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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 永遠の生命とは…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 「生命の永遠性」を考えれば考えるほど、わからないことにぶつかります。その代表は「死後の生命」です。死によって、肉体が滅びることは眼前の事実です。それでは何が残るのか。何が「永遠」なのか。何が死後まで続いていくのか。
 遠藤 ええ。既に、「死ねば何も残らない」という考え方には根拠がないことを取り上げました。つまり「断見」の否定です。それでは、肉体とは別に、不変の「魂」のようなものがあって、それがずっと続いていくのかというとそうでもない。
 須田 「常見」の否定ですね。死んだ後、フワフワとうろついている霊魂のような「実体」はない、と。
 斉藤 仏教の「死後の生命」というと、この霊魂説のことだと思っている人が多いようです。「仏教では霊魂を否定している」と言うと、驚く人が多いようですね。
 須田 では、霊魂でないとすると、何が続いていくのか。これが難問です。
 池田 戸田先生はよく「われわれの生命は、死後、大宇宙に溶けこむんだ」と言われていた。霊魂ではなく、色心不二の生命そのものが大宇宙に帰っていく。
 大宇宙そのものが、一つの大生命です。大生命の海です。あらゆるものを育み、あらゆるものを生かし、働かせ、死せるあらゆるものを、再び、その腕に抱きとって、新たなエネルギ−を与えていく。満々とたたえられた大生命海がある。その海は、常に動いている。動き、変化しながら「生」と「死」のリズムを奏でている。私たちの生命も、大宇宙という大海から生まれた「波頭」のようなものです。波が起これば「生」、また大海と一つになれば「死」です。永遠に、これを繰り返していくのです。人間の生命だけではない。
 日蓮大聖人は、「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」と仰せです。「天地・陰陽・日月・五星」とは、いわゆる天体の世界でしょう。星にも誕生があり、死がある。寿命がある。一つの銀河にも誕生があり、死があり、寿命がある。生死の二法です。ミクロの世界も同様です。また地獄界から仏界という「法界」にも生と死がある。あるときは生の地獄界となり、あるときは死の地獄界となる。
 また大聖人が門下の南条時光のお父さんにっいて、「きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」〈生きておられた時は生の仏、今は死の仏。生死ともに仏です〉と仰せのように、即身成仏の仏果は死をも超えて続く。全宇宙のありとあらゆるものが「生死の二法」の永遠のリズムを織り成しているのです。
 さあ、そこで、この「宇宙に溶けこむ」という死後の状態が、いかなるものか。さらに探求してみよう。まず順序として、「生から死へ」すなわち「臨終」について考えてみてはどうだろうか。
2  五陰の和合がとかれていく
 須田 それでは、ひとつの手がかりとして、「臨終用心抄」(富要三巻二五九ページ)を見てみたいと思います。
 これは日寛上人の説法を記録したとされるものです。
 文字どおり、「臨終」を迎えるに当たっての「用心」が書いてあります。
 遠藤 「病人の周りに酒に酔った人を近づけてはならない」とか、「大勢で騒がしく取り囲むようなことは避けなさい」とか書いてあります。(同前二六四ページ、趣意)これは、死にゆく人の静穏を乱してはならないということですね。
 池田 「臨終」の際の「一念」が、どこに向いているかで、宇宙の何界に溶けこんでいくかが大きくが左右されてしまう。そこで、臨終の一念を、一心に妙法へ向けさせていく「用心」が示されているわけです。
 斉藤 「病人が執着を残すような財宝をそばに置いてはいけない」とか「執着を起こさせるようなことを話してはいけない」「腹を立てさせてはいけない」(同ページ、趣意)などの用心も、一心に妙法へ心を向けさせるためです。
