Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

如来寿量品(第十六章) 本門の心──永…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  今世のみの「相対的幸福」は根なし草
 須田 今年(一九九七年)の春、地球に最接近したヘール・ポップ彗星は、多くの天文ファンを楽しませてくれました。次に″帰ってくる″のは二千四百年後だそうです。
 遠藤 片や、人間の一生は、百年あるかないかです。今の人類が、もう一度、この彗星に出あうことはできないんですね。
 斉藤 壮大な宇宙の営みを思うと、今ここにいる「自分」とは、一体、どんな存在なのかと、しみじみ考えてしまいます。おそらく、多くの人が、そうだったのではないでしょうか。
 池田 みんな、意外とロマンチストなんだね(笑い)。難解な教学の勉強も必要だが、たまには星を見たり、月を見たりして、一句でも詠もうかという心のゆとりが大事だ。心広々と、大宇宙を見つめることは、自分の人生を見つめることにもなる。
 須田 はい。日常生活に追われていると、「大宇宙の中の自分」というスケールで、自分を見つめる機会は、なかなかありません。小さなことで悩んでいる自分、きょう、あすのことだけで精一杯の自分……と、どうしても、狭いワクから出られないものです。
 池田 だからこそ信仰が必要なのです。戸田先生が亡くなる前の年(昭和三十二年=一九五七年)、ソ連が人類初の人工衛星(「スプートニク」一号)の打ち上げに成功した。世界中が、この話題で、もちきりだった。この時、戸田先生は、大騒ぎする周囲の人をたしなめて、「なんだ、そんなに騒ぐことではない。ちっちゃな星が、一つふえただけの話じゃないか」と笑っておられた。「仏法で説く大宇宙から見れば、小さな小さな豆粒みたいなものだ」と。
 大宇宙をも、ご自分の庭のように話される先生に、仏法のすごさ、先生のスケールの大きさを感じたものです。国と国との争いにせよ、人間は小さなことで大騒ぎするし、一喜一憂するものです。その心の小ささが、不幸を生んでいる。
 日蓮大聖人は、時代とともに「広き心も・せばくなり道心ある人も邪見になる」と仰せです。狭くなってしまった心を広げるのが仏法であり、広宣流布の運動なのです。
 心を広げる──その究極は「一念三千」です。わが己心が大宇宙と永遠に一体であることを体得するのです。仏法は、そのためにある。そして日蓮大聖人は、寿量品の発迹顕本がなければ、真実の「一念三千」にはならないと仰せになっている。それは、なぜなのか。ここでは、もう一歩深く、「発迹顕本」について論じていこう。
2  釈尊の真意は「一念三千を見よ!」
 遠藤 はい。先ほど、寿量品の「発迹顕本」の意義について、うかがいました。
 釈尊は、「永遠の法」即「永遠の仏」を師として仏になった。釈尊が師としたのと同じ永遠の法即仏を師とせよ、と弟子たちに説き明かしたのが発迹顕本である。そこには、″「人間・釈尊」に帰れ! そして釈尊を仏にした根源に直達せよ!″との力強いメッセージが込められていた。──こうしたお話に、目の覚める思いがしました。
 斉藤 この「永遠の法」とは南無妙法蓮華経であり、「永遠の仏」とは南無妙法蓮華経如来すなわち久遠元初の自受用身のことですね。
 池田 そうです。南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。
 「法」といっても「人(仏)」を離れた法は、「理」だけの存在です。実際には──「事」の上では──仏の智慧を離れた法というのはないのです。
 久遠元初の仏──無始無終の常住の仏は、宇宙生命そのものであり、一瞬の停滞もなく、常に不断に、一切衆生を救おうと活動しておられる。その仏と自分自身が、じつは一体であり、自分自身が久遠の昔から人々を救うため、広宣流布のために働いてきたのだ、今だけのことではないのだ──そう自覚するのが寿量品の心です。
 目先のことではない。永遠の宇宙的スケールで今世の人生を見つめ、甚深の使命を自覚するのです。釈尊も、「永遠の仏」と一体の自分を悟った。それを釈尊は「不死」の境地と言ったのです。釈尊は言っています。「不死しなないの境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている」「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と。
 遠藤 この「不死の境地」と「最上の真理」とは同じことですね。
 池田 そうです。端的に言えば、どちらも一念三千のことです。この一念三千を、釈尊はさまざまな経典で一部分一部分、説いた。しかし、法華経以前の経では不十分であった。「開目抄」に有名な御文がありましたね。
 須田 はい。ここですね。大聖人は、こう仰せです。「華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故にお未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり
 爾前経では「二乗作仏」と「久遠実成」を説いてない。二乗作仏がないということは、「行布を存する」ということになる。行布とは「行列配布」のことで「差別」の意味です。二乗は成仏できないと差別している。本当の平等観ではない。これが「二つの失(欠点)」の一つです。もう一つの「失」が、始成正覚を説いて「久遠実成」を説いてない──発迹顕本がないということです。
 遠藤 そこで大聖人は「二乗作仏」と「久遠実成」について、「此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり」と言われるわけですね。釈尊一代の教えの骨髄である、と。二乗作仏で「迹門の一念三千」が明かされ、久遠実成(発迹顕本)で「本門の一念三千」が明かされたということだと思います。
3  斉藤 そこのところは、こう述べられています。「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるにたり
 ここでむずかしいのは、なぜ発迹顕本が説かれないと「まことの一念三千」があらわれないのか、ということです。なぜ「根なし草」なのか。
 池田 順序立てて考えていこう。まず、「迹門の一念三千」とは何か。方便品のところでもやったけれども、もう一度、まとめておきましょう。
 斉藤 はい。方便品の「諸法実相・十如是」の文をもとに天台が打ち立てたのが一念三千です。諸法実相が説かれたことで爾前経と抜本的に変わったのは、仏界と九界の断絶をなくした点にあります。
 爾前経では、地獄界から仏界までの十界の衆生がバラバラの存在として説かれていました。仏と九界の衆生は住む国土さえも別々であるとされた。
 しかし法華経方便品に至って、仏も九界の衆生も、平等に十如是(如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是法・如是本末究竟等)によってなり立つ生命であることが明かされたのです。これで爾前経の「行布(差別)」をなくしたわけです。
 池田 十如是は十如実相ともいう。実相の体は、じつは妙法蓮華経そのものなのです。十如是の如是因・如是果も、一瞬の生命に因果倶時で具わっている。因果倶時ですから、不可思議の″蓮華″の法です。一切衆生の「当体蓮華」を説いているのです。
 諸法実相の「諸法」とは十界のことです。宇宙の森羅万法は無限とはいえ、すべて十界の依正(依報・正報)に含まれる。この十界諸法がすべて「実相」すなわち妙法の当体であるというのが諸法実相です。
 遠藤 諸法実相について、方便品の語らいでは、次のように論じていただきました。
 仏の悟りから見た生命の真実の世界は、「一切が平等であり、主体と客体、自分と他人、心と身体、心と物など一切の差異・差別を超えている。始めもなければ終わりもない。十界の差別も超えている。広大な広がりをもった『永遠の生命』の世界」である──と。
 池田 そう。無始無終で活動してやまないダイナミックな宇宙生命の実相を指向しているのです。諸法実相によって、十界のどの衆生でも、平等に成仏できる法が明かされた。これが「迹門の一念三千」です。

1
1