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日蓮大聖人・池田大作

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勧持品(第十三章) 「弟子が師子吼」「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  池田 私が追求しているのは「本物の人間」です。「本物の人生」です。
 ミケランジェロの晩年の作品に「最後の審判」という大壁画がある(縦14・5メートル、横13メートル)。「ミケランジェロ展」では、その部分を模写した版画も展示されていた。
 (=同展は、東京富士美術館とイタリアのカーサ・ブオナローティ〈ミケランジェロの家〉の協力により、一九九六年四月から九月にかけて東京と京都で開催された)
 その絵図のなかに、ミケランジェロ自身もいる。その描き方が、すごい。″ぬけがら″です。皮一枚の姿で、無残に垂れ下がっている。「生皮をはがされて殉教した」という聖者の″生皮″が、彼の自画像になっている。
 なぜ自分だけ、そんなふうに描いたのか。さまざまな解釈ができるが、私はそれを見て、これこそ「本当に生ききった」人間だと思った。
 他の人物たちの肉体は完璧に描いている。生けるがごとき、その姿は、皆、ミケランジェロ自身が″与えた″ものです。与えて、与えて、彼は自分をすべて与えきった。″ぬけがら″になるまで与えきって死んだ。菩薩です。自分を与えるという不惜身命の魂魄を私は感じた。
 遠藤 実際のミケランジェロは「立派な体つき」「頑丈で骨太の体格」であったと伝記にはあります(A・コンディヴィ『ミケランジェロ伝』高田博厚訳、岩崎美術社)。それが、ここでは皮だけになっている……。深い意味を感じます。
 池田 人間そのものです。偉大な凡夫です。そこに偉さがある。
 次元は違うが、仏法の究極も「偉大なる凡夫」として生ききることにある。自分の命を与えきって死んでいく。法のため、人のため、社会のために、尽くして尽くし抜いて、ボロボロになって死んでいく。それが菩薩であり、仏である。
 「殉教」です。何ものも恐れず、正義を叫びきることです。人を救うために、命を使いきることです。この心なくして、「仏法」はない。この殉教の心を、法華経は「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」(法華経四二〇ページ)と説いている。それが、今回学ぶ勧持品の魂なのです。学会精神も、ここにある。この死身弘法の魂を忘れたら、本当の創価学会ではありません。
 斉藤 教学部も、その骨髄の精神を学びきってまいります。
 これまで語っていたいただいた宝塔品(第十一章)で、釈尊は仏の滅後に法華経を説くことが、どんなにむずかしいかを示しました。心して弘経を決意せよ、と(三箇さんか勅宣ちょくせん)。
 続く提婆品(第十二章)では、「悪人成仏」「女人成仏」という偉大な法華経の力を明しました(二箇の諫暁かんぎょう)。
 それを受けて菩薩たちが、どんな迫害があろうと、法華経を説ききってまいりますと誓う。これが勧持品です。
 須田 ″弟子の誓い″の品であると言えます。
 斉藤 その誓いのなかで、迫害の具体的な様相も示されていますね。
 須田 「三類の強敵」です。これまで、何度も学んできたところです。
 池田 なじみが深いだけに、大いに探究したいところです。勧持品は「三類の強敵」に焦点を当てて、論じていってはどうだろうか。
2  今いる「ここで」戦う
 遠藤 はい。初めに勧持品の″あらすじ″を見ておきたいと思います。宝塔品で釈尊は、弟子たちに語りました。「私が死んだ後、この娑婆世界で、誰か法華経を説くものはいないか。私はもう、この世に長くはいない。法華経の″バトン″を譲り渡したいのだ」「私の死後、法華経を持つのは、とてもむずかしいことだ。しかし、それでも持ち続けるならば、すべての仏が賛嘆するだろう。その人自身が仏だ。さあ、みんな、私が死んだ後に、だれがこの法華経を護るのか。今ここで、誓いの言葉を聞かせてくれないか」
 これを受けて勧持品では、最初に薬王菩薩と大楽説だいぎょうせつ菩薩が、仲間とともに誓います。
 「世尊どうか心配なさらないでください。仏が入滅された後、私たちが必ずこの法華経を持ち、説いていきますから。その時、人々は、善根が少なく慢心が多いために、なかなか教化できないでしょう。でも私たちは、勇敢に耐え忍び、身命を惜しまず、法華経を語り抜いてまいります」
 池田 「不惜身命」だね。弘教が困難な娑婆世界でこそ戦おう、と。
 遠藤 続いて、すでに成仏の保証を得た多くの弟子たちが、われもわれもと、次々に誓いを述べます。
 池田 ただ、彼らの誓いと、最初の菩薩たちの誓いとには決定的な違いがある。
 遠藤 はい。菩薩たちは、釈尊の教えの通り、「この娑婆世界で戦おう」と決意します。ところが他の弟子たちは「娑婆世界は人心が乱れていて、やりにくい。″他の国土″で頑張ります」と(笑い)。娑婆世界の衆生は欠点だらけで、慢心を懐き、徳が薄くて、怒りっぽく、心がひねくれ曲がっているから、と言うのです。
 池田 よくもそれだけ欠点を並べたね。でも、その通りだ(笑い)。
 遠藤 声聞たちは釈尊から授記されることによって菩薩の道に入りました。しかしまだ「新米の菩薩」だから、このような悪人ばかりがいる悪世の弘教には耐えらえれないのだ──と天台は解説しています。
 池田 「他土」へ行くとは、人間誰もがもっている「どこか別の楽な所に行って生きよう」「大変な所は避けよう」という逃避の一念を表していると言えるかもしれない。
