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日蓮大聖人・池田大作

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薬王菩薩本事品(第二十三章) 命を燃や…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  真の「健康」とは、「戦う菩薩」の生命
 池田 信仰の目的は何か。境涯を変えることです。
 花を見る。ぱっと詩ができる人もいる。「山路来て何やらゆかしすみれ草」。芭蕉なら、そう詠める。詩を詠まないまでも、心を花で埋めて楽しめる境涯の人がいる。
 一輪の花──寂しそうだ。だれかを思い出す。そうだ、あの人はどうしているか。元気だろうか。連絡してみよう。そういう菩薩の境涯の人もいる。花を見ても、月を見ても、何にも感じない人もいる。心が石みたいになっている(笑い)。
 ベートーヴェンが交響曲「田園」をつくった。もう、かなり耳は聴こえなくなっている。しかし心の中には「田園」の鳥の声がさえずっている。小川のせせらぎが聴こえて田舎の人々の楽しい集いの声が聴こえている。激しい嵐の音も、嵐のあとの、さわやかな自然のたたずまいも、全部、ベート−ヴェンの「己心の中」にある。己心中の大自然を、彼は人類に伝えたのです。
 耳が聴こえなくても、仏法を知らなくても、それだけの境涯があった。いわんや、妙法を行じる人が、己心の宇宙を大きく広げられないわけがない。「妙」には「開く」という意義がある。広々とした己心の宝の世界を開くための信心です。何があっても楽しんでいける境涯をつくるのです。
 釈尊の言葉に、こうあった。「悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波書店)
 ″悩み無く″というのは、煩悩をも即、菩提に、すなわち楽しみに変えていこう、充実に変えていこう、「悩みを乗り越える幸福感」に変えていこうということでしょう。
 「むさぼっている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、貪らないで暮そう」(同前)
 貪るから、苦しみが生まれる。「心の財」を楽しんで積んでいこうということです。
 また「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴアーナは最上の楽しみである」とある。
 遠藤 「ニルヴァーナ」は「涅槃」ですね。
 池田 生死即涅槃の捏槃です。「不死の境地」と釈尊が常に言っているのが、これです。「仏界」ということです。
 斉藤 たしかに釈尊が悟りを開いた後、梵天の要請に応えて、初めて発した言葉は「不死の門は開かれた!」(「仏伝に関する章句」中村元訳、『仏典』1〈『世界古典文学全集』6所収〉筑摩書房)であったとされています。
 須田 釈尊が初めて人に対して法を説いた時も、五人の修行者に対して、「耳を傾けよ、不死は得られた!」と呼びかけたと伝えられています。
 池田 「死苦」を乗り越える「法」を得たのです。それが妙法です。日蓮大聖人は「妙とは不死の薬なり」と仰せだ。
 斉藤 今回の薬王品(薬王菩薩本事品、法華経第二十三章)には、有名な言葉があります。
 「此の経は則ちれ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」(法華経六〇二ページ)
 法華経の功徳を「不老不死」と説いています。
 遠藤 釈尊が悟った「不死の境地」が、法華経で明かされているということですね。
 池田 法華経が釈尊の本懐である、すなわち生涯の教えの最終結論であるということが、ここにも表れている。
 須田 不老不死というと、何か荒唐無稽な印象もありますが……。
 池田 もちろん、「老いない」「死なない」ということではない。そんなことになったら、ただでさえ人口問題が深刻なのに、大変なことになってしまう(笑い)。
