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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 発迹顕本──「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  「人間・釈尊」に即して「永遠の仏」を開示
 斉藤 香港でも『法華経の智慧』(中国語版)が出版されました。明報出版社の「仏教と人生」シリーズの冒頭を飾り、「シリーズ第一巻」に選ばれたようです。深い人生哲学を求める、世界の人々の鼓動を聞く思いがします。
 須田 シリーズの総序として、こう書かれています。筆者は、日刊紙「明報」の主筆、魏承思ぎしょうし氏です。
 「人生の価値と意義は何か?人生の源は? 人生の行き着くところは? 果てしない宇宙のなかで人間の存在とは? こうした尽きることのない問題は、常にわれわれ人類の頭を悩ませ、だれもがその答えを追い求めてきた」
 「林のように多くのさまざまな宗教・哲学の体系のなかで、仏教の人生への洞察は、独りそびえる大木のごとくであり、人々を深い思索に導いてきた」。
 遠藤 ここで、なぜ仏教が「大木のごとく」独りそびえているのか。その見解が、実に鋭いですね。「仏教は(一神教の神のように)『救済者』という概念に縛られない。自己を尊び、自己を信じ、自分のカで生死の苦悩から解脱できることを教えている。ゆえに仏教には、人の心を安らかにし、人生を変えゆく使命がある。これこそが今日、東洋から西洋へ、そして全世界へと仏教が広がつている根本原因なのである」
 池田 急所を突いている。仏教の真髄は、何かに頼るものではない。自分自身が、自分自身の決意と、自分自身の努力で、自分自身を開いていくのです。頼らない。自分が立ち上がる。同情もいらない。感傷もいらない。だれが励ましてくれなくてもいい。自分が決然と、そして朗らかに立ち上がって、自分を変え、周囲を変え、社会を変え、国土まで変えていくのです。
 これが一念三千です。観念論ではない。何かにすがる、弱々しい生き方ではない。かといって、″我、尊し″と傲る利己主義でもない。自分の中の「大いなる生命力」を信ずることは、万人の中の「大いなる生命力」を信ずることと一体です。自分を大切にし、同じように、人を大切にしていくのが仏法です。
 斉藤 そういう仏法の真髄を行じてきたからこそ、SGI(創価学会インタナショナル)は全世界に広がったのですね。百二十八カ国で、法華経の精髄を人々が実践しているというのは、まさに仏教史の奇跡だと思います。
 池田 日蓮大聖人が、また牧口先生、戸田先生が、きっと満面の笑顔で喜んでくださっていることでしょう。
 遠藤 香港では七十カ国の友が集ってのSGI総会、そして百カ国による世界青年平和文化祭(一九九七年二月)。本当に「絢爛たる時代」をつくっていただいたと思います。
 この仏法興隆のエネルギーの根源は何か。今、池田先生が牧口先生、戸田先生のことを言われたように、広宣流布へと向かう「師弟の精神」があったからだと確信しています。
 斉藤 私もそう思います。反対にいうと、仏教が衰退していった時、そこには峻厳な「師弟の精神」がなくなっていたのではないかと思うのです。
2  なぜ仏教はインドで滅びたか
 池田 大切なテーマです。じつは「法華経」と「寿量品」の肝心要も師弟不二にある。それについては、少しずつ論じることにして、思い出すのは、インドのネルー初代首相の仏教論です。
 「なぜ仏教がインドで滅びてしまったのか」。これをアンドレ・マルロー氏(フランスの文学者)との対話で語ったという。
 マルロー氏とは私も対談集(『人間革命と人間の条件』。本全集第4巻収録)を出しましたが、″常に問い続ける″あの眼光が忘れられない。全身から巨大な″問い″を発散しているような迫力でした。求道者だった。また仏教に強い関心をもっておられた。ヨーロッパに将来、仏教を基盤とする新しい文明が生まれる可能性も否定できないと言っておられた。
 氏とネルー首相との対話については、ドイッでスピーチしたこともある。(本全集第84巻収録)
 ネルー首相によれば、「そもそも仏陀の天才は、あくまでも仏陀が人間であるという事実にもとづいていた。人類の生んだ最も深遠なる思想のひとつ、剛毅な精神、このうえなく崇高な惻隠(=慈愛)の情。さらには、神々にたいしてまっこうからこれと向きあった告訴者の態度」(アンドレ・マルロー『反回想録』竹本忠雄訳、新潮社)と。
 須田 神々に対する態度という点で言えば、その時のスピーチにもありますが、日蓮大聖人が八幡大菩薩を強い調子で叱ったり、諌暁された姿にも端的に示されていると思います。
 池田 そういうすばらしい「仏の人格」が人々の心をとらえた。しかし、釈尊の死後、「仏陀の神格化が行なわれたとたん、仏陀その人はこの神々と同列にくわえられ、姿を没してしまった」(同前)──これがネルー首相の洞察であった。
