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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 「文底」仏法…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  虚飾を捨てよ! 「人格」の光を!!
 遠藤 関西のある婦人部の方の思い出を、うかがいました。昭和三十二年(一九五七年)。池田先生が出席された座談会で、一人の壮年が、うとうとと「居眠り」をしていた。婦人のご主人が、その人を、しきりに起こそう、起こそうとしたそうです。
 須田 周りも、はらはらしたでしようね(笑い)。
 遠藤 でも池田先生は、優しく、こう言われた、と。
 「昼間、一生懸命に働いて、ここに来ているんだから、疲れているんだよ。無理に起こさなくていいんですよ。妙法の話というのは、毛穴からだって入っていくんです」。その一言で、いっペんに和やかな雰囲気に変わってしまった。
 「若いのに、何てよくわかった人だろう。すごい人だ」と婦人は思ったそうです。
 斉藤 本当に大事なことですね。いわんや、会合に遅れて駆けつけた人を叱る権利なんて、だれにもありませんね。忙しいなかを一生懸命、来られたことをたたえるべきです。
 遠藤 また別の拠点で、その婦人が、池田先生に報告をして帰ろうとしたら、先生がわざわざ表まで見送りに出てきてくださった。「本当に、ご苦労さまです。気をつけて帰ってくださいね」と言いながら、深々と頭を下げられた。
 「これが創価学会の本当の幹部なんだな」と感動したそうです。
 池田 そんな昔の話を、よく聞いてきたね(笑い)。
 遠藤 すいません(笑い)。ただ「人間のための宗教」ということを考えていて、結局、「人の振る舞い」がすべてだ、と。それしかない、と。そういう気持ちが、だんだん強くなってきたのです。
 池田 それしかない。私のことはともかく、要するに仏法と言っても、究極は「人格」です。立派な「人格」をつくるための仏法です。
 立派な人格の人は、謙虚です。そして焼きもちを焼かない。自分のことではなくて、皆の幸福を考えている。私どもで言えば、広宣流布のことを考えている。だから「公平」です。だから「慈愛」がある。慈愛があるから「智慧」もわく。
 どこの組織でも、大きくなると官僚化が始まる。創価学会は、永遠に、そうなっではならない。学会は「人間主義の世界」です。
 組織と言っても、幹部で決まる。大きくなればなるほど、幹部は自分を謙虚に磨いていくことです。会員同志を「徹底的に」大切にすることだ。この「徹底的に」を本当にやつたところが伸びる。また、それが自分自身の仏道修行です。それが法華経です。
 遠藤 また昔の話で恐縮なんですが(笑い)、やはり関西で、ある婦人が池田先生に「地区担当員(=現在の地区婦人部長)の任命を受けたんですが、どのように戦ったらいいでしようか」と相談した。昭和三十四年(一九五九年)の夏でした。
 緊張している、その人に、先生は、こう言われたと聞きました。
 「『どのように』という方法はありません。あなたは今まで『短い棒』を振っていたのが、今度、『長い棒』になった。長い棒になったから、どう振り回せばいいか悩んでいるんです。でも、短い棒も、長い棒も原理は同じです。根もとの部分を押さえて動かせば、棒の先は回るんです。扇子の要だって、同じ原理でしょう」と。そして「今までと同じように、真剣にお題目を唱えて、身近な人を大切にすることです。一人の人を大切にすることです。友の幸せを祈り、優しく、丁寧に激励していくことです。その一念が地区の全体に広がっていくんです。『一身一念法界に遍し』です。足元の激励、弘教を忘れて、広宣流布ができると考えていてもだめです」と。
 もやもやしていた不安が、す−っと霧が晴れたようになって、「私にもできるんだ」という勇気がわいたそうです。
 須田 幹部になると、特別なことをしないといけないように思いがちですが、幹部になればなるほど、基本に徹することなんですね。
2  本当の「仏」はどこにいるか
 池田 ともかく「広宣流布に働いている人」を尊敬することです。
 どんな気どった有名人よりも、庶民まる出しで、わき目もふらず、広布に働いている人が尊貴なんです。何千万倍も尊貴です。
 格好ではありません。地位ではない。学歴ではない。
 「不幸な人を幸福にしていこう!」「広宣流布をやっていこう!」
 その「心」の強さが尊いのです。「心」は「心法」であり「法」です。宇宙も「妙法」の当体です。宇宙全体が「妙法」という大生命だ。
 我が「心法」を「妙法広宣流布」に向け、その一点に帰命していくとき、色心ともに妙法と一体の自分になっていくのです。広い意味で、「人法一箇」の軌道に入っていく。
