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日蓮大聖人・池田大作

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分別功徳品(第十七章) 弘教の功徳――…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 早いもので、「法華経の旅」も三年が経ちました(一九九五年〈平成七年〉二月から「大白蓮華」に連載開始)。あっという間です。
 池田 諸君には、あっという間でも、毎月やる私は大変なんだよ(笑い)。
 しかし、「生命の世紀」への大事な作業だから、頑張って、総仕上げの探究を開始しょう。
 一同 よろしくお願いします。
 池田 これから分別功徳品、随喜功徳品(第十八章)、法師功徳品(第十九章)と、三章にわたって「功徳」という名前がついた章が続く。
 全部、妙法の功徳が説かれている。なかんずく、妙法を弘める大功徳が説かれている。「広宣流布に戦う人」の生活、人生は、どうなっていくのか。それが説かれている。その意味で、現代において、これらの経文を実感できるのは、私どもをおいてない。その確信で学んでいこう。まず「功徳」とは、どういう意味だろうか。
 須田 はい。「功徳」とは「利益」とほとんど同じ意味としてよいと思います。「功能福徳」の略とする場合もあります。「功能」とは福利・福徳を生じさせる働きです。「福徳」とは、この功能によって生じた結果です。
 善い行動(善行)には、福徳を生じさせる「功能(働き)」か「徳」として備わっている。このことを「功徳」という場合もあります。
2  功徳は「行動」に備わる
 池田 少々、まわりくどい説明だが(笑い)、要するに、善の「行動」そのものに「功徳」は備わっている。
 決して、他から与えられるものではない。自分自身の生命の中から、自分自身の行動によって、泉のごとく滾々こんこんと湧いてくる。ほとばしって出てくる。それが「功徳」です。
 遠藤 ″棚からボタ餅″のような、いわゆる他力本願的な甘えとは違いますね。
 池田 日蓮大聖人は、「六根清浄」によって「功徳」はあると言われている。「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意根)」が「清浄」になるとは、我が生命の浄化です。「人間革命」であり、「宿命転換」です。
 (法師功徳品の御義口伝に「功徳とは六根清浄の果報なり、所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり」と)
 「成仏する」すなわち「人間革命する」こと以上の大功徳はない。生活上のさまざまな功徳も、自分目身の生命が、浄化された分だけ、依正不二で、さまさまな幸福の現象として現れてくるのです。
 斉藤 根本は、自分目身の生命変革にあるということですね。
 池田 自分が変われば、「さいわいを万里の外より」集めることができる。
 戸田先生はよく「私が受けた大功徳をこの講堂いっぱいとすれば、諸君の言っている功徳は小指の先くらいのものだ」と言われていた。
 広宣流布のために牢獄まで行って、牧口先生とともに迫害を一身に受けた。その「行動」の結果です。大聖人は「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」とも言われている。
 自分自身の生命の「悪」をなくし、「善」を生みだしていくのが「功徳」です。そうなるためには、折伏です。折伏とは「悪」を破折して、「善」に伏せしめることです。
 斉藤 ″悪を滅し、善を生ぜしめる″行動ですね。その行動によって、自分自身の生命の″悪を滅し、善を生ぜしめる″ことができるということですね。
 池田 反対に「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」と大聖人は仰せだ。
 (法華経の敵を見ていながら、放置して、責めなければ、師も門下も、ともに無間地獄の苦を受けることは疑いない)
 折伏です。これから学ぶ三章も、基本は「流通分」に入る。(「分別功徳品の前半」は、本門の正宗分。「涌出品の後半」と「寿量品」とこれを併せて「一品二半」とする)
 「流通」とは「流れ通わしめる」ことです。「弘教」です。
 弘教の功徳を説いているのです。妙法によって、人の幸福に尽くした分だけ、自分も幸福になる。これが仏法の功徳論です。
 遠藤 教えを「流れ通わしめる」のは弟子の使命ですから、法華経のこの章以下は、「弟子の戦い」を説いているわけですね。
3  「生きた哲学」か否か
 須田 「功徳」と言うと、いわゆる「現世利益」のように思って、低級な宗教のように見下す人もいます。しかし、仏法の功徳論は、「生命を浄化せよ」「自分自身を変革せよ」という教えなのですね。
 池田 功徳とは、現代的に言えば、「価値」であり「価値創造」ということです。
 価値の内容は「美」「利」「善」です。
 その反対(反価値)は「醜」「害(損)」「悪」です。人間の生活は、だれもが、これらの「価値」を目指して生きているのではないだろうか。
 須田 働くのも、食べるのも、本を読むのも、病気を治そうとするのも、全部、何らかの「価値」を得よう、創ろうとしていますね。
 池田 だれもが「幸福」を求めている。草木も自然に太陽に向かって伸びる。人間も、よりよき生活へ、よりよき生活へと生きている。
 それは生命の本然の働きであり、それがなくなったら、「生きながらの死」です。墓場に入ったようなものです。
 斉藤 意識しようとしまいと、人間は幸福を求め、価値を求め、功徳を求めている──たしかに、これは厳然たる事実だと思います。
 理論や解釈をうんぬんする前に、この「事実」から出発すべきです。そうでないと、どんな哲学も、実人生と関係のない「死んた哲学」になってしまいます。
 遠藤 仏法では、釈尊以来、「利」を否定したことは一度もありません。
 「功徳」を積むことを常に奨励してきたのか仏法です。そもそも功徳の「功(く)」は「功(こう)」とも読み、「幸」のことです。また「徳」は「得」のことです。(「御義口伝」に「功は幸と云う事なり」と。また「徳は得なり」(「勝曼宝窟巻上之本」)とされる)
 須田 もちろん仏法の「功徳」は、目に見える「現世利益」だけのことではありません。しかし、それを否定することは、宗教を実生活から離れた「観念の遊戯」にしてしまう。または、現実生活を向上させる力をもたない「力なき宗教」の弁解になってしまうのではないでしょうか。

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