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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界互具(下)…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  「仏界の大地」で広布のドラマを名優のごとく!
 斉藤 青年部の一級教学試験が終わりました(一九九七年八月)。二十一世紀の幕を開く「新しい人材」が、「新しい舞台」へと躍り出ました。
 池田 合否を問わず、真剣に御書を学び抜いた人が「勝利者」です。また「広宣流布の宝」です。
 夏休みを返上して、受験する後輩の面倒をみてくれた先輩たちがいたことも、よく知っています。その労苦の汗は、どれほど尊いか。試験に受かろうが受かるまいが、これからが、青年の勝負です。縦横無尽に、一人でも多くの人に、大仏法を語り抜いてもらいたい。
 遠藤 そうでなければ、何のための試験か、ということになりますね。
 池田 戸田先生が亡くなられて(昭和三十三年〈一九五八年〉四月二日)、いちばん最初に行った全国行事が任用試験(四月六日)だった。
 まだ告別式(四月八日)も終えていない、大師匠を失った悲嘆のなかで、予定を変更することなく、厳然と行われたのが教学試験だったのです。全国六十余都市の会場で、多くの同志が受験した。世間は、先生なき後の学会を、さまざまに揶揄やゆし、中傷した。その最中さなかでも、学会は、ひたぶるに「行学の二道」を歩んだのです。
 須田 世間では「学会は空中分解する」と言われていました。他宗教の僧侶や学者たちも「彼(戸田先生)亡き後の創価学会は少しも恐ろしくない」「これから戸田氏在世当時のように創価学会がゆけるかと言えば到底それは考えられない」と。
 遠藤 折伏の闘士がいなくなったことに、「ほっとした」と、もらした仏教学者もいました。
 池田 内外ともに、どれほど戸田先生を、偉大な指導者と見ていたか。その証左と言ってもよいでしょう。
 斉藤 しかし学会は「空中分解」するどころか、いよいよの勢いで、弘教・拡大を開始していきました。まさに池田先生を中心に「行学の二道」を、まっしぐらに進んだたまものだと思います。
 池田 あれは、確か昭和二十五年(一九五〇年)の暮れだったと思う。私は二十二歳だった。戸田先生の事業の蹉跌さてつによる苦しみは、まだ続いていた。
 もちろん、先生の会長就任もまだです。学会員の中にも、借金を抱えて苦労している戸田先生を見かぎり、離れていく人間も少なくなかった。
 そんななか、戸田先生と私は、所用で湘南電車に乗った。二人だけの旅だった。車中でも、いつも勉強です。この日は「観心本尊抄」だった。日寛上人の文段を拝しながら、「観心の本尊」の功徳の広大無辺なることを、戸田先生は語ってくださった。
 車窓から広大なる太平洋が見えた。戸田先生は言われた。「あの太平洋のような大境涯の信心で、この御書を拝することだ。そうでなければ、凡夫が御本仏のお心に近づくことはできないのだ」と。
 御書は、ただ才智で読んでもわからない。全生命をかけた「信心」で拝していきなさいとのお話だったと思う。明日も見えない苦境の中で、実に悠々たるお姿でした。
 青年部をはじめ教学を真剣に学んでいる方々のために紹介しておきます。
 斉藤 ありがとうございます。
2  十界の「互具」は法華経だけの法門
 須田 これまで十界のそれぞれを論じていただきましたが、ここでは、十界の「互具」がテーマです。
 池田 御書には、「十界」は法華経以前の経典でも説かれたが、その「互具」を説いたのは「法華経」だけであると仰せです。
 (「法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり」)
 法華経の法門の要のなかの要だ。それだけに、短い時間で語り尽くせるものではない。そこで、まず「互具」とは何か。「互具」がわかれば、人生は、どう変わるのか。そこを中心に、語り合ってはどうだろうか。
 須田 はい。「十界互具」とは、文字通り言えば、「十界のそれぞれに十界が具わっている」ということです。「十界の、どの一界にも他の九界が具わっている」とも言えます。