 須田 「息が絶えても、しばらくは、亡くなった人の耳に題目を聞かせてあげなさい」(同前二六五ページ、趣意)とも言われています。
 つまり「死ても底心そこしんあり」(同ページ)ということで、当時は呼吸が止まれば「死」とされたのに、その後もしばらくは、生命の奥底に心が残っている。その心に題目を聞かせてあげなさいと言われているのです。
 遠藤 「生から死へ」の移行は、一瞬になされるのではなく、次第に推移していくと見ているわけですね。
 池田 「死」を、連続的な「過程(プロセス)」と見ている。
 斉藤 その過程とは、肉体の面で言えば、体が「有情」から「非情」へと移っていく変化と言えます。途中までは何かのきっかけで、再び「生」の方向へ転ずる可能性もあります。しかし、ある段階を越えると、二度と「生」に転ずることはなくなると思われます。前に取り上げた臨死体験は、もちろん、戻ることができる段階の体験です。
 須田 二度と逆戻りしない地点を越えて、生命は遂に完全な「死」へと向かいます。この地点のことを、古来、「三途の川」という表現で示してきたのかもしれません。
 池田 生命体が「生」から「死」へ向かう時、何が起きるのか。仏法では、一個の生命体を、心身の働きが「仮に和合したもの」と見る。
 遠藤 五陰仮和合ですね。
 池田 五陰のうち「色陰」は生命の物質的側面です。「受陰・想陰・行陰・識陰」は精神作用です。
 (「受」は眼耳鼻舌身意の六根を通して、外界を受け入れる心的作用。「想」は受け入れたものを知覚し、想い浮かべる心的作用。「行」は想陰に基づいて何かを行おうとする心の作用。「識」は受・想・行陰の作用を統括する根本の心的活動)
 「生」の力とは、こうした色心の働きを「和合」させる力です。和合し、統合し、外界に向かって能動的に活動させていく。
 遠藤 たしかに色法だけを見ても、宇宙の物質を集めてわれわれの身体はできています。
 池田 人体の細胞は、一説には六十兆個とも言われる。それらが新陳代謝を、常に繰り返している。いわば細胞次元での「生と死」を繰り返している。生死の二法です。
 それでありながら一個の生命として、厳然と統合され、秩序立って活動しています。それが「死」に向かうとき、生の統合力が失われ、「かりに和合していた」五陰の和合が、ほどかれていく。色心の働きは「潜在化」していきます。
 また肉体を支えていた五大(地水火風空)の統合が失われていきます。
 須田 「臨終用心抄」では、「断末魔の風が身中に出来する時、骨と肉と離るる也」(同前二五九ページ)とあります。体の中を風が吹き抜けて、五体をバラバラにするように感じるのでしょうか。実際、そういう臨死体験もあります。
 その時に受ける苦しみを「死苦」と呼ぶわけですが、日寛上人は、死苦について「善業有れば苦悩多からず」(同ページ)と言われています。
 池田 死ぬ時に苦しまない──これだけでも信仰の偉大なる功徳です。どれほど、ありがたいことか。
3  「臨終の相」に医学的裏付け
 斉藤 学会の中には、そういう体験が無数にあります。見事な臨終の相で穏やかに亡くなられている方が実に多い。病気で亡くなっても苦しまなかったとか、不慮の事故で亡くなっても眠るような表情だったという話もよく聞きます。
 須田 葬祭業の仕事をしている人から聞いたのですが、「たしかに死化粧というのはあるが、どんなに繕っても死相を根本的に変えることはできない。こればかりは、お金で買ったり、地位で得ることは絶対にできない。いろいろ見てきたけれど、結局その人の生きぎまが、そのまま反映しているのではないかと思えてならない」と言っていました。
 学会の葬儀は、参列者の雰囲気も、やはり違う。送る人も、心からその人の死を悼んでいることがわかって、「ああ、故人が人を大切にしてきたからなんだな」と感じることがあるそうです。