 しかし、自分が今いる、「ここで」命を燃やしきっていくのが法華経の精神なのです。本有常住です。「ここを去つてかしこに行くには非ざるなり」です。
 斉藤 釈尊が教えてきたのは、「悪世の娑婆世界で法華経を弘めよ」ということでした。なのに菩薩以外の弟子たちは、自分が成仏できることを喜んだが、釈尊の本意には応えなかった。
 須田 釈尊は″がっかり″したでしょうね。
 池田 その時の思いを、日蓮大聖人は、こう書かれている。「どんなにか仏は、腹立たしく思われたことでしょう。そこで仏は脇を向いて、八十万億那由佗の諸菩薩を、つくづくご覧になったのです」(御書一四一九ページ、趣意)と。これは、この時に授記された女性たちが「他の国土で」弘教しますと言ったことを述べられたものです。
 須田 はい。釈尊の叔母にあたる摩訶波闍波提まかはじゃはだい比丘尼、釈尊が出家する前の妻であった耶輸陀羅やしゅだら比丘尼の二人と、その眷属の比丘尼たちに授記されています。
 斉藤 竜女の成仏が明かされても、″自分も成仏できるのだろうか″と、二人はまだ心配であったようです。釈尊は、その不安をただちに察知して、″あなた方も、菩薩の道を行ずれば、必ず仏に成れますよ″と告げたのです。
 池田 大聖人が「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす」と仰せのように、提婆達多品の竜女成仏は、竜女だけではなく、一切の女性の成仏を表している。竜女は、その代表であり、象徴です。
 ところが、代表の例を聞いて、「あ、自分も同じなんだ」と、ぱっとわかる人もいれば、ぴんとこない人もいる。だからこそ、具体的な一人一人への励ましが大事なのです。
 総論と各論の関係と言おうか。大勢を相手にした会合だけでは、全員が心の底から納得し、決意することはむずかしい。一人一人へのこまやかな配慮がどれほど重要か。むしろ、それが「主」です。学会もこの原則を貫いてきたがゆえに、今日の発展があるのです。
3  斉藤 摩訶波闍波提比丘尼と耶輸陀羅比丘尼の二人は、釈尊にとっては身内です。身内の人への授記が最後に行われたというのも意味があるように思えるのですが。釈尊の実子でである羅睺羅らごら(ラーフラ)、従兄弟である阿難(アーナンダ)も、十大弟子の中では、やはり最後に授記されています(授学無学人記品〈第九章〉)。
 池田 肉親に対する教化は、それだけ容易ではないということではないだろうか。むろん、釈尊にとっては一切衆生が平等です。血のつながった親族だからといって、特別扱いするわけではない。だから、かえってむずかしいとも言えるのです。
 しかし、最後は必ず成仏の道に入るのです。その原理を示しているととらえるべきでしょう。ゆえに、両親や夫や奥さんがなかなか入会しない、あるいは子どもが信心に立ち上がらないからといって、焦る必要はありません。
 大聖人も「この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん」──この功徳は、あなたの父母・祖父母、さらに無辺の衆生にも及んでいくでしょう──と仰せです。自分がしっかりしていれば、すでに道は開かれているのですから、安心していい。太陽はひとつ昇れば、全部を照らしていける。自分が一家・一族の太陽になればいいのです。
 斉藤 女人への授記が終わると、菩薩たちは、釈尊の前に進み、合掌します。そしてこう思う。「もし仏がわれわれに、法華経を持ち、弘めよとご命令になったら、仏の教え通りに、この法華経を弘めよう」。ところが仏は黙然としている。「仏は黙っておられる。何も命令してくださらない。われわれは、どうしたらいいんだ」
 須田 ここで菩薩たちは、心に決めるのですね。「仏の御心にお応えしよう」「自分の本来の願いに生きよう」と。そして声に出して誓います。「私たちは世尊が入滅された後、悪世の中で、十方世界に、この法華経を弘めてまいります」と。
 池田 十方世界への弘教とは、経文では「十方世界周旋往返しゅせんおうへんして」(法華経四一七ページ)とあるところだね。正法の弘通のためなら、どこへでも行こうという決心にあふれている。
 この地球の広宣流布も、「全世界を何度も何度も駆け巡る」行動があって、初めて現実に進む──この決心で私は、世界広布の道なき道を切り開いてきたつもりです。あとは、後に続く諸君がどうその道を広げていくかです。
 須田 はい。私も何度か海外に行かせていただきましたが、現地でSGI(創価学会インタナショナル)の発展を目の当たりにするたびに、″世界広宣流布″のうねりを実感しました。ここまで築くのにどれほど大変であったかと、心を揺さぶられました。
 遠藤 弟子たちの誓いの真剣さ、勢いを表すのが、有名な「師子吼をして」(同ページ)の経文です。大聖人は、こう仰せです。「師子吼」の「師」とは「師匠が授けるところの妙法」。「子」とは「弟子が受けるところの妙法」。そして「吼」とは「師と弟子がともに唱える音声」。
 池田 師弟不二の行動です。
 遠藤 「作」とは「おこす」と読みます。「師子吼をおこすとは、末法において、南無妙法蓮華経をおこすのである」(御書七四八ページ、趣意)と。
 池田 「おこす」とは「能動」です。だれかに言われて、やるのではない。「受け身」では師子吼にならない。だから釈尊は、黙って弟子を見つめたのです。師匠は吼えている。あとは、弟子が吼えるかどうかです。それを師匠は、じっと見つめて待っている。
 斉藤 梵本(サンスクリット本)では、勧持品の品名は「絶えざる努力」となっています(岩本裕訳、『法華経』岩波文庫)。これも弟子の誓いを表しています。
 須田 勧持品は、まさに″弟子の誓い″の章なのですね。

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