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日蓮大聖人・池田大作

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従地涌出品(第十五章) 我、地涌の菩薩…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  ″地涌″とは民衆の「内発の力」を開拓
 須田 今年(一九九七年)は、池田先生の入信五十年です。この五十年の軌跡は、まさに「一人の人間革命」が社会を変え、日本を変え、世界を変えるうねりとなった証明の年月だと思います。
 遠藤 まさに、法華経の「本門」の真髄を見る思いです。現実の大地の上に展開された「生命変革のドラマ」です。
 斉藤 弟子として、私たちは感謝してもしきれません。弟子として、私たちも必ず続いてまいります。
 池田 烈風の五十年だった。激闘の五十年だった。戸田先生と二人で走り抜いた五十年だった。全部、原点は戸田先生です。戸田先生と一体で勝ったのです。
 戸田先生は言われた。「大革命をやるのだ。武力や権力でやる革命ではない。人間革命という無血革命をやるのだ。これが本当の革命なのだ」と。
 「貧乏人と病人の集まり」と言われた人たちとともに、民衆の民衆による民衆のための革命をやってきたのです。権力にもよらず、財力にもよらず、一人一人を「裕福になれ」「健康になれ」と抱きかかえながら──。
 今、世界で一千数百万の同志が、人間革命の黄金の軌道を歩んでいる。
 遠藤 「貧乏人と病人の集まり」と言われたことは、一番苦しんでいる人たちのところに創価学会が光を届けた証拠です。
 アジア太平洋人権情報センターの金東勲所長も、「貧乏人と病人の集まり」とは、人を救う宗教団体にとって「最高の称号」と言われています。
 斉藤 学会の運動が正しい証拠だとも言われていますね。
 須田 何か、イメージとして、地涌の菩薩が下方から、ぐーっと湧き出てくるのと、ぴったりする感じです。
 もちろん、この下方とは社会的に下方ということではなく、生命の根源であり、妙法ということですが……。
 斉藤 いや、その二つは別々のものではないでしょう。何も頼るものがない庶民だったからこそ、裸一貫というか、我が生命の力をふりしぼる以外に道はなかった。だからこそ、「命を変える」法華経の信仰の偉大さも早くわかった。そういうことではないでしょうか。
 池田 権威の鎧もない。学歴の盾もない。財力や地位の剣もない。ただ、我が生命の本然の力を出して戦う以外になかった。
 そして人間性と人間性で連帯する以外になかったのです。
2  学会は「菩薩の集団」
 遠藤 中国・深川(シェンチェン)大学の蘇東天そとうてん教授の講演を思い出します。
 香港SGI主催の文化講演会です。(「二十一世紀と仏教──池田SGI会長の仏法思想と二十一世紀文明」=一九九六年九月、香港文化会館で)
 教授は、欲望に翻弄される人類を憂えて、池田先生のような″良心的な知性″こそ、未来への光明であると訴えておられる。
 「とりわけ、特筆すべき偉大な功績は、その人格の周りに、多くの″菩薩の集団″をつくり上げたことではないでしょうか。日本の創価学会、香港SGIの皆さま方です」
 「(SGIは)これまでのさまざまな組織とは異なり、利害やイデオロギーによるつながりではなく、また法や契約などに基づくものでもない──強制的・外在的といった要素を一切排した、いわば、人と人の″心の絆″、″友情″だけがその礎となっている」と。
 池田 よく見てくださっている。全部、民衆自身の「自発の力」です。民衆の「内発の力」を開拓したのです。それが、すごいことなのです。学会の底力がそこにある。
 上からの権威などで、これほど多くの民衆が、これほど長く、生き生きと動くわけがない。これこそ、まさに法華経の「地涌」の義そのものの姿なのです。
 須田 そう言えば、地涌の菩薩は、「神」のように天上から降りてきたのではありません。大地の下から踊り出るように出現してきた。そこに、限りない民衆性が感じられてなりません。
3  「踊出」──踊り出る菩薩群
 遠藤 踊り出ると言えば、大聖人は「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」と仰せですね。
 法華経の写本では、同じ羅什訳でも、「涌出品」ではなく「踊出品」となっているものもあります。ほとんどの漢訳経典を収める『大正新脩しんしゅう大蔵経』にある法華経でもそうです。敦煌とんこうから出土した法華経にも「踊出」とあります。
 池田 なるほど。地涌出現のイメージとしては「踊出」は、ぴったりだね。妙法弘通の使命に奮い立って出現するわけだから。
 釈尊に言われて、しぶしぶ登場するのではない(笑い)。「さあ、自分たちの出番だ」と、待ってましたとばかり踊り出るのが地涌の菩薩です。
 斉藤 日蓮大聖人の御書の御真筆でも、何ヵ所か「地踊」「踊出」となっています。
 池田 「踊り出ていく」自発の信心でこそ、「永遠の幸福」がつかめる。
 戸田先生は信心の「大利益」を論じて、こう言われている。
 「成仏の境涯をいえば、いつも、いつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生れてきた使命のうえに思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわすことのできない福運をもってくる。このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万べんと、繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにない」(『戸田城聖全集第』3)
 信心の目的は、永遠の幸福です。今世は夢のようなものだ。その夢から醒めて、この一生で「永遠の幸福」を固めるための信心です。それを一生成仏という。だから今世を頑張りなさいと言うのです。そのためには、何が必要か。日蓮大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せです。大聖人と心を同じくして広宣流布へ戦う人こそ、真の地涌の菩薩なのです。
 広宣流布は「公転」です。人間革命は「自転」です。両者は一体です。
 学会は「仏の軍勢」です。ゆえに魔が襲うのは当然だ。「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」です。魔は、狩り出し、叩き出し、打ち破るものです。折伏精神です。
 「日蓮と同意」ならば、何も恐れるはずがない。牧口先生、戸田先生は戦時中、軍部の弾圧にも一歩も引かなかった。大聖人のご精神である師子王の心を、まっすぐに受け継いでおられた。
 遠藤 そこに宗門との決定的な分岐点がありました。宗門は「日蓮と同意」どころか、弾圧を恐れて、大聖人の精神を土足で踏みにじってしまった。

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