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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界論(下)六…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  「天界の栄え」は幻の楽しみ、「生命の大長者」は三世に栄える
 遠藤 ここからは「天界」と「二乗界(声聞界・縁覚界)」です。天界というと何となく、うきうきした″バラ色″のような世界をイメージします。二乗界というと──。
 池田 ″灰色かな″(爆笑)。
 斉藤 灰色ですね。何となく、くすんで陰気な(笑い)イメージです。
 須田 御書で、二乗がこてんばんにやられている情景ばかり読んできたせいかもしれませんが(笑い)。
 遠藤 でも、二乗は「四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏」の中ですし、「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)」の輪廻を超えているわけです。境涯としては、随分、上ですね。その分、六道より幸福なはずなのですが。
 池田 そこで、なぜ″バラ色から灰色へ″(笑い)と進まなければならないか。天界のままでは、なぜいけないのか。これが。ここでのポイントになる。
 結論から言えば、天界がいけないのではない。天界にとらわれ、引きずられて、自己満足してしまうのがいけなのです。健康で、食べるものが十分あって、家庭が仲良く、生活が喜びにあふれている。それはすばらしいに決まっている。皆がそうあってほしいし、そのように私は祈ってもいます。
 しかし残念ながら、バラの花は永遠に咲いているわけではない。季節とともに色あせるし、必ず散ってしまう。生命には生・老・病・死の苦しみがある。
 斉藤 たしかに「天は五衰を受く(天人五衰)」と言いますが、天界の喜びはやがて衰える──そのことを「花がしぼむ」と表現しています(五衰の一つ)。
 池田 天界の喜びは夢のようなものだ。幻です。夢を追いかける人生は幻です。
 仏法の目的は、永遠に崩れない幸福をつくることだ。はかないバラのような幸福ではなくて、永遠にわたって崩れない宮殿を自分自身の生命に打ち建てるのです。「自分自身が金剛の宮殿になる」のが信心です。そびえたつ宝塔になるのです。
 その宮殿には季節季節の「天の喜びの花」も咲いている。煩悩即菩提であるゆえに、悩みがあればあるほど、より大きな充実を味わっていける。そういう「金剛の心」をつくるのが真のの四聖です。
 環境に左右される自分から、環境を左右していく自分への人間革命です。内面に不動の宮殿をつくるのです。二乗という求道の生命は、その「永遠の天宮」をつくる土台づくりに当たると言えるかもしれない。
 須田 ″灰色″ではなくて″いぶし銀″といったほうがいいですね(笑い)。
 遠藤 今の世情も、まさに″バブル崩壊″であり、うたかたの泡のごとき繁栄の″つけ″が回ってきています。「欲望を満足させればいいんだ」という文明は、必ず苦しみの境涯になる──「六道輪廻」との仰せを、今の日本では、だれもが、はっきりと実感できるのではないでしょうか。
 池田 「欲望の魔力」だ。「欲望の魔力」に人間自身が骨抜きにされてしまった。堕落してしまった。それで、何の幸せがありますか──。
 欲望を満足させた「欲天」の頂上には「第六天の魔王」がいる。欲望を追求するだけの人生・社会は、この魔王が支配するのです。これほど不幸なことはない。
 斉藤 たしかに現代の文明は、欲望追求を善とする文明であり、いわば「天界」を理想としてきたと言えると思います。その行き詰まりは、だれの目にも明らかです。
 池田 行き詰まりの根本は、目が「外」ばかりを見て、「内」を見ていないところにある。なかんずく、「生老病死」という人間の根本問題から目をそらしているところにある。その閉じた目を開くのが法華経であり、寿量品です。
 人間は生死を見つめてこそ、真の人生へと開眼する。生と死という淵に立ては、浅はかな自己満足など吹っ飛んでしまうでしょう。その実例は無数にあります。
2  「死」の淵から見た「生」の輝き
 須田 「死」を見つめることによって生き方が変わる。学会員の中にも、そうした体験が、たくさんあります。
 かつて富山県の県長として活躍された壮年の体験を紹介します。和五十四年(一九七九年)六月。その壮年は、自分が上顎ガンの末期と聞かされました。富山県の病院から東京へ転院した、その日でした。
 斉藤 医師から聞いたのですか。
 須田 先に医者から聞いていた奥さんが伝えたそうです。新宿の街を、二人で歩きながら──。
 遠藤 聞いたときは、ショックだったでしょうね。
 須田 本人にも予感はありましたが、やはり愕然とした。しかし、なぜか恐怖感はわいてこなかった。不思議でした。
 それどころか、聞いたとたん、周囲が、ぱーっと明るく見えた。梅雨の合間の日ざしを受けて、アスファルトが輝いてみえる。木の緑は、こんなにも鮮やかだったのか。街並みは、こんなにきれいだったのか。歩く人々に語りかけ、抱きしめてあげたいような衝動が胸に突き上げたといいます。
 遠藤 それは、すごい。
 須田 その一方で、「死刑台に上がっていく」ような戦慄も感じながら、逃げなかった。全身で死魔との格闘を始めます。
 八時間と言われていた手術は二時間半で大成功に終わりました。歯と歯茎と上顎が切除され、毎日、口の中のガーゼを交換するのは、気絶するほどの痛みでした。それでも、かすむ目で御書を開き、一節、一節を生命に刻んでいきます。
 当初、言語機能障害が危ぶまれていましたが、しやべることがリハビリです。本人は「学会活動が一番のリハビリになった」と語っていたそうです。それにつけても気がかりなのが富山の同志です。東京の病院に転院してから一度も戻る機会がなかった。
