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日蓮大聖人・池田大作

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常不軽菩薩品(第二十章) 「増上慢」の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  池田 桜が見事だ。「さまざまの事おもひだす桜かな」。
 芭蕉の言う通り、桜が咲くたびに、あの日の桜、あの年の春と、思い出が蘇る。
 戸田先生が亡くなつた四十年前──。
 四月八日の告別式の日も、桜吹雪が舞っていた。ひとひらひと片が、いのちをもっているかのように光って、飛んでいた。妙法の大英雄との別れを惜しんでいるようであつた。
 戸田先生の訃報を聞いて、駆けつけてくださった目淳上人は言われた。
 「戸田先生は、本当に立派な方です。──仏様なんですよ」と。
 一生涯、庶民のために命を削り続けた先生であつた。
 一生涯、国家主義の権力と一戦い続けた先生であつた。
 散る桜──思えば、戦前は国家主義のために桜まで利用された。「桜のように、いさぎよく、ぱっと散るのが日本人だ」などと、死が賛美された。とんでもないことだ。
 本当は、桜は、生きて生き抜いていく象徴です。「花見」というのも、古来、花がどれだけ咲いているかを確かめる行事であったという。なぜかならば、桜の花がたくさん咲き、しかも長く咲き続けていれば、その年は豊作と言い伝えられてきたからです。
 斉藤 そうしますと、いさぎよく、ぱっと散っては困るるわけですね──。
 遠藤 それが反対の方向に、ゆがめられてきた。
 池田 幕末から明治にかけて、「ソメイヨシノ」が全国的に広がっていたことも、「ぱっと散る」イメージに利用された。
 須田 たしかに、東京などでは″葉よりも早く花だけが咲く″とか″一斉に咲いて一斉に散る″といった特徴があります。
 遠藤 権力というものは、利用できるものは何でも利用してしまう。恐いと思います。
 斉藤 しかも、そうやって「意図的に広められたイメージなんだ」ということが、だんだん、わからなくなってしまう。「昔から、そうだつたんだ」と何となく、皆、思ってしまいます。
 須田 桜は、死の象徴ではなく、生きて生き抜く象徴なんだと言われて、はっとしました。豊かな実りへの「民衆の希望」が託された花だったんですね。
2  池田 戸田先生も、「民衆の希望」を担って、生き抜かれた。体は、二年間の獄中生活で、ばろぼろであった。しかし、先生は命を振りしぼつて、生きて、生きて、生き抜かれた。国家悪に殺された牧口先生の「分身」として──。
 まさに奇跡のごとき生命力であつた。まさに寿量品(第十六章)でした。
 戸田先生が亡くなった年の元日、先生は最後の「新年の講義」をしてくださった。
 長い闘病で、お体は衰弱しておられたが、声だけは力強かった。
 その時の先生の話は何だったか。それは、寿量品の「三妙合論」についてだった。
 (三妙合論とは、本因妙〈仏の境涯を得るための根本原因の不可思議〉、本果妙〈本因によって得た仏果の不可思議〉、本国土妙〈その仏が住む国土の不可思議〉が合わせて説いてあること)
 斉藤 最後の最後まで、法華経講義をなされたのですね。それにしても、なぜ、この時に三妙合論の話をされたのでしょうか。
 池田 とくに先生が力をこめて教えられたのは、日蓮大聖人が「本因の仏」であられるということ。そして、真実の仏とは娑婆世界という「現実の世界」以外には、いらっしゃらないのだということです。
 遠藤 「我常在此。娑婆世界。説法教化(我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)」(法華経四七九ページ)という「本国土妙」のところですね。
 池田 「仏」とは架空の存在ではない。もちろん、「架空の仏」も方便としては説かれた。しかし、真実の「仏」とは、この現実の五濁悪世の世の中におられる。
 最も苦しんでいる民衆のなかに分け入って、人々の苦しさ、悲しさに同苦し、救っていく。それが「仏」です。
 しかも、民衆を救わんと戦うゆえに、傲慢な権力者からは弾圧され、僧侶をはじめ悪い指導者に迫害され、当の民衆からさえ憎まれる。「悪口罵詈」であり、「杖木瓦石」です。
 その大難のなかにこそ、「仏」はいらつしやるのです。どこか安楽な別世界で、悟りすましているのが「仏」ではない。怒涛の社会のなかへ、先頭を切つて進むのが、「仏」なのです。先頭を切つて進めば、必ず難を受ける。傷もつく。
 しかし、民衆の苦しみをよそに、目分は傷つかないように、要領よくやろうというのは、それは「仏」ではない。「魔もの」です。
 戸田先生は、ご自身をはじめ、創価学会員が、くる日もくる日も、広宣流布へと突進し、苦闘している。その現実にこそ、真の「仏法」の光はあるのだ、それ以外にはないのだと教えてくださつたのです。これが最後の法華経講義になったと言ってよい。
 斉藤 現実の中で戦い、難を受けていく──これはまさに「不軽品」ですね。
 池田 日蓮大聖人も「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」と仰せだ。
 仏法は一体、何を説いたのか。その結論が法華経であり、具体的実践は不軽品につきる。
 須田 この御文の後に、あの有名な一節が続きます。「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ
 遠藤 人の「振舞」──「人間、いかに生きるべきか」ということを教えるために、釈尊は出現し、法を説いた。
 その結論が「不軽菩薩の生き方」であったということになります。
 池田 なみなみならぬ御言葉です。仏法の真髄を教えてくださつている。
 これを前提に、不軽品を学んでいこう。
3  一番苦しんでいる人のために!
