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日蓮大聖人・池田大作

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従地涌出品(第十五章) 動執生疑──境…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  勇者の総立ちで時代に動執生疑を
 斉藤 いよいよ、二十一世紀は目前です。私たちの語らいも本門に入ります。決意を一新して取り組んでまいります。
 池田 これからが本番です。広宣流布も。教学運動も。我らの底力を発揮するのも、これからです。これからが絢爛たる「本門の中の本門」の時代です。戦いを開始しよう。この座談会も、いよいよ力を入れたい。諸君とともに、私は、仏法の真髄を語りに語っておきたいのです。
 遠藤 迹門から本門ヘ──。そこには、劇的な転回があります。というのも、本門に入ると、それまでの″常識″が大きく覆されるからです。その象徴となっているのが地涌の菩薩ではないでしょうか。
 須田 地涌の菩薩が出現するや、虚空会にいた菩薩たちは、動揺の余り、疑いすら起こします。いわゆる″動執生疑″(執着を動じ疑いを生ず)です。
 池田 彼らの驚き。衝撃。疑問。それは、爾前・迹門の教えを信じてきたすべての仏教者の気持ちを代弁したものと言ってよい。
 動執生疑とは、それまでの信念が大きく揺らぐことです。いわば既成の世界観が根底から打ち破られるのです。人々が安住している価値観を、劇的に打ち壊すことによって、釈尊の本地──真実の境涯が説き明かされていく。
 須田 「哲学は驚きから始まる」と言った人がいます。またベルクソン(フランスの哲学者)も、「精神が(中略)驚きから驚きへと進む」(『哲学の方法』河野与一訳、岩波文庫)と書いています。その意味で″動執生疑″は、仏教思想の大転換を促す″大いなる問い″であったと言えるかもしれません。
 池田 それは深くとらえると、人類の生命観、人生観、世界観、社会観を一変させる精神革命なのです。この涌出品と寿量品(第十六章)に秘められている意義を掘り下げていくことは、岐路に立つ現代文明の病根に抜本的な治療を加えることになる。
2  無量の菩薩が大地から登場
 斉藤 では、経文の流れを見ていきたいと思います。
 須田 章のタイトルとなっている「従地涌出」とは、″釈尊の入滅後の正法の弘法者″が、大地の割れ目から涌いて出現したという意味です。地から涌出した菩薩なので地涌の菩薩と言います。
 池田 滅後とは、末法万年です。永遠性の未来ということです。はるかなる未来の果てまで、人類をどう救っていくのか。この大いなる責任感が、法華経には込められている。その責任と慈悲と智慧を体現しているのが、地涌の菩薩です。人類の境涯を高める偉大な救済者群像です。
 その先駆が私どもなのです。すごいことだ。すごい使命の人生です。
 遠藤 地涌の菩薩は、涌出品の冒頭に出現します。ここまで、法華経の法師品(第十章)から安楽行品(第十四章)にかけては、釈尊が滅後の弘教を誰に託すかが中心テーマでした。声聞たちは(未来に成仏すると)記別を受けたのにもかかわらず、大変な娑婆世界を避けて、他の国土での弘通を望んでいます(笑い)。それに対して、菩薩たちは、勧持品(第十三章)で「三類の強敵が出現しても耐え忍び、弘教に励みます」とまで誓願しています。誰の目にも、これらの菩薩に妙法流布のバトンが譲られるだろうと思わせておいて、迹門が終了します。
 須田 そこで涌出品の冒頭では、他方の菩薩たちが、釈尊滅後に娑婆世界で妙法を弘めることを誓います。十方世界、すなわち全宇宙から集ってきた最高峰の菩薩たちの誓願です。釈尊が彼らに付嘱するだろうと、誰もが思うような展開となっています。
 斉藤 ところが釈尊の本門の第一声は、誰もが予期していない言葉だった。「止みね善男子」(法華経四五一ページ)。あなたたちが法華経を護持する必要はない、と。
 その時、虚空会に衝撃が走ったのでは、と思わず想像してしまいます。心臓が止まるような思いというか、皆、釈尊の言葉に我が耳を疑ったことでしょう。ところが、それに続く釈尊の言葉はさらに皆を驚かせました。
 須田 ええ。釈尊は続けて語ります。「なぜならば、この娑婆世界に六万恒河沙の菩薩たちがいる。彼らが弘めてくれるからだ」と。その時です。娑婆世界の全国土が震裂し、そこから無量の地涌の菩薩たちが出現します。その姿は余りにも荘厳です。身は金色に輝き、三十二相(仏が具える三十二の理想的特徴)を具え、無量の光明を放っている。
 池田 劇的な場面だね。じつに、ドラマチックな登場です。大地が割れ、無数の菩薩が同時に出現する。しかも、一人一人が黄金の輝きを放っている。一切経のなかで、地涌の菩薩ほど絢爛たる菩薩はないでしょう。あらゆる仏国土から集まった迹化・他方の菩薩ですら驚嘆している。
