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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界論(中)「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 これまでが、(1)地獄界(2)餓鬼界(3)畜生界の「三悪道」でしたので、ここからは「修羅界」から見ていきたいと思います。
 池田 勉強しましょう。自分の境涯革命のために。十界論は「鏡」です。この鏡をもてば、自分が見えてくる。他人が見え、社会が見え、何をなすべきかが見えてくる。
 須田 はい。修羅界・人界・天界は、三悪道に対して「三善道」と言われます。両方を合わせて「六道」です。
 遠藤 不思議に思うのは、修羅界は三悪道と合わせて「四悪趣」と言われるのに、「三善道」にも入っている。善でもあり、悪でもあるのですね。
 池田 そのことも、考えておく必要があるね。まず基本的な意味を見ておこう。
2  修羅界──他人を見下す慢心
 遠藤 修羅界の「修羅」とは「阿修羅」のことで、梵語のアスラの音訳です。古代インドでは、正義の神の一つでしたが、やがて魔神として位置づけられるようになりました。
 須田 日蓮大聖人は「諂曲てんごくなるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは「へつらい」「曲がった」心のことです。「てん」も「ごく」も「心が曲がっている」ことです。なかんずく「自分の本心を見せないで、従順をよそおう」のが「諂い」です。
 遠藤 「修羅」というと、何か「肩をいからせて、いばっている」姿を思い浮かべそうですが、「へつらう」というのは、イメージが反対です。修羅の境涯は、一見、大変に謙虚にさえ見えるということでしょうか。
 池田 そこに問題がある。修羅は「慢」の生命です。「慢」は、七慢・九慢など、いろいろ分類されているが、要は、他人と自分を比べて、自分が優れ他人が劣っていると思いこむ煩悩です。
 いわば″自分はすばらしい″という自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれていくのです。だから人にも「すばらしい人だ」と思われるために、「本心を明かさない」──すなわち「へつらう」のです。
 遠藤 本心と外見が違っているわけですね。だから、心にもないことも言う。これは三悪道にはなかったことです。かなり知能犯というか、ある意味で、高級になっているわけですね。
 斉藤 たしかに、修羅について天台は、内面と外面が違うと述べています。
 「常に他人に勝つことを願い、それが叶わなければ、人を見下し、他者を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろすようなものである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を見せようとして、下品の善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(『摩訶止観』)。内面では、自分より優れた者の存在を許せない。人を心から尊敬することができない。自分だけが偉いと思っている。「勝他しょうたの念」を燃やしている。
 しかし外面では、そういう心を、おくびにも出さない。仁・義・礼・智・信を備えた人格者のように振る舞う。そうすることによって、「人格面でも優れている」と人に思わせ、あるいは、自分でも思いこもうとするのかもしれません。
 遠藤 「これほど謙虚な自分は立派なのだ」と慢心したり(笑い)。
 須田 内面と外面が違う。「うそつき」だということが修羅の特徴ですね。
 池田 同志を裏切っていった反逆者は、そういう連中であった。外面に、だまされてはならない。
 斉藤 たしかに、「諂曲」とある通り、かなり「曲がって」います。
 池田 そう。心が「曲がっている」から、自分についても、相手についても、正しく見ることができない。「慢」という「ゆがんだレンズ」を通して見る自己像は常に大きく、すばらしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長がない。
 「御義口伝」には「上慢(増上慢)」と「我慢」についての文句記の文を挙げられています。「疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す」と。
 斉藤 自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが「増上慢」。とくに、仏道修行の成果を得ていないのに、得たと傲ることです。そして、自分勝手な考えに執着して、反省しようとしないのが「我慢」です。
 池田 法華経の方便品には、悪世の衆生は「我慢にしてみずから矜高こうこうし諂曲にして心不実なり」(法華経一三二ページ)と説いている。我慢の心が強く、みずからを誇り、高ぶっていながら、心は曲がり、率直でも誠実でもない、と。その通りの世相ではないだろうか。
 須田 よく「我慢しなさい!」と、お母さんが子どもを叱ったりしますが、本当は「我慢」は、いけないのですね(笑い)。
3  自分が、さらけ出される「恐怖」
 池田 そのように、「我慢」は、いつしか「忍耐」の意味で使われるようになった。なぜだろうか。慢心は、時に強靭な意志力を発揮するのです。「すばらしい自分」という幻想の自己像を守るために、すさまじいエネルギーを出すのです。
 斉藤 自分自身の向上に、それだけのエネルギーを注げばすばらしいのに、「偽りの自分」に執着し、守るためにエネルギーを使ってしまうのですね。
 池田 そこに「修羅」の不幸がある。その心は、いつもおびえている。自分の「本当の婆」を暴かれることを恐れている。
 「佐渡御書」には「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅しゅらのおごり帝釈たいしゃくめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」と仰せです。その反対に、「獅子王の心」は何ものも恐れない。自分を守るためではなく、正法を守り、民衆を守るために生きているからです。
 遠藤 「修羅は身長八万四千由旬・四大海の水も膝に過ぎず」(日寛上人の「三重秘伝抄」)と、巨大な姿で説かれています。大海の中に立っても、水が膝くらいまでしかこない。それくらい大きな姿なのですが、これは主観的な自己像であって、実像とは違うということですね。
 須田 たしかに慢心している心は、自分を大きいように錯覚します。しかし、帝釈天のような本物の力をもった存在に、慢心を打ち破られると、とたんに池の中の蓮の中に隠れるくらい小さくなってしまう。
 遠藤 風船がしぼんだような婆ですね。
 斉藤 こうして見てくると、阿修羅というのは、非常に多くの現代人を特徴づけているのではないでしょうか。最近話題になった『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著、森英明訳、草思社。以下、同書から引用)で分析されている「邪悪な人」というのは、「修羅界の人」と大変、共通しているように感じるのです。
 遠藤 私も読みましたが、平気でうそをつく「邪悪な人」とは決して特殊な例ではなく、どこにでもいる普通の人の中にいるという趣旨でしたね。
 斉藤 ええ。その特徴は「自分には欠点がないと深く信じこんでいる」。
 「完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しょうと絶えず努める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである」
 「彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって『善』とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている」
 須田 なるほど、「下品の善心」で外面を飾るということですね。

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