 「老苦」「死苦」がないということです。苦しまない。「大いに楽しく生きよう」と釈尊の言葉にあったように、悩みを乗り越えながら、生きる喜びを毎日、刻々と味わって生きる境涯です。それが本当の「健康」です。
 須田 「健康は最高の利得」とありました。
 遠藤 「満足は最上の宝」ともありましたね。
 池田 色心ともの「健康」です。色心ともに、はつらつとして、「今世の使命」のために、全魂をこめて生き抜いていくのです。
 いな、たとえ病に伏すことがあろうとも、生あるかぎり、妙法を唱え、妙法を語っていく。生死を超えて、使命に生ききっていく。その「信心」こそが「不老不死」の境地なのです。それを「薬王品」は教えている。薬王菩薩が身をもつて、教えているのです。概要を見てみよう。
2  「本化」と「迹化」
 須田 はい。前の章の「嘱累品」(第二十二章)までで、法華経の「付嘱」は終わっています。ですから、ある意味で、ここで法華経は終わってよいはずです。
 しかし、「薬王品」に続いて「妙音菩薩品(第二十四章)」「観世音菩薩普門品(第二十五章)」「陀羅尼品(第二十六章)」「妙荘厳王本事品(第二十七章)」「普賢菩薩勧発品(第二十八章)」と、六品が加わっています。これは、なぜなのか。大聖人は「捃拾遺嘱くんじゅういぞく」と言われています。(御書二五二ページ)
 遠藤 捃拾くんじゅうは「落穂を拾う」ことです。本来の刈り入れ、収穫が終わった後、残った落穂を拾い集めることです。
 地涌の菩薩への「別付嘱(神力品〈第二十一章〉)」、すべての菩薩への「総付嘱(嘱累品)」によって、釈尊滅後の人類をどう救っていくかという「バトンタッチ」の儀式は終わりました。そのうえに、なお重ねて、迹化、他方の菩薩に念を押して、法華経の弘通を託した。いわば″ダメ押し″のための六品だと思います。
 池田 「一人も残さず、救いきるのだ」「どんなことがあっても、妙法を広宣流布するのだ」という気迫が、この六品には込められている。形のうえでは「付録」のようであり、事実、法華経の成立史研究では、後から加えられた部分とする説が強い。
 斉藤 たしかに、それぞれが独立した一経のように整えられていますし、相互の関連も薄い。実際、「観音品」は「観音経」とも呼ばれ、独立した一経として信仰されてきた歴史があります。
 池田 とはいえ、これら六品は単なる「付録」ではない。二処三会でいえば、六品は(「前半の霊鷲山会」「虚空会」につづく)「後霊鷲山会」であり、虚空会で明かされた「永遠の妙法」を胸に、現実社会へ打って出るという重要な意義をもっている。
 須田 従果向因(仏界から九界へ向かう)ですね。
 池田 寿量品の文底の南無妙法蓮華経を信受したうえで、それぞれの舞台で妙法を「実証」する。「実験証明」して「流通」していく。だから、この六品に登場する菩薩は、非常に多彩な姿になっているでしょう。
 遠藤 薬王、妙音、観音、(陀羅尼品に出る)勇施、(妙荘厳王品に出る)薬上、普賢など、多彩な顔ぶれです。
 斉藤 個性豊かな感じですね。
 池田 あくまで譬えであるが、光がプリズムを通ると七色に分散する。「光」は全体、「七色」は光が割れてできた部分、部分です。そのように後霊鷲山会での迹化の菩薩は、仏界という光を胸中に灯しながら、それぞれの使命の姿を彩り豊に現わしているのではないだろうか。
 斉藤 たしかに「迹」には「影」の意味があります。天台大師は「本」を天の月(本体の月)に、「迹」を池月(池に映った月)に譬えています。
 遠藤 天月は一つでも、池月は無数にあるわけです。池はいくらでもありますから。
 須田 そうしますと、本化の菩薩(地涌の菩薩)が対照的に地味というか、生一本というか、飾り気のない印象なのも、うなずけますね。リーダーとして挙げられているのは上行、無辺行、浄行、安立行菩薩ですが、名前のつけ方からして、迹化の菩薩とは全然違います。