 大聖人は、虚空会の大衆の中に地涌の菩薩が出現した姿を、あたかも″猿の群れの中に帝釈天が出現したようなもの″と譬えられている。経文にも地涌の菩薩がどれほど尊いかを説かれているね。
 須田 はい。それぞれの姿は「志念力堅固にして 常に智慧を勤求し 種種の妙法を説いて 其の心畏るる所無し」(法華経四六六ページ)、「善く菩薩の道を学して 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経四七一ページ)、「難問答に巧みにして 其の心畏るる所無く 忍辱の心決定し 端正にして威徳あり」(法華経四七二ページ)などと、描かれています。
 遠藤 まるで仏の姿そのものですね。
 斉藤 ある意味で、仏以上だったかもしれません。人々の目には、地涌の菩薩が人生経験の豊かな百歳の老人だとすれば、釈尊は二十五歳の若者に過ぎないと映ったほどですから。大聖人は、この地涌の菩薩の姿を、「巍巍堂堂として尊高なり、釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし」と仰せです。
 池田 大山のようにそびえ立って、すべての人々の拠り所となる真のリーダーということだね。
 須田 一人一人の菩薩は皆、大衆のリーダー(唱導の首)であり、それぞれ六万恒河沙の眷属(仲間)を率いています。あるいは、五万、四万、三万恒河沙から千、百、十人などの眷属を率いて出現します。
 一恒河沙は、インドのガンジス河の砂粒の数です。六万恒河沙はその六万倍の数ですから、到底、計算できません。スーパーコンピューターでも無理かもしれません(笑い)。
 遠藤 眷属とは、狭くは仏の親族を指しますが、広く言えば仏の教えを受ける者すべてを指します。
 池田 そう。地涌の菩薩の出現は、決して無秩序ではない。勢いよく、自由奔放でありながら、なおかつ整然たる行進の姿です。ある意味で、理想的な組織の姿とも言える。
 斉藤 創価学会の組織は仏勅の組織であるとよく言われますが、その意味を深くかみしめなければならないと思います。
 須田 地涌の菩薩たちは、まず宝塔の中にいる釈尊と多宝如来のもとに詣で、次に十方の世界から集ってきた無数の仏たちの所へ行って、それぞれの仏をさまざまな形で賛嘆します。無数の地涌の菩薩が無数の仏に挨拶するのですから時間がかかります。経文には「五十小劫」という長い長い時間がかかったが、釈尊の神通力で、会座の人々には「半日」のように思わせたとあります。
 遠藤 よほど充実した時間だったのでしょうね。退屈だったら一時間でも無限のように感じます(笑い)。
3  荘厳な師弟の姿に驚く
 池田 地涌の菩薩が最高の儀礼によって仏を賛嘆するのは、じつは師弟不二の「永遠の生命」を賛嘆しているのです。″永遠即今″の充実した一瞬一瞬を生きているのが仏です。地涌の菩薩も、本当は″永遠即今″を生きる仏です。「仏」と「仏」の出会いです。だから楽しいのです。だから五十小劫も長くはないのです。
 このあと、地涌の菩薩を代表して、四人の大リーダーたち──上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が釈尊と対話を始めるが、その話題は民衆救済という大目的についてだね。
 須田 はい。彼らは釈尊に合掌して、こう語りかけます。「世尊よ、少病少悩であり、安楽であられるでしょうか」と。
 斉藤 これは仏に挨拶する時の一種の決まり文句のようです。十方の諸仏が集まった時も、釈尊に同様の挨拶をしています。ただ、四菩薩は続けて、「いま救おうとされている者たちは、たやすく導くことができるでしょうか。世尊を疲れさせてはいないでしょうか」と尋ねています。
 池田 釈尊の身を心から案じている姿が表現されている。釈尊に甘え放題で、時には疑ったり文句を言ったりする声聞達たちとは態度がまったく違うようだね(笑い)。
 次元は違うが、私もいつも戸田先生のご健康を気にかけていた。会えば必ず、お疲れではないか、ご気分はどうか、それはそれは気を遣ったつもりです。そして、戸田先生はそれ以上に私の健康を気遣ってくださった。汗が出ている時など、「大、早くシャツを着替えなさい。カゼをひく」と言ってくださった。ありがたい師匠でした。
 地涌の菩薩と釈尊の会話では、お互いの心と心が通いあっている様子がうかがえる。一幅の名画のようだね。
 須田 ええ。釈尊は、「決して疲れてはいない。衆生を導くのは易しいことです。このもろもろの衆生は、過去世以来、私の化導を受けてきたのです。皆、私の教えを聞いて、仏の智慧に入ったのです」と答えます。大丈夫、心配するな、必ず皆を救ってみせるから──という大音声です。
 地涌の菩薩は釈尊をたたえます。「素暗らしいことです。偉大な英雄である世尊よ。私たちも随喜します」と。随喜の心を起こす地涌の菩薩たちを釈尊もまた、たたえています。

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