 須田 はい。寿量品のあと分別功徳品(第十七章)、随喜功徳品(第十八章)、法師功徳品(第十九章)と三品、「流通の功徳」が説かれます。それに続いて「不軽品(常不軽菩薩品)」(第二十章)では、「法華経を弘める人」の福徳と、「法華経の弘教者を毀る人」の罪を、あわせて説いています。
 斉藤 それも「常不軽菩薩」という一人の実践者のドラマを通して、語つているわけです。
 池田 「常不軽菩薩」という名前については、いろいろ面白い話があったね。
 われわれが親しんでいる鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」では「常に(人を)軽んじなかった」菩薩という意味だが、サンスクリット語では反対に「常に(人から)軽んじられた」男という意味だつたという。
 遠藤 そうですね。竺法護が訳した「正法華」でも「常被軽慢品」と訳されています。「常に軽蔑された」という意味になります。(軽慢は「軽んじ慢(あなど)る」)
 池田 創価学会もそうです。民衆蔑視の日本の社会から、いつもバカにされてきた。「貧乏人と病人の集まり」と軽蔑する人間も多かつた。
 しかし、戸田先生は「貧乏人と病人を救うのが本当の宗教である!」と獅子吼された。
 金もうけの宗教は、金もちだけを大切にする。貧乏人なんか相手にしません。
 いわんや病人を集めて、何になりますか。病院を開くわけではなし──。
 真実の仏法は、苦しんでいる人のためにあるのです。一番苦しんでいる人を一番幸福にするための仏法なのです。そうではないだろうか。
 この崇高な心のわからない人間からは、われわれは「常に軽蔑されて」きました。それでも、相手がだれであれ、われわれは悩める人がいれば、飛んでいつて面倒を見てきた。
 抱きかかえながら、「あなたの中の仏界を開けば、必ず幸福になれるのだ」と教え、励まして、妙法に目覚めさせていったのです。
 「一人の人」を身を粉にして育て、世話してきた。まさに「常に人を軽んじなかった菩薩」です。
 斉藤 たしかに、折伏も指導も、相手を尊敬すればこそです。「この人は話しても、むだだ」と見放してしまえば、語ることもないわけですから。
 池田 常不軽菩薩が、いつもバカにされていたという表面に着目すれば、たしかに「常に軽んじられた」菩薩になるでしよう。
 しかし一歩深く、その行動の本質、魂に着目すれば、「常に軽んじなかつた」という訳は正しいのではないだろうか。
 遠藤 経典の″心″をくんだ名訳と思います。
 斉藤 あるジャーナリストが、池田先生に「どうして学会は発展したのか」と聞いて、先生はこう答えられました。
 「私が一人一人の会員と直接会い、語り合ってきたからです」と。
 池田 別に自分のことが言いたかったわけではない。それぞれの地域での皆さんの苦労が土台にあることは言うまでもない。ただ、何か、「組織の力」とか命令とかで、大衆がこれだけの団結をするはずがないということです。一人一人を真心こめて大切にしてきたから学会は強いのです。学会のその「心」を強調したかったのです。
 世間の指導者のほとんどは命令主義です。自分は楽をし、自分が疲れないようにして結果だけを盗もうとする。そんな指導者が多すぎる。われわれは、これを革命しているのです。
 遠藤 一人一人を大切にする──たしかに、これは疲れますね。
 池田 自分が疲れない指導者なんて、インチキです。
 世の中の不幸は、自分が疲れないように手を抜いて、要領よく振る舞っている指導者が多すぎることだ。結局、保身であり、遊びです。
 いわんや学会は、まじめに働いて疲れている人、人生を真剣に生きようとしながら苦しんでいる人、そういう庶民を力づけ、幸福にするためにある。そのリーダーが疲れを厭(いと)って、どうするのか。
 もちろん無理をせよというのではない。年齢とともに、健康への智慧が必要なのは当然です。ただ、不惜身命という″魂″を失つてしまえば、おしまいです。幹部も、他の指導者も──。

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