 斉藤 たしかにインドでは今、仏教は極めて少数の人しか信仰していません。釈尊も尊敬はされていますが、あくまでヒンドゥー教の「神々のひとり」と位置づけての尊敬のようです。問題は、釈尊を神格化したとたん、釈尊が示した「人間としての道」が消えてしまったということです。
 池田 そう。仏教は本来、「人生をどう生きるか」を教えている。人生の正しい「道」を歩まんとする人がいて、師を求め、師がその心に応じて、師弟の関係が生まれる。ところが、仏が人間ではなく″神様″になってしまったら、「師弟の道」は成り立たない。
 須田 自分も師匠と同じ道を行けば、師匠と同じ境涯になれる──というのが「師弟の道」の前提です。師匠が″神様″になってしまったら、「自分たちも同じ道を行こう」というエネルギーはなくなりますね。
 斉藤 小乗仏教においても、しだいに釈尊を神格化し、自分たちは声聞としての悟り(阿羅漢果)を得られればいいとしました。大乗仏教(法華経以外の権大乗教)においては、釈尊以外の阿弥陀仏とか大日如来とか毘盧遮那仏とかの諸仏が説かれます。
 しかし、これらは現実の人間とはかけ離れた存在であり、その「救済」にあずかろうとする面が強く、師匠と仰ぐ存在ではありません。
 どちらにも「師弟の道」がなくなっています。
 池田 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き方」から離れてしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏教の堕落であり、権威化です。
 遠藤 たしかに日顕宗を見ても、「人間の生き方」としての仏法など、皆無です。
 自分たちの堕落をごまかす「権威」として、仏法を利用しているだけです。まさに″法滅″です。
 斉藤 本来、日蓮大聖人が、そして釈尊が三障四魔と戦いながら、民衆の中へ中へと分け入って、正法を広宣流布された。その「同じ道」に続かなければ、仏法の生命は絶たれてしまう。「人間・釈尊でなくなったから仏教が滅びた」というネルー首相の慧眼は、さすがだと思います。
3  始成正覚を百八十度、転換
 池田 さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが込められているのです。ここでは、このことを少し考えてみよう。
 須田 「発迹顕本」がなぜ、「人間・釈尊に帰れ」なのでしょうか。
 釈尊が自分は「久遠以来の仏」であったと明かすわけですから、むしろ反対に、凡夫を離れた超越的な仏のような感じすらしますが……。
 遠藤 事実、古来、法華経の「久遠の仏」を超越神のようにとってきた傾向もありますね。しかし、法華経の真髄が、そんなものであるはずがありません。
 池田 まず発迹顕本の基本的な意味を確認してみよう。教学を真剣に勉強されている方々にも、よい復習になると思う。
 遠藤 はい。寿量品では、次のように説かれています。
 「一切世間の天、人、及び阿修羅は皆、『今の釈迦牟尼仏は釈迦族の宮城を出て、伽耶の市街から遠くないところを道場として坐して、阿耨多羅三藐三菩提、すなわち無上の覚りを得て仏となられた』と思っている。しかし、じつは私が成仏してから今に至るまで、無量無辺百千万億那由佗劫という、長遠の時が経っているのだ」(法華経四七七ページ、趣意)と。
 須田 釈尊は、十九歳で出家して、三十歳の時、伽耶城近くの菩提樹の下で成仏したとされています。
 年齢については諸説がありますが、今世において釈尊が始めて正覚(仏の悟り)を成じたという点については、共通しています。これを「始成正覚(始めて正覚を成ず)」と言います。法華経以前の爾前経および法華経迹門で説かれる釈尊は、いずれもこの「始成正覚」の仏という立場です。
 遠藤 それが寿量品では百八十度、変わります。今世で仏になったのではなく、五百塵点劫という久遠の昔から仏であった、と。
 久遠のはるか昔に成仏した釈尊は、「久遠実成の釈尊」として、「始成正覚の釈尊」と区別されます。久遠実成の釈尊は、久遠の本地を顕したという意味で「久遠の本仏」とされます。「本」とは、本地・本源・本体といった意味があります。
 これに対して、始成正覚の釈尊は、その久遠の本仏が衆生を救うために、衆生に応じて出現した「垂迹の仏」です。「迹」とは、本体に対する影(映像)であり、仮の姿という意味です。
 斉藤 いわゆる「迹仏」ですね。本仏と迹仏の関係は、「天の月」と「池の月」に譬えられています。実体の月と、池の水に映った月のような違いがある、と。
 須田 法華経の前半十四品を迹門、後半十四品を本門と立て分けるのも、この「迹仏」と「本仏」の違いに基づくものですね。
 池田 日蓮大聖人は、本門と迹門の違いについて「水火天地の違目」であるとされている。水と火、天と地ほども違う、と。「爾前経と法華経迹門との違い」よりも、はるかに大きな違いがあることを強調されています。それは、この発迹顕本があるからです。

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