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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 永遠の生命とは…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  池田 さあ、新しい気持で「永遠の生命」を、探求していこう。今世で、がっちりと、その確証をつかみとっていこう。
 一同 よろしくお願いします。
 遠藤 最近出た『死者のホンネ英国墓碑銘の世界』(梅森元弘著、主婦の友社)という、ユニークな本があります。
 イギリスのお墓に刻まれた墓碑銘の数々を紹介したものです。
 斉藤 どんなものがありますか。
 遠藤 そうですね。たとえば、「ここに眠るはわが女房/横にさせておこう/今、女房は休息中であるから/それでわしもゆっくりできるのだ」(笑い)。
 池田 正直な墓碑銘だね(笑い)。
 須田 さぞかし、口うるさい奥さんだったんでしょう(笑い)。
 遠藤 夫に先立たれた奥さんによる辛辣な墓碑銘もあります。「あなたについて行く気はありません。/あなたがどっちに行ったか、どうしてわかるの?」(笑い)。
 斉藤 地獄に行ったのか、天国に行ったのか、わからないじゃないですか、と。強烈ですね。
 池田 たしかに夫婦といえども、死後まで一緒とは限らない。人間は一人で生まれ、一人で死んでいかなければならない。厳しいものです。
 もちろん、妙法の力によれば、愛する人と、三世にわたって一緒に生まれてくることができると仏法では説いている。
 須田 仲むつまじい墓碑銘も多いんでしょうね。
 遠藤 もちろんです。
 池田 一番多い墓碑銘は、どういう内容なのかな?
 遠藤 くわしい統計的なことはわからないのですが、二百年以上にわたって、イギリス中の墓に多く刻まれたのは、こういうものです。「私もかつては君のようだったが/今の私のように/君もなるだろう」。
 斉藤 墓を見ている君も、いつかは死ぬんだよ、と。哲学的ですね。
 遠藤 同じ意味で、こんなのもあります。「じろじろ見るな/さっさと通りすぎろ/お前さんもすぐここに埋められるよ/俺と同じにね」。
2  「死」ほど確実なものはない
 須田 まさに「死を忘れるな(メメント・モリ)」ですね。それで、いつも心に引っかかっている御書の一節があります。
 「生死一大事血脈抄」の「臨終只今にありと解りて信心を致して」のところです。「臨終只今にありと心を定めて」というのなら、わかるのですが、「臨終只今にありと解りて」と言われているのは、どうしてでしょうか。
 池田 大事なところです。人間は誰しも、「いつかは」自分は死ぬと知っている。しかし、あくまで「いつかは」であって、まだまだ先のことだと思っている。青年はもちろん、年をとっても、否、年をとればとるほど、「死」から目をそらす場合がある。
 しかし、人生の実相はどうか。じつは人間、次の瞬間には死んでいるかもしれない。
 地震、事故、急病その他、死の可能性は「いつでも」あるのです。それを忘れているだけです。
 斉藤 たしかに、その通りです。世界の果てまで、宇宙の果てまで逃げたとしても、「死」から逃げることはできません。
 池田 「死は自分の前にあるのではない。死は背中から自分に近づいてくる」と言った人がいる。
 「いつか頑張ろう」「これが終わったら頑張ろう」と思っているうちに、あっという間に年月は過ぎ去ってしまう。気がついてみると、何一つ、生命の財宝を積まないで、死に臨まなければならなくなっている。それが多くの人の人生でしょう。その時に後悔しても遅いということです。
 須田 たしかに、「三日後に、あなたは死ぬ」と宣言されたら、のんびりテレビなんか見ていられません。
 池田 しかし、よく考えてみれば、三日後が、三年後であっても、三十年後であっても、本質は同じなのです。ゆえに、いつ死んでもいいように、「今」を生きるしかない。
 また永遠から見れば、百年も一瞬です。文字通り、「臨終只今にあり」なのです。戸田先生も「本当は、死ぬときのために信心するんだ」とおっしゃっていた。
 須田 よくわかりました。
 池田 何が確実といって、「死」ほど確実なものはない。だから、今、ただちに、三世永遠にわたる「心の財」を積むことです。その一番大事なことを「あと回し」にし、「先送り」して生きている人が人類の大半なのです。
 生死一大事というが、生死ほどの「一大事」は人生にない。この一番の大事に比べれば、あとはすべて小さなことです。そのことは「臨終」のときに実感するにちがいない。多くの人の死を看取ってきた、ある人が言っていた。
