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日蓮大聖人・池田大作

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安楽行品(第十四章) 人類を絶対の「安…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 法華経探求の語らいも、いよいよ本門を目前にしてきました。今回は迹門十四品の最後、安楽行品です。
 須田 「安楽行」というと「楽な修行」「苦労のないこと」という響きを感じますが。
 池田 そういう修行があればいいんだが、そうはいかない(笑い)。日蓮大聖人は明確に仰せです。「今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり
 「難と戦うこと」が「安楽」であると。「難即安楽」。この悠々たる大境涯をつくるのが、安楽行品の根本です。
 天台大師は、安楽行の「安」とは「不動」、「楽」とは「心に憂悩うのう無き」ことだと言っている(『法華文句』)。何の苦労もないことが「安楽」なのではない。何があっても「揺るがない」。何があっても「憂いなく」生きていける。この境涯が「安楽」なのです。真の「幸福」です。
 そして結論から言えば、南無妙法蓮華経の一法を行じれば、どんな苦しみも全部、安楽へと変えられる。煩悩即菩提です。一生成仏です。歴劫修行の仏法から見れば、じつに簡単で「安楽」な修行です。苦労の少ない修行です。御本尊を持つことこそ、真の「安楽行品」だと言えるでしょう。
2  「行動できるなんて幸福だ」
 遠藤 学会の歴史は、まさに「難即安楽」の証明ですね。無名の庶民の死闘で築かれた創価学会です。その歴史を垣間見るたびに、厳粛な思いでいっぱいになります。この十一月(一九九六年)で、創立六十六周年を迎えます。
 斉藤 今年、入会満四十年になる、あるご夫妻の体験をうかがいしまた。
 ──入会(昭和三十一年)当時、想像を絶する貧乏のなか、「折伏をすれば幸せになれる」との一言を信じて、兄弟・親戚から、仏法を語っていった。皆、喜んで入会してくれると思っていたのに猛反対。一切の付き合いを絶たれてしまう。「自分のように貧乏で悩んでいる人、病気で悩んでいる人に、この仏法を教えてあげたい」。そう思って通った家でも、塩をまかれたり、風呂の水をかけられたりしたことは数しれない。
 人の家の物置小屋に、親子五人で間借りする生活。そこも、信心をしているというだけで追い出された。子どもに食べさせるのに精一杯だったためか、夜になると目が見えなくなった──。
 遠藤 栄養失調の症状のようですね。
 斉藤 こんなこともあったそうです。弘教の帰り、霧雨の中を、一人の子を背負い、もう一人の子の手を引いて歩いていた。親切なバスの運転手さんが、停留所でもないのに停めてくれた。でも、お金がないので乗れない。仕方なく、親子で一時間以上も歩いて帰った。題目を唱えながら、「いつかきっと、この道を、タクシーで来てみせるぞ」と。
 須田 せっかくの親切に応えきれない悔しさもあったかもしれませんね。
 斉藤 このようにして、ご夫婦で百世帯以上の弘教をされました。先輩は「大きな悩みがある人ほど、大きな功徳を受けられるのが妙法の信心だ」と教えてくれたそうです。どんなに苦しくても「信心」だけはやり抜いて、体も健康になっていきました。
 わずかの資金で始めた飲食業の商売も軌道に乗り始めます。功徳が感謝に、その感謝がさらに大きな功徳にと、発展を重ねてこられたのです。今では、店舗のほかに大きな工場もでき、全国に発送。三千六百軒の得意先から連日、注文が入ってくるそうです。ぜひ、支部の会場にと、広い家も建てられました。そこには、五、六十台も停められる駐車場があり、「三色旗」を掲げるポールまであるとか。
 遠藤 すばらしいですね。
 斉藤 ご夫妻が、しみじみ語られていたのは、「学会活動ほど楽しいものはない」とうことです。一時期、先輩から、経済闘争を優先させなさいと言われ、学会活動ができない時があった。「これほど、つらいことはなかった」と言っておられました。「広宣流布のために働ける。それが私たちの幸せそのものでした」と。
 お店をもっていることに目をつけて、悪い妨主が「脱会して、こっちに来ないか」と言い寄ってきた時も、ご夫妻は断固はね返しました。「結構です! 私たちは、どこまでも学会とともに、池田先生とともに進みます!」と。
 須田 本当に学会活動こそ「難即安楽」の軌道ですね。
 池田 そのご夫婦は、私もよく存じ上げています。私は、陰で学会に尽くしてくださった方々を絶対に忘れません。特別の著名人でもない、社会的に″偉い人″でもない。しかし自分自身が大変ななかで、広宣流布のため、同志のために、黙々と学会を支えてきてくださった。仏法の眼から見て、この無名の庶民ほど尊い方々は絶対にいないのです。私は、そういう方々を、草の根を分ける思いで探し出し、顕彰して差し上げたい。苦労に報いたい。それが私の本当の気持ちです。「学会員でよかった」「苦労してきてよかった」──そういう世界を広げたいのです。
 「難即安楽」と言っても、指導者に「全同志を必ず安楽の境地に導いてみせる」との一念がなければ観念論です。