 ある日、池田先生から「あれから富山に行っていないのだろう。一緒に行こう!」と言われ、北陸指導に随行しました先生は北陸に着くや、開口一番、「連れてきたよ」と皆に紹介してくださった。彼は、心で男泣きに泣いたそうです。
 以来、第二東京(現・第二総東京)でセミナーや個人指導など、新たな天地での活動を開始します。
 池田 立川文化会館で何度も会った。弾むように歩いていたのが忘れられない。今、生きていることが、うれしくて、うれしくてしょうがない、という感じだった。
 須田 本人もこう語っています。
 「死との境を経験しなければ、御書や先生の指導の本当の深さがわからなかった。生きるということは戦いだと。ところがそこに気づかない人がなんと多いことか。自分には広布の仕事が残っている。時間が惜しい」と。
 斉藤 たしかに多くの人が、死を前にして初めて、「今まで自分は何をしてきたんだろう」「何で、元気なうちに、もっと真剣に生きなかったのか。本気で信心しなかったのか」と気づくといいます。
 池田 そこだよ。「臨終只今にあり」と思って、信心しなければ悔いを残す。健康で動けるうちに、広宣流布へ尽くしていかなければ未来永劫に後悔です。
 須田 彼は、平成四年(一九九二年)に亡くなるまで、個人指導に全力投球しました。「もう、今世で二度と、この人に会えない。そう思うと、その人に、いろんな御書の一節を贈りたくなる」と。
 なかでもガンの末期と聞くと、他人事とは思えませんでした。彼に激励された人は全国にいます。リポート用紙に御書をたくさん書き抜いて渡しました。
 「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」、「このやまひは仏の御はからひか」、「命限り有り惜む可からず」──。
 もらった人は、前から知っていたつもりの一節一節が、新鮮に心に響いたそうです。
 斉藤 すばらしい体験ですね。
 池田 人生の本当の尊さを教えている。
 生と死の断崖に臨んだとき、地位も虚栄も財産も何の役にも立たない。ぎりぎりの裸一貫の自分の生命しか残されていない。その生命それ自体を変えるには、仏法しかないのです。
3  「天」への畏れから宗教は生れた
 池田 それではまず、「天界」の基本的な意味を見ておこう。
 遠藤 はい。「天」とは梵語の「デーバ」の訳で天人の住む世界とされています。
 「神」と訳されることもあります。もともとは「輝く(光を放つ)」という意味からきています。
 斉藤 「天」ともいい、「神」ともいう──「諸天善神」のことを思い出せば、よく分かりますね。
 日天子、月天子を含めて、地上の人間を超えた力をもつ存在と考えたわけです。
 須田 インドでは古来、今世で善行をなしたものは、来世に天に生まれると考えられていました。
 遠藤 梵天(ブラフマン)や帝釈天(インドラ)は、そうしたインドの神々の一つです。仏教ではそれらを一応取り入れ、生かしたわけです。
 池田 「天(神)」とは、文字通り、大宇宙の力のことではないだろうか。人類は、天空を仰ぎ、その壮大さに、いつも心を引きつけられてきた。そして、天の力を、自分の味方にしようとして祈ったし、時には破壊をもたらす大自然の力を恐れて、危害を避けたいと祈った。
 人間は自然の偉大な力を畏れ、その力に額ずいた。自分の努力だけではどうにもならない運命を感じ、よりよき運命を″神々″に祈った。その「祈り」から宗教が生れた。宗教から祈りが生まれたのではなく、祈りから宗教が生まれたのです。
 つまり「天」とは、人間が人間を超えた偉大なる存在を感得したことを示している。
 多くの動物は下を向いている。人間は二本の足で立ち、顔を上げた。そして大宇宙を仰いだ。「天」に憧れた──譬喩的に言えば、そういう進歩があると私は思う。その意味で、輝く「天」は人々の理想であったに違いない。
 須田 たしかに、釈尊と同時代に出現した多くの新思想家──六師外道がその代表ですが──たいてい「天に生まれる」ことを修行の目的に置いていたようです。
 池田 仏法では、「天」を死後に行く世界としてではなく、むしろ生命の境涯のひとつとして位置づけた。また六師外道たちの修行によって得られるとされた境地も、すべて「天界」の中に位置づけています。
 遠藤 いわゆる欲界(欲望渦巻く世界)の六天、色界(欲望の支配を離れたが、まだ物質的な制約がある世界)の十八天、無色界(精神が支配する世界)の四天、あわせて二十八天があるとされていますね。
 須田 欲界・色界・無色界で「三界」です。「三界は安きことなし猶火宅の如し」(譬喩品〈第三章〉、法華経一九一ページ)と言われる、あの「三界」です。「六道」は全部「三界」に入りますから、六道と同じ意味になります。
 斉藤 このうち「欲界」は、生存欲とか本能的欲望、物質的欲望、社会的欲望などが渦巻いている世界です。
 天界(欲天)は、これらの欲望が満たされて喜んでいる境涯になります。たとえば食欲などの欲望が満たされて、それにひたっている境涯も「欲天」でしょう。
 須田 日蓮大聖人は「喜ぶは天」と言われていますね。
 池田 喜びにも、いろいろある。「欲界」の欲望を超えて、純粋な知的欲求とか、美への欲求、崇高な境地を目指す精神的欲望もある。
 遠藤 それらの高次元の欲求が満たされていくのが「色界(色天)」「無色界(無色天)」だと思います。
 斉藤 いずれも、真理を求め、その欲求が満たされていく境涯といえるでしょう。
 須田 それは、二乗とは、どう違うのでしょうか。とくに「無色界」と「二乗」は、精神的に到達する境涯が似ているように思えるのですが。

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