 「人生の最期に、パーッと、パノラマのように自分の人生が思い出されるようです。その中身は、自分が社長になったとか、商売がうまくいったとかではなくて、自分がどんなふうに生きてきたか、だれをどんなふうに愛したか、優しくしたか、どんなふうに冷たくしたか。自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう『人間として』の部分が、ぐわぁーっと追ってくる。それが『死』です」と。
 斉藤 その「人間として」の部分とは、十界論でいえば、自分が何界の生命なのか、自分の基底部のことですね。こういう話を聞くと、生命を高めに高めておかないといけないという思いが強まります。
 池田 その意味で、「死」を意識することが、人生を高めることになる。「死」を自覚することによって、「永遠なるもの」を求め始めるからです。そして、この一瞬一瞬を大切に使おうと決意できる。
 遠藤 どこか原稿の″締め切り″に似ていますね。いやなものですが、やはり締め切りがないと原稿はなかなか書けないのも事実です。いつでもいいと言われたら、私なんか、まず書けません。
 須田 試験の期日もそうです。教学の勉強も、試験がないと「いつかやろう」「いつかやろう」と思って、先のばししてしまいます。
 池田 もし「死」がなかったら、どうなるか。さぞかし人生は間のびして、退屈なのではないだろうか。
 斉藤 緊張感がなく、のんべんだらりとするでしょうね。
 遠藤 人口問題だって大変です(笑い)。
 須田 三百歳になって体も動かないのに、死ぬことができない──秦の始皇帝は不老不死の薬を求めたそうですが、反対に皆が「死ぬ薬」を求め始めるかもしれません(笑い)。
3  「永遠」へ目を向けさせるもの
 池田 「死」があるからこそ、「今」を大切に生きようとするのです。現代文明は「死を忘れた文明」と言われる。それが同時に「欲望を野放しにした文明」となったことは偶然ではない。一個人と同じく、社会も文明も、「生死」という根本の大事を避けていては、その日暮らしの堕落に陥ってしまう。
 死を意識するか否かが、人間と他の動物との違いです。死を意識することによって、人間は人間になった。
 このことはエドガー・モランの『人間と死』(吉田幸男訳、法政大学出版局)をはじめ、多くの学問的著作で明らかにされている。「死の重み」を忘れた生は、動物的な「軽薄な生」になっていく。
 斉藤 そうしますと、個人にとっても、人類全体にとっても、「死」は単なるマイナスのものではないことになります。むしろ、人間を「永遠なるもの」に向けていくプラスの力をもっている、ということになりそうです。
 池田 そう。寿量品には「方便現涅槃」(法華経四八九ページ)という重要な法理が示されているが、その法理の一つの意味もそこにある。
 須田 「方便として涅槃を現ず」というのは、簡単に言うと「死は方便」ということですね。方便というのは、「手段」ということですから、「死は手段」という意味になります。
 遠藤 では何の手段なのか、というと、「人間に永遠の仏を求めさせるため」の手段ということになります。
 池田 ありがたいことです。師匠は自分の死をも、弟子を救う手段とするのです。そこのところを、経文の上で再確認しておいたほうがいいでしょう。
 斉藤 はい。寿量品では、釈尊の生命は「本当は永遠」であるが、衆生を救うために「方便力」によって涅槃を現すと説かれています。
 つまり、仏の生命が永遠だからといって、ずっとこの世に仏が存在し続けると、衆生は仏の教えを求めなくなる、と言うのです。
 遠藤 こうあります。
 「若し仏は久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず、貧窮下賤にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。若し如来、常に在って滅せずと見ば、便ち憍恣きょうしを起して厭怠えんだいを懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わず」(法華経四八三ページ)
 (もし仏が久しく世の中に住するならば、徳の薄い人は、善根を植えないであろう。また、貧しく賤しい生活に落ちこみ、眼・耳・鼻・舌・身が起こす五つの欲望にふけり、執着し、さまざまな間違った考えの網の中に入って〈網にとらわれて〉しまうであろう。もし如来が、常にこの世にあって入滅しないと見れば、すぐに驕りや、わがままな心を起こし、いや気がさして怠け心を抱き、「仏さまには、なかなか、めぐり会えないのだ」と慕う思いや、仏を敬う心を生じることができないであろう)
 須田 たしかに、自分の胸に手を当てても、「この通りだ」と思います(笑い)。
 遠藤 信仰心のある人でも、「最後は仏様が何とかしてくださるだろう」と甘えてしまうでしょうね。

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