 池田 そう、次元が違う。四菩薩の名前は、「本体」「天月」としての「妙法」そのものの働きを代表している。その使命も「妙法の流布」そのものなのです。
 「本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり」と仰せの通りです。
 遠藤 整理しますと「迹化の菩薩」とは第一に「迹仏(久遠の本地を開顕していない仏)に化導された菩薩」のことです。
 これに対し、本仏と一体不二の直弟子が「本化の菩薩」です。
 池田 そう。その位は、天地雲泥です。
 遠藤 釈尊滅後の広宣流布の「主役」も、あくまで本化地涌の菩薩なのです。迹化の菩薩は「脇役」というか、主役を「助ける」立場です。この「地涌の使命を助ける」働きを明かしたのが、後霊鷲山会の六品と考えられます。これが一往の義です。
 須田 今も、信心はしないが、広宣流布に賛同し、応援し、顕彰してくださっている人々が全世界にいます。こういう働きも、「迹化の菩薩」の一分と考えてよいでしょうか。
 池田 そう言って、よいでしょう。もちろん、あくまで広布を支える「働き」のことであり、実体的なものではない。
3  妙法証明へ多彩な行動
 遠藤 迹化の意義を、再往、もう一重、深く考えますと、先ほど言われた「七色の色彩」のように、仏界を根本とした多彩な舞台での活躍と考えられます。
 斉藤 より「生活」「人生」に引きつけた、とらえ方ですね。
 遠藤 たとえば薬王菩薩は「医学」の分野、妙音菩薩は音楽をはじめ「芸術」の分野、普賢菩薩は「学問」の分野──そういうスクリーンに「本化」が影を映した姿と言えます。いわば、私たち本化の菩薩の「社会面」の姿とも言えるのではないでしょうか。
 池田 そうなるでしょう。私どもは学会活動においては、本化の菩薩として妙法の広宣流布を進めている。しかし、それぞれ社会では仕事があり、役割・立場がある。家庭の主婦も、母として妻として、地域社会の一員としての役割がある。信心を根本にして、それぞれの舞台で「見事だ」「さすがだ」という活躍をしていかねばならない。それが「信心」「妙法」を証明することに通じる。
 輝いている学会員の姿を通して、その胸中にある「太陽」を人々は感じていくのです。仕事、生活がいいかげんで、信心だけ立派──そんなことはありえない。インチキです。「法」を下げてしまう。
 「本化」として自行化他に励んで開拓した「仏界」の生命力を、「迹化」としての社会面・生活面で生かしていく。生かし、活躍していこうと努力するなかで、さらに「信心」が深まり「仏界」が固まっていく。この往復作業です。本化→迹化、迹化→本化という、粘り強い往復作業によって、自分の生命を限りなく向上させ、広宣流布を限りなく広げていくのです。これが「後霊鷲山会」の六品の実践的な意義になるのではないだろうか。
 須田 迹化の菩薩というのが、ぐっと身近になりました。これまでは、随分、見下していたというか(笑い)、あまり自分たちとは関係ないと思いがちだったと思います。
 池田 そこで大事なのは「信心」です。社会で活躍すると言っても、「信心」を忘れてしまったら、本化の菩薩でもなければ、迹化の菩薩でもない。
 名聞名利の餓鬼界、畜生界に堕ちていってしまうのが″落ち″でしょう。自分で自分の仏界を覆ってしまうのだから。最後は地獄界に転落してしまう。いな、信心を失えば、因果惧時で、その瞬間に地獄です。
 斉藤 迹化の姿が「多彩」な理由が、よくわかった気がします。妙音菩薩が「三十四身」、観音菩薩が「三十三身」と説かれるのも、ありとあらゆる姿を示して、人々を救い、妙法を証明し、広宣流布を推進していくということですね。
 池田 華麗です。自在です。創価学会の「仏法を基調とした平和・文化・教育の推進」という根本軌道も、この「後霊鷲山会」の原理に淵源をもっている。法華経の軌道通りの前進なのです。

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