 そのことを″10×10″で「百界」とも表現します。
 (「十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し十界互に具すれば百法界なり」)
 遠藤 十界論は、私たちの生命状態を説明する場合によく用います。時々、質問を受けるのは、「十界が互具して『百界』になると、生命状態は百種類あることになるのですか」ということです。
 「地獄界所具の仏界」「人界所具の仏界」等の言い方をします。もし百種類にわかれるとすれば、「たとえば『地獄界所具の餓鬼界』と『餓鬼界所具の地獄界』では、どう違うのか」とか、いろいろ疑問が出てきます。
 須田 また、人間に生まれたこと自体は「人界」と、とらえられます。そうすると、(1)人間として生まれ、(2)病気で地獄の苦しみを味わい、(3)菩薩の使命に目覚めた時、「『人界所具の地獄界』所具の菩薩界」となる。これだと″10×10×10″で、千界になってしまいます。
 斉藤 それでは、一念三千ではなく″一念三万″になりますね(笑い)。
 池田 基本的な勘違いがあるような気がする(笑い)。まず、これまで、私たちの人生を例に「十界」論を学んできたが、これ自体、「人界に十界を具する」ことが大前提になっていたわけです。
 須田 たしかに、その通りです。
 池田 じつは、これ自体が、法華経以外では考えられないことなのです。
 斉藤 爾前教では、十界が説かれても、それは、いわばバラバラの存在でした。ですから人界の衆生が仏界に至るには、人界の生命を捨てるしかありません。歴劫修行し、九界の低い境涯を捨てて仏になれると説いたり、あるいは極楽浄土などの遠い──この娑婆世界とは別の国土に死後、生まれる(往生する)と説いたりしました。
 池田 「人界に十界を具する」──私たちが当然のことのように思っている、このことが、じつは「十界互具」の思想のポイントです。
 すなわち、宇宙にも十界がある。宇宙全体が十界を具えた大生命です。そのうちの人界に今、われわれは生まれた。宇宙の中の、この人界にも十界が具わっているし、同じく畜生界にも十界が具わっている。餓鬼界にも修羅界にも、十界すべてに、それぞれ十界が具している。
 遠藤 宇宙全体としての十界互具ですね。
3  池田 そこで、何のために「十界互具」が説かれたか。
 それは、あくまでも「人界に十界が具わっている」ということを教えんがためです。なかんずく「人界に仏界が具わっている」ということ、凡夫がその身そのままで成仏できるのだということを教えんがためです。
 斉藤 それを知るのが「観心」ということですね。「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」と仰せです。
 須田 たしかに「観心本尊抄」でも「人界所具の十界」なかんずく「人界所具の仏界」に焦点をしぼって論じられています。
 遠藤 十界互具が説かれた目的が、はっきりしました。その意味では「『地獄界所具の餓鬼界』と『餓鬼界所具の地獄界』の違いは」というような議論は、十界互具の本質から、かけ離れてしまいますね。
 須田 それでは例の″千界問題″(笑い)はどうなるでしょうか。
 斉藤 「人界所具の地獄界所具の菩薩界」云々の話ですね。
 須田 結構、多くの人が混乱していると思うのですが。
 斉藤 たしかに、宇宙に十界があり、そのうちの一界の衆生が、それぞれ十界互具(百界)の当体だとしたら、宇宙全体では千界になってしまいます。しかし、これも十界互具が説かんとしていることを誤解していると思います。つまり、ポイントは、各界のどの衆生をとっても、そこに十界が具わっているという「不思議」にあります。
 本来、十界のうちの一界は″部分″のはずです。その″部分″に十界という″全体″が具わっているという不思議な生命の実相を言わんとしているのです。それが「互具」です。互具という実相に意味があるのであって、それは百界まで言えば十分なわけです。

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