 「学会に、全同志に、限りなき希望の道を開かせたまえ」と、私は若き日より祈り続けてきたのです。
3  智慧を使って不惜身命の弘法
 遠藤 安楽行品の概要ですが、主に説かれるのは、四安楽行といって、(1)身、(2)口、(3)意、(4)誓願の四つにわたる修行法です。これを、大聖人は「摂受」と位置づけられていますね。
 須田 ええ。像法時代の天台の修行は、安楽行品と普賢菩薩勧発品(第二十八章)に基づくものであり、「摂受」であるとされています。これに対して末法の大聖人の修行は、勧持品(第十三章)・不軽品(第二十章)に基づく「折伏」であるとされています。
 遠藤 末法に四安楽行を実践するのは「時を失う物怪もっけ」であるとも仰せです。末法は折伏の時代ですから。
 斉藤 そのうえで、国や民衆の状況に応じて、摂受と折伏のどちらを中心とするかを決めるべきであるとも教えられています。「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり」と仰せです。この摂受・折伏を、どうとらえるかということですが──。
 池田 まず大前提として末法において南無妙法蓮華経を説くことは、すべて「折伏」です。我が身を惜しまず妙法を語っていく折伏精神が根本であれば、相手の誤りを破折することも、また相手の考えを包容しながら真実を説くことも、両方あってよいのです。
 須田 折伏と摂受という言葉は、仏教だけの用語ではなく、古代インドの社会で広く使われていたそうです。折伏という言葉はパーリ語の「ニッガハ」(とがめる)、サンスクリット語の「アビバーハ」(力において勝っていること・相手を打ち負かすこと)の漢訳です。また摂受は、バーリ語の「パッガパ」の漢訳で、「手をさしのべる」「恵みを与える」という意味です。
 遠藤 どちらも人間の振る舞いや態度を指すものですね。
 池田 両方を使いきっていく″智慧″が大事です。法師品(第十章)のところでも語り合ったように、折伏とは「真実を言いきっていくこと」です。誠実に、まじめに、相手の幸せを願って仏法を語っていけば、すべて「折伏」になるのです。
 斉藤 言葉を荒らげて「強引に」語ることが折伏なのではありませんね。
 池田 相手が邪見に毒されて悪口している場合は、破折が表になるのは当然です。「破折」を忘れたら、大聖人の弟子ではない。悪への「破折」がなくなったら、創価学会の魂はありません。
 しかし、何も知らない人が相手であれば、当然、説き方は変わってくる。
 遠藤 仏法をまったく知らない人に、いきなり″念仏無間!″と叫んでも通じませんね(笑い)。たとえば海外では、その国の文化や生活に即して、わかりやすく語っていくのが当然です。
 斉藤 安楽行品の修行が、法華経弘教の初心者である菩薩たちが、無益な争いで法を下げたり、心を乱して成仏の道を踏みはずさないように″注意事項″を説いたものだと思います。
 池田 私どもで言えば、不惜身命で弘法をする場合にも、「絶対に、法を傷つけてはならない」ということです。「正法を惜しむがゆえに、よくよく智慧を使って弘教せよ」──これが安楽行品の心です。
 あらゆる人々に、どうしたら妙法の功徳を受けさせてあげられるか。安楽行品は、その一念を教えている。ゆえに、友の幸福を真剣に祈り、智慧を発揮して仏法を語っていく中に、安楽行品の心は全部生きてくるのです。日蓮大聖人も、不惜身命の折伏精神を門下に教えられるとともに、礼儀、尊敬、そして賢明な振る舞いの大切さを強調されています。
 遠藤 大聖人の仰せの通り、自在の智慧を発揮して、人々を救いきってきたのが学会です。不惜身命の真剣さが智慧を生んだといえます。
 斉藤 まさに″布教革命″ですね。日淳上人は、創価学会の出現によって「護持の時代」から「流通広布の時代」に入ったと、学会の時代即応の弘教を賛嘆されています。(『日淳上人全集』下)
 池田 安楽行品には、「妙法を実践する人が、恐れなく活躍することは師子王のようであり、その智慧の光明は太陽のようであろう」(「遊行するに畏れなきこと師子王の如く智慧の光明日の照らすが如くならん」(法華経四四七ページ)とある。
 広宣流布とは、太陽のように世界を照らす大智慧の宗教運動です。一人一人が智慧の光となり、その光が集まって、この地球をも発光させていく──。いわば壮大なる″境涯革命の芸術″です。具体的には平和・文化・教育の拡大です。
 斉藤 先日(一九九六年十月一日)、ブラジル・リオデジャネイロ州のドゥッケ・デ・カシアス市議会から、池田先生を「平和の英雄」とたたえる顕彰の証書が贈られました。その推挙の辞に、こうありました。
 「SGI会長は、平和を成し遂げることが可能であるということを教えてくれた″希望の光″です。創価学会よ、前進せよ。大きくなれ。この庶民の町カシアスの大地を光と希望で埋め尽くしていただきたい」。
 SGIの発展を、世界の人々が心から期待している。広宣流布してほしいと言っている。そういう時代に入ったのだなと感動しました。(この顕彰とともに、ブラジルSGIは、同市の「公益機関」に認定された)

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