 斉藤 「妙法」の軌道といっても、具体的には「広宣流布」の軌道ということですね。
 池田 もっと具体的に言えば、広宣流布をしているのは創価学会だけなのだから、「学会活動」の軌道ということです。
 広布の組織で、本当に苦労している人が、「人法一箇」の軌道に入っているのです。
 この項の冒頭の話にもあったが、社会で懸命に働いて疲れているのに、法のため、世のため、人のために、我が身に鞭うって行動している。尊いです。「外用」は、それぞれ会社員であるとか、主婦であるとか、いろいろです。しかし、その「内証」の資格は「地涌の菩薩」なのです。地涌の菩薩であるということは、「仏」だということです。
 「仏」と言つても、他には絶対にないのです。この一点が皆、なかなか、わからない。
 斉藤 今、お話ししていただいたなかに、私は法華経の「文底」の仏法のすばらしい特長が示されているような気がするのです。それは、ひとつには「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」(「御義口伝」「神力品八箇の大事」の第一から)と言われる。″一切衆生こそが如来なのだ″という観点です。これは「文上」の寿量品では、はっきりとは示されていません。
 もうひとつは、内なる仏界の生命を原点として、九界の現実の中へ飛びこんでいく──そういう「従果向因(果=仏界より、因=九界へ向かう)」の仏法が可能になったことです。
 須田 それまでの仏教は、ひたすら成仏を目指して進む「従因至果(因=九界より、果=仏界へ向かう)」の仏法でした。これでは、どうしても「まず自分が仏になることが先決」ということで、社会の変革に″打って出る″という勢いは、なかなか出てきません。
 遠藤 実際の歴史のうえでも、仏教は「静的」で「消極的」な傾向をぬぐえなかったと思います。
 池田 「従因至果の仏法」というのは、わかりやすく譬えれば、「自分が大金持ちになったら、皆を助けてあげましよう」「自分が博士になったら、皆に教えてあげましよう」という仏法です。しかし、いつになったら、その日が来るのかわからない。本当に来るのかどうかもわからない(笑い)。これに対し、「従果向因の仏法」というのは、「最高の福徳」と「最高の智慧」を、ただちに相手に与えるのです。
 遠藤 南無妙法蓮華経に全部、含まれている──ということですね。
 池田 含まれている。″種子″だから。大聖人は「福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」と仰せです。
 須田 「文底」の仏法は、それまでと全然、違いますね。
 池田 全然、違う。その違いは、ほかにも、さまざまな観点から言えるが、今、教学部長が挙げた二点は大切です。もちろん、この二つは裏表の関係にあるわけだが。
3  「事顕本」と「理顕本」
 斉藤 はい。「一切衆生が如来である」という点についてですが、まず寿量品の「発迹顕本(迹を発いて、本を顕す)」をふり返ってみます。
 釈尊が今世の修行で成仏したという「始成正覚」を否定して、じつは五百塵点劫の昔から娑婆世界で説法し続けてきたと明かします。これを「事顕本」と呼ぶ場合があります。
 池田 「理顕本」に対する言葉だね。御義口伝にある。
 須田 はい。「随喜功徳品(第十八章)」の「随喜」について「随とは事理に随順ずいじゅんするを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百塵点の事顕本に」とあります。
 遠藤 「法師功徳品(第十九章)」の御義口伝にも「寿量品の事理の顕本」と仰せです。
 池田 事理の顕本については古来、天台宗等でも、いろいろな議論があるが、端的に言うと、どうなるだろうか。
 斉藤 はい。一般に、「事」とは現象として現れたものであり、「理」とはその現象の奥にあって目に見えない理法とか理体を指します。
 今の場合、「事顕本」とは、寿量品の説法そのものです。「五百塵点の事顕本」とある通りです。これに対し、「理顕本」とは、文上には、はっきりと説かれていないけれども、「事顕本」が内々に示している「久遠元初の自受用報身如来の顕本」を指すと言ってよいと思います。
 池田 結論的には、そう言えるでしょう。「分別功徳品(第十七章)」の「御義口伝」に、(一念信解の)信解について、こうあった。
 「信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり」云々と。
 理顕本は、はっきり説かれていないから「信ずる」しかない。それは、とりもなおさず事顕本の本義を「解した」ことになるのです。
 須田 寿量品の説法(事顕本)を聞いて、人々は何を悟ったのか。それは「理顕本」だということですね。

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