から、するっと、酒ビンが落ちてしまった。
 ガチャン! ビンは割れて、酒はみるみる流れていく。「しまった! どうしよう」。
 少年は泣きながら、玄関まで着いたが、家に入れない。中では父親が「酒はまだか!」と、どなっている。その時、少年の声を聞きつけたのか、お母さんが血相を変えて、表に出てきた。
 少年は「怒られる!」と思って、びくっと一歩下がった。
 ところが、お母さんは、少年を見るなり、抱きしめて、「足に当たらんかったか。けがはなかったか。お前に、けががなかったんなら、なんも泣かんでええんよ」と、背中をさすってくれたのです。その温かい一言が、その後も苦しいことがあるたびに自分の一生を支えてくれたと振り返っておられた。
 「あのとき、叱られていたら、心がねじけてしまっていたかもしれません」と。
 自分のことを無条件に愛し、大事にしてくれた人がいる──その自覚が人間に「生きる力」を与えてくれるのではないだろうか。
 遠藤 そう思います。観音菩薩が、どうしてこんなに人気があるのか。その秘密も、母のような慈愛にあると思います。
 須田 創価学会も、ある意味で、親もおよばないほどの優しさで、一人一人を大切にしてきました。どんな悩みにも寄りそって、親身に、一緒になって励ましてきました。
 遠藤 その実例は、文字通り「無数」にあります。
 斉藤 だから強いんですね。
 池田 組織の機構上のつながりではないから強い。人間と人間の心のつながりだから強い。観音──観世音菩薩。観世音とは「世音を観ずる」という意味です。
 世の中の、ありとあらゆる音声を、悩みの声を、大きな慈愛で受けとめ、抱きとって、その声に応えてあげる。一人一人の切実な思いを「聞いてあげる」「わかってあげる」「駆けつけてあげる」。その「限りない優しさ」が、観音菩薩ではないだろうか。そこに慕われる秘密もある。
 斉藤 たしかに、法華経を知らなくても、観音菩薩を知らない人はいない──それくらい有名です。
 須田 インドで、中国で、朝鮮半島で、日本で、アジア全域で、観音菩薩くらい人気のある存在もありません。祀られている数も圧倒的に多いのではないでしょうか。人々はつねに、思い思いの自分の願いを観音菩薩に訴えてきました。
 遠藤 「いつでも、どこでも、あらゆる危難から救ってくれる」とされていますから。
 須田 ″観音さま″は、いわば仏教界の″スーパースター″ですね(笑い)。
 斉藤 いや、中国では道教の神さまとして信仰されているくらいです。宗教の枠さえ超えて、人々を引きつける「魅力」が、観音菩薩にはあるようです。
3  優しさが胸に明かりを灯す
 遠藤 魅力は、やはり「優しさ」でしょうか。
 須田 顔も実に優しいですね。
 池田 優しさほど、強い力はない。優しさほど、人の心を征服するものはない。優しさほど、強く、明るく、永遠性の光はない。人の胸に明かりを灯す光明です。希望の光を与える。
 真の「ソフト・パワー」です。
 須田 たしかに、そうです。(ハード・パワーのように)力ずくで人を引き寄せるのではありません。
 池田 「ソフト」は慈愛、「パワー」は力。慈愛の力です。文化も平和も教育も、その根底は慈愛です。人間への厳しさです。
 「ソフト」は「限りない優しさ」であり、それが「限りない強さ」のパワーを生むのです。
 また「優しさ」の真には「強さ」がある。強くなければ、人に優しくなんかできない。
 観音菩薩の優美の裏には、妙法を求めに求め、不惜身命で弘めていく「勇猛心」がある。
 斉藤 大聖人は「観音法華・眼目異名」という天台宗言葉をあげておられます。
 観音と法華は名前は違っているが、その眼目は同じであり、妙法そのものであるということです。
 池田 じつは、観音菩薩とは、寿量品で示された久遠の本仏の生命の一分です。宇宙と一体の本仏の「限りない慈愛」を象徴的に表したのが観音です。だから久遠の本仏を離れては、観音菩薩の生命はない。魂のない抜けがらのようなものです。
 遠藤 妙法を信受しないで、観音を拝んでも本末転倒であるということですね。
 池田 久遠の本仏の生命──御本尊のなかに、観音菩薩も含まれている。
 御本尊の──妙法の功力の、ごく一分が観音菩薩の働きなのです。
 古来、観音品ほど多く論じられてきた品もない。「観音経」として独立して信仰されてきた歴史もある。今なお、各地で「観音菩薩像」が次々に、建立されている。また日本ではとくに人気のある「般若心経」も、観音が説法する経典てす。しかし、その割には、「観音」の力の源を多くの人が誤解している。その「力の源」とは「妙法」です。妙法を釈尊滅後に弘めていきなさいというのが法華経の「流通分」であり、観音品もその一つです。
 観音品は、あらゆる仏典の中で、観音菩薩が登場した一番古い経典です。ここで、ちゃんと位置づけられている。観音菩薩も妙法──寿量文底の南無妙法蓮華経──によって、人を救う「力」を得ているのです。
 遠藤 根源の「妙法」を離れて、「観音」を拝んでも、意味がない。かえって観音の願いに背いてしまうということですね。

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