 遠藤 とくに、人のために動いてきた方の葬儀は、参列者が後をたちません。社会的には無名なのに次から次に参列者が来るので、信心をしていない遺族や町内会の人が、あらためて故人の偉大な足跡を知ったという話をよく聞きます。
 池田 死んでからも折伏しているんだね。見事です。その方々こそ″庶民の英雄″です。「是の人は命終して、千仏のみてを授け、恐怖くふせず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを」(法華経六七二ページ)と法華経(普賢品〈第二十八章〉)にある通りだ。
 (この人は命を終わる時、千の仏が手を授けて、恐怖することなく、苦悩の境涯に堕ちないようにさせてくださるのである)
 広宣流布へ戦った庶民の英雄を、千仏が賛嘆する。千仏とは、故人のために唱題する多くの人々のこととも言える。もちろん、大事なのは、送る人の人数ではない。故人を包む真心の唱題です。同志の真心の唱題に送られていくことほど、霊山への最高の旅立ちはありません。
 須田 昨年(一九九六年)に亡くなられた八王子の婦人部の方の体験を聞きました。長年、地域広布の中心者として戦い、本当に大勢の人に送られて葬儀が営まれました。
 六十五歳で亡くなられた時の穏やかな顔は地域でも評判になりました。葬儀の関係で五日間、遺体を家で安置されていたのですが、日ましに顔が綺麗になっていったと言うのです。おでこのシワもなくなり、若返って見えました。「童女のように微笑んでいる、本当に、そんなお顔だった」と訪れた人は一様に驚いたそうです。
 昭和三十年(一九五五年)の入会で、八年前に肺腫瘍で手術をしましたが、退院後も、生き生きと八王子の天地を走っておられたようです。
 池田 よくうかがっています。八王子だけでなく、第二東京の多くの人たちから信頼が厚かったようだね。
 須田 時間があれば地域の学会員のかたと懇談したり、電話をかけて人を励まし続けていました。いつも賑やかなくらいお元気で、ある人が「なんでそんなに明るいんですか」と聞いたことがあった。すると「人の悩みを解決しようと唱題をするおかげです。人を励ませば励ますほど、ますます自分の生命力が豊かになっていると思うわ」と語っておられたといいます。
 いつも部員さんを明るく激励されていたので、突然の死に、誰もが驚きました。生前、よく「永遠の生命なんだもの。どうせなら、花が散るように死んでいきたいわ。皆に迷惑をかけないからね」と言っておられたそうです。
 亡くなられる時は、すーっと意識が遠のき、苦しみも、まったくなかった。そして、先ほどご紹介しましたように、本当に穏やかな顔で、まるで人を励ましているようだったといいます。
 斉藤 臨終の相で、また皆を激励しているのですね。
 遠藤 日蓮大聖人は、臨終の相に「死後」の状態が表れていくと言われています。前にも出たように「善人」は顔色も白くなり、体も軽く、柔らかくなる等と仰せです(御書一三一六ページ、趣意)。どういう場合に、顔色がよくなることが多いか、ターミナル・ケア(終末医療)の専門家の方にうかがったことがあります。
 要約しますと、満足感をもって安心して亡くなる場合は、大体、血管が開いた状態だそうです。すると、血液の凝固と筋肉の硬直が比較的遅くなる。だから、顔色が白く、体が柔らかい。
 ところが、後悔や無念さを抱いて苦しみながら亡くなる場合、拳を握り締めたような形になるので血管が収縮した状態になる。すると、血液の凝固と筋肉の硬直が早く始まり、色が黒く、体が硬くなるという話でした。
 成仏ということとは次元が違うかもしれませんが、一般的な傾向として、死を迎えた時の心の状態が、その人の亡くなっていく姿に現れるのではないかと言うのです。
 池田 臨終の姿の相違が医学的にも、ある程度、裏付けられるということだね。
 もちろん、妙法の功徳は一切の罪障を消しているのですから、信心に励んでいる人は何があっても、心配する必要は、まったくない。たとえ事故などで亡くなった場合であっても、生前に強盛な信心があれば成仏していけることは間違いない。

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