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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 地涌の菩薩へ…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  全民衆よ! 汝自身の尊貴さに目覚めよ!
 斉藤 これから、いよいよ「如来神力品(第二十一章)」です。法華経の″山場″です。よろしくお願いします。
 池田 日蓮大聖人が涌出品(第十五章)・寿量品(第十六章)とともに、最も重要視されたのが、この「神力品」です。それは、ここに末法万年の「広宣流布」を託す儀式が説かれているからです。
 斉藤 広宣流布──これ以上、大切なものはありません。
 池田 そもそも法華経とは何だろうか。
 それは「釈尊の遺言」です。釈尊がいちばん言い遺しておきたかったことです。それでは、釈尊のいちばんの「悲願」は何だったのだろうか
 それは「生きとし生けるものよ、幸福になれ!」という願いです。釈尊は言っている。
 「母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」(『ブッダのことば──スッタ二バータ』中村元訳、岩波文庫)
 母が一人っ子を、命がけで守るように、あらゆる人を、あらゆる生命を幸福にしようと、命をかけて立ち上がれ! 要するに、広宣流布に立ち上がることです。
 「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」
 「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」
 私どもは、朝夕の勤行で、いつも「一切衆生の幸福」を祈つている。一切衆生とは、生きとし生けるものです。その幸福を祈っている。「崇高な境地」です。
 祈るだけではない。行動している。その祈りを現実にするために「広宣流布」に動いている。「崇高な境地」です。
 遠藤 御本尊と創価学会のおかげで、いつのまにか、少しなりとも、そういう境地に近づくことができました。しかも、幾百万という人たちが──。不思議だし、すごいことだと思います。
 須田 これ自体、広宣流布の偉大な実相ですね。
2  池田 地涌の菩薩でなければ、できないことです。その地涌の菩薩に、末法の広宣流布は頼むよ、と託したのが神力品です。
 斉藤 「付嘱」の儀式ですね。
 須田 付嘱とは、仏が教えを弟子に託し、この法を弘めていけ、と使命を与えることです。
 池田 「付嘱」がなければ、仏法は師匠の一代限りで終わってしまう。それでは、どんなに偉大な「法」があっても、何にもならない。人を救うことはできない。
 生きとし生けるものを慈しめ、と言っても、苦しみを救えないのでは観念論です。「法」を教えて、「人」を救うのが仏法です。
 戸田先生は、牢獄から出られて、恩師を偲びつつ、一人、星空を仰ぎ、歌われた。
  如意の宝珠を我もてり
  これでみんなを救おうと
  俺の心が叫んだら
  恩師はニッコと微笑ほほえんだ。
 獄死した師匠・牧口先生の「心」を受け継いで、一人、「広宣流布」に立ち上がったのです。しかも、牧口先生から戸田先生へのバトンタッチは、獄中であった。
 昭和十八年(一九四三年)九月、牧口先生が警視庁から巣鴨の東京拘置所へ行かれるときが、最後のお別れとなった。
 お二人とも囚われの身です。自由に、口をきくこともできなかつたでしょう。
 戸田先生は「『先生、お丈夫で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでごぎいました。あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました」(『戸田城聖全集』3)と述懐されている。
 斉藤 獄中のバトンタッチ──あまりにも崇高であり、厳粛です。
 戸田先生から池田先生へのバトンタッチとなった「3・16」(昭和三十三年〈一九五八年〉三月十六日)の儀式も、炭労事件、大阪事件とその後の裁判という「権力の魔性」との壮絶な戦いの渦中でした。
 須田 厳粛です。
 池田 もちろん、それは神力品の付嘱の儀式とは次元が違う。ただ、「師弟」がなければ「仏法」はないということは言えるでしよう。
 斉藤 はい。釈尊も、自分は「妙法」を悟った。わが生命の底にある「宇宙大の生命力」を覚知し、「歓喜の中の大歓喜」を味わいました。
 しかし、それを、どう全人類に伝えていくのか。
 自分はいい。自分が生きている間も、まだいい。しかし、自分なき後はどうするのか。ここに仏教そのものの重大テーマがあったと思います。
 仏教は徹頭徹尾、「人間の宗教」です。人間を離れた超越神とか、宇宙を一人で創造した創造神とかを説きません。どこまでも「人間」から離れず、人間に「汝自身に目覚めよ!」と、訴え続けるのが仏教です。
 だから、神の意志とかは問題にならない。すべて人間自身の意志で決まる。
 ゆえに、人間から人間への「師弟の継承」がなくなれば、仏法は生命を失ってしまいます。「付嘱」が重要なゆえんです。
3  遠藤 師弟がなくなれば「法滅」です。
 池田 そう。「法滅」と言つても、本来、「法」そのものは永遠です。実際には、教法を正しく継承した「人」がいなくなったときが「法滅」なのです。
 斉藤 今の宗門が、まさにそうです。
 須田 師弟がなくなった。ゆえに仏法もなくなってしまいました。正法がなくなったのに、ある格好をして、威張っているのだから「魔もの」です。
 池田 釈尊は、自分の死後の人々の幸福を考えたとき、「いかにすべきか」と悩んだと思う。そして結論として、釈尊は、自分の死後は、自分自身を仏にしてくれた「釈尊の師匠」である「永遠の妙法」そのものを師匠として修行せよと弟子に教えたのではないだろうか。前に「発迹顕本」のところで論じたことだが。(本全集第三十巻参照)
 その″遺言″を晩年、折にふれて釈尊は語った。それが後に、現在のような「法華経」としてまとめられたのではないだろうか。
 遠藤 釈尊の師とは「永遠の妙法」即「永遠の本仏」ですね。私たちは現代的にわかりやすく「宇宙生命」と呼ぷ場合もありますが。この「永遠の法」を師として修行すれば、だれでも自分と同じように仏になれるはずである。
 「生きとし生けるもの」を幸福にする「大良薬」が、この「永遠の妙法」即「永遠の仏」である。これを教えておくから、この大良薬を服し、これを弘めなさい──これが法華経であり、寿量品の心でした。
 池田 焦点は完全に、釈尊の入城後にある。未来にある。未来の「広宣流布」にある。この一点を見失っでは、法華経の心はわかりません。
 斉藤 神力品も──いな法華経の全体が、「付嘱」を中心テーマにしています。とくに虚空会の儀式では、そうです。宝塔品(第十一章)で、巨大な宝塔が出現したのも、涌出品(第十五章)で無数の地涌の菩薩が大地を割って躍り出てきたのも、寿量品(第十六章)で「永遠の仏」が説かれたのも、全部、付嘱のためです。
 須田 御義口伝には「妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事おわるなり」と仰せです。
 付嘱の意義がわからなければ、この途方もない虚空会の儀式は、おとぎ話になってしまいます。

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