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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 「凡夫こそ本…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  神力品は「民衆勝利の大行進」の序曲
 斉藤 「民衆勝利の年」(一九九八年)も、凱歌のうちに下半期に入りました。この「民衆勝利」こそ、法華経がうたい上げている讃歌だと思います。
 池田 そうです。そのために法華経は説かれた。
 虐げられ、苦しめられ、ぱかにされてきた民衆を立ち上がらせ、胸を張って、大行進させるための法華経です。「一番苦しんできたあなたが、一番幸福になれる人なんだ」と激励し、大生命力を開かせていくための法華経です。
 「自分なんか、だめな人間なんだ」と卑下している人に、「あなたこそ一番尊い、一番高貴な人なんだ」と目覚めさせ、顔を上げさせるための法華経です。そして皆でスクラムを組んで、「自他ともの幸福」へ、大行進していくのです。
 その「民衆勝利」の大行進のプレリユード(序曲)が、法華経の神力品です。
 今、二十一世紀に向かって、私たちがその「民衆の勝利」の軌道を作っている。道を作っている。橋を懸けている。苦労は大きいが、その功績は、後になるほど光ってくることを確信してほしいのです。
 遠藤 それこそ「生きた法華経」ですね。
 須田 釈尊から上行菩薩への「結要付嘱」とは、仏法のすべて″如来の生命″を、すべて上行菩薩に渡した儀式でした。これからは──末法は「釈尊の時代」ではなく、「上行菩薩の時代」ですよ、と宣言したわけです。
 遠藤 「上行菩薩の時代」とは、「凡失こそ仏である」と開顕していく時代です。それまでの「(色相荘厳の)仏が上」「凡夫が下」という仏法を、まったく建て直す新時代です。
 斉藤 ありのままの「凡夫」「人間」以外に「仏」はないのだという徹底したヒューマニズムですね。
 池田 ある人が言っていた。
 「本来、患者のために医者がいる。患者に尽くしてこそ医者である。なのに医者は自分のほうが偉いように思って、威張っている。困っている人のために弁護士がいる。なのに弁護士は自分が偉いように思って、威張っている。
 国民のために政治家がいる。公僕(民衆に仕える人)である。なのに政治家は国民を利用し、国民より自分が偉いと思って、威張っている。ジャーナリストは、民衆の人権を守るためにいるはずである。なのに、マスコミが先頭に立って人権侵害をしている。信徒のために聖職者がいる。なのに聖職者は自分のほうが偉いと思って、威張っている」と。
 須田 その通りだと思います。
 遠藤 転倒ですね。
 池田 転倒です。これを、ひっくり返すのが、人間主義の「革命」です。
 斉藤 「革命(リボリユーション)」は、もともと「ひっくり返す」という意味です。
 池田 その一番激しく、一番根本的な「革命家」が日蓮大聖人であり、釈尊と言えるのではないだろうか。
2  釈尊は、それまでの「神々のための人間」を「人間のための神々」に、ひっくり返した。同時に、人々の信仰心を利用して威張っていた「聖職者(バラモン)階級」を否定し、カーストを否定し、「人間はすべて平等」と宣言し、実行した。
 遠藤 考えてみると、保守勢力から迫害されて当然ですね。
 池田 しかし、その仏法も、いつのまにか釈尊の精神を忘れてしまつて、人間主義でなくなっていった。そこへ日蓮大聖人が出現されて、「仏のために人間がいるのではない。人間のために仏がいるのだ」と宣言されたのです。
 斉藤 驚天動地の宣言です。
 須田 「上行菩薩の時代」とは、じつに深い意義があります。
 池田 宗教は社会の根本だから、宗教革命こそ、社会の一切の転倒を正していく「根本の革命」なのです。
 ともあれ、誰にせよ、傲慢になった分だけ、自分が「マイナス人間」になっていることに気がつかなければならない。″自分は皆より偉いんだ″と思っている分だけ、人間としではマイナスであり、低いところに堕ちているのです。
 遠藤 ″我、高し″と思っている分だけ、じつは低いところに堕落しているんですね。
 斉藤 エリート意識なんかも、そうです。
 先ほど挙げられた弁護士とか政治家、医師、僧侶。また有名大学を出たとか、金もちだとか、一流の会社にいるとか、自分は幹部だとか、何らかのエリート意識。これらは、「裸の人間性」以外の何かで、自分を「飾り立てている」わけです。
 そうではなく、「人間」そのもので勝負せよというのが、法華経だと思います。
 須田 仏の「色相荘厳」さえ否定してしまうのですから、そのほかの「飾り立て」なんか″問題外″ですね。
 池田 エリート意識をもっている人間は、捨て身で戦わない。
 自分は傷つかないようにして、要領よく、人にやらせて、甘い汁だけ自分が吸おうとする。臆病であり、最低です。
 法華経は、日蓮大聖人の仏法は、裸一貫の凡失が「人間」として生き、「人間」として叫び、「人間」として「人間」の幸福のために戦い抜いていくところに本義がある。満身創痍です。難との戦いです。不惜身命です。それ以外に「生きた法華経」はない。
 創価学会による広宣流布だって、社会的なエリートがやったのではない。名もなき民衆の肉弾戦で切り開いたのです。
 ここにこそ、「神力品」の本当の実践がある
3  名もなき庶民の「人権闘争」
 遠藤 夕張炭労問題(昭和三十二年〈一九五七年〉)の時、池田先生、戸田先生のもとで戦つた北海道のあるご夫妻の体験をうかがいました。
 奥さんは、現在、苫小牧にお住まいで、この秋(九八年)、七十歳になられます。ご主人は、三年前に亡くなられました。
 池田 存じ上げています。先日も「聖教新聞」で紹介されていたね(九八年=平成十年六月三日付)。「炭労問題の四十周年(平成九年〈九七年〉)」を記念して、札幌の通信員の方々が当時の貴重な記録や証言を、まとめて届けてくださつた。一緒に戦った夕張の同志のことは、永久に忘れることはできません。
 遠藤 当時の様子は、先生が小説『人間革命』(第十一巻)にくわしく書いてくださっています。「権力の魔性」に対する、名もなき庶民の「人権闘争」に感動します。
 そのご夫妻が入会したのは、ご主人の道楽ぶりに悩んだ奥さんの両親の勧めでした。しかし、入会したものの、形だけで、何もしませんでした。夫の飲み代や借金のかたにとられ、家を二回も失っています。
 須田 並の道楽ぶりじゃないですね!
 遠藤 東京から大阪へ行ったものの、事業に失敗。ご主人は故郷の夕張に一人、帰ってしまった。奥さんは、よっぽど別れようかと思いましたが、母親が「子どものために、もう一度やり直してみなさい」と言ったので、ご主人の後を追って夕張へ。ところが、その直後、頼りにしていたお母さんが亡くなってしまったのです。
 斉藤 それは、心細かったでしようね。
 遠藤 途方に暮れ、夕張の橋の前で呆然としていました。
 すると、見知らぬ女性が声をかけてきた。「あなたを見かけた方が、心配していますので」。誘われて行くと、そこに待っていたのは、戸田先生でした。
 地方指導のため夕張を訪れた戸田先生が、旅館の窓から外を見ていると、身投げでもしそうな意気消沈した彼女を見つけたのです。「橋のところに変な人がいるから呼んできなさい」。そう言って、使いの人を行かせたのでした。
 池田 鋭いね、戸田先生は。

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