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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 上行菩薩への…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  「日蓮と同意」で広宣流布へ立て!!
 池田 このあいだ、大変にすばらしい詩を聞いた。
 「『ユートピア(理想郷)は、地平にある』。フェルナンド・ビリ曰く、
 『私が二歩、近づけば、それは二歩、遠ざかる。
 私が二歩、前へ歩めば、地平は二歩、足早に進む。
 どんなに私が前に進んでも、決して到達することはない。
 それならば、ユートピアは何のためにあるのか?
 それは、私たちを前進させるためである』」
 ウルグアイの詩人(エドアルド・ガレアーノ)の詩です。
 ブラジルカンピーナス市のホッシーニ議員が、挨拶のなかで引かれていた。
 遠藤 池田先生へ「名誉市民」称号を贈りに来日された時ですね。
 ちょうどその日(一九九八年)は六月六日、牧口先生(初代会長)の生誕記念日でした。
 須田 名誉市民証だけでなく、牧口先生への特別顕彰、池田先生への「カルロス・ゴメス」文化功労メダル、市議会の功労者メダル、池田先生の奥様への顕彰など、盛りだくさんに持参してこられて、「まるで、サンタクロースみたい」(笑い)と言っていた人もいました。
 斉藤 偉大な業績に対しでは、人間として「顕彰する責務がある」──こういう信念なんですね。
 遠藤 嫉妬の日本とは、正反対です。
 斉藤 この詩は、私も感動しました。「ユートピア」というのは、私たちにとって「広宣流布」と言ってよいかもしれません。
 もちろん「ユートピア」には「非現実的な夢想」といった語感もありますが、「広宣流布」はそうではありません。ただ、永遠にその理想を目指して「前へ前へ」と挑戦していく。そのために、皆を引っ張って前進させていく力が、「広宣流布」にはあります。
 須田 「広宣流布」という理想がなかったら、不惜身命の修行もないし、一生成仏もありません。
 池田 「広宣流布」と「一生成仏」は、地球で言えば「公転」と「自転」です。一体不二の関係です。私が、この詩をすばらしいと思うのは、ここに「本因妙の仏法」の精神が、わかりやすく示されているからです。
 はるかなる「本果」を目指して、つねに前進する。つねに出発である。つねに希望に燃えている。つねに未来を目指し、つねに久遠元初から出発していく。いな、毎日が、一瞬一瞬が、久遠元初である。
 「本果」とは、「広宣流布」であり「成仏」でしょう。「もう、これでいい」という″終着点″は、観念として描くことはできるが、現実にはありえないと言ってよい。
 斉藤 そう思います。「成仏」した「仏」ならば、「もう、これでいい」と安住することなく、最後まで前へ前へ進むはずです。
 池田 もちろん、今世の便命を果たしきった人の胸中には「これでよし!」という大満足感が広がっていることも事実です。そのうえで、なおも人々のために、行動し続けるのが「仏」です。「本果」は理想であって、「本因」こそが現実です。
 さあ、そこで、神力品です。神力品の「付嘱」の儀式は、端的に言うならば、「本果妙の教主」から「本因妙の教主」へのバトンタッチです。それは、燦然たる三十二相の「仏果」という理想像を中心とした仏法から、凡夫の「仏因」を中心とした仏法への大転換を意味する。凡夫の素朴な現実から離れない仏法への転換です。
 斉藤 「本果妙の教主」というのは、五百塵点劫という太古に成仏した「久遠実成の釈尊」ですね。
 遠藤 「本因妙の教主」とは、地涌の菩薩のリーダーである「上行菩薩」です。
 須田 「久遠寿成の釈尊」は「仏界」を表し、上行菩薩は「九界」の代表と言ってよいと思います。「仏界」の代表から「九界」の代表への付嘱とは、一体、何を意味するのか……。
 古来、法華経の一番の難所です。
2  諸仏を生んだ「根源の師」
 池田 前回、神力品の「十大神力」を学んだが、その続きを見てみよう。
 遠藤 はい。十神力とは、(1)仏が舌を天まで伸ばし、(2)体から無数の光を放ち、(3)諸仏が一斉に咳払いし、(4)一斉に指を弾いて鳴らし、(5)その咳払いと指の音で、十方の諸仏の世界の大地が震動し、(6)十方の世界の衆生が裟婆世界の仏の姿を見て歓喜し、(7)空中から大きな声がして「釈迦仏を礼拝せよ」と呼びかけ、(8)その呼びかけに応じて、もろもろの衆生が合掌して、釈迦仏に帰命し、(9)十方世界から、種々の華や香、あらゆる宝物が娑婆世界に届けられ、それらが集まって宝の帳となって十方の諸仏を覆い、(10)十方の世界の隔てがなくなって、一つの仏土になつた。
 要するに″娑婆即寂光″の姿であり、広宣流布の姿です。
 今回は、その続きですが、釈尊はここで驚くべきことを言います。
 「諸仏の神力は、このように無量無辺であり、不可思議である。しかし、付嘱のために、この神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祗劫の間、この経の功徳を説いても、説き尽くせないのだ」(法華経五七一ページ、通解)と。
 斉藤 ある意味で、十神力は、このことを言わんがために説いた面があると思います。
 池田 これは単に、法華経の功徳を賛嘆しているのではない。
 じつは、仏の滅後に、この経を持つ人、すなわち上行菩薩の功徳を賛嘆しているのです。それがポイントです。
3  須田 そのことは、神力品の「偈(詩)」の部分に示されています。
 「是の経を嘱累せんが故に
 受持の者を讃美すること
 無量劫の中に於いてすとも
 猶故尽くすこと能わじ
 是の人の功徳は
 無辺にして窮りあること無けん
 十方の虚空の
 辺際を得べからざるが如し」(法華経五七四ページ)
 遠藤 この直前に「仏の滅度の後に能く是の経を持たんを以っての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現じたもう」(同ページ)とあります。ですから、仏の滅後の「受持の者」すなわち地涌の菩薩なかんずく上行菩薩のことを賛嘆しているわけです。
 須田 その功徳は「無辺」にして、限りがない。宇宙に限りがないのと同じである──と。
 池田 全宇宙を揺るがす仏の大神力をもってしても、上行菩薩の功徳を驚嘆しきれない──という。これは、ただごとではありません。
 しかも、諸仏が「無量の神力」を現じたのも、将来、仏の滅後に、上行菩薩がこの経を持っていくことに対して、歓喜したからだという。いわば、上行菩薩の未来での活躍を祝福しての十大神力です。
 斉藤 これだけを見ても、上行菩薩が、仏法上、特別な、なみなみならぬ存在であることがわかります。しかも、宝塔品で、多宝の塔が出現して以来、すべての説法が、この「上行菩薩への法の付嘱」という一点を目指して進んでいるわけです。
 「法華経とは何か」を解く「鍵」は、この上行菩薩にあると考えられます。
 遠藤 釈尊が「仏の神力でも賛嘆し尽くせない」と言ったのは、長行では「此の経の功徳」であり、偈文では「受持の者(上行菩薩)」です。
 一方では「法」であり、他方では「人」ですが……。

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