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日蓮大聖人・池田大作

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提婆達多品(第十二章) 悪人成仏――″…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 長い北・中米歴訪(一九九六年六月〜七月)、本当にお疲れになったことと思います。アメリカ、キューバ、コスタリカ。またバハマ、メキシコと「世界を結ぶ」ご行動は、まさに法華経の実践そのものだと感動しました。
 遠藤 体制や機構・文化など、あらゆる違いを違いとして尊重しながら、平等の「人間」対「人間」の次元で対話を促し、人々を結びつける。これが法華経ですね。
 須田 (法華経の中心の法理である)「諸法実相」も、「多様な諸法」の「平等な実相」を観じるということです。それを論じたり、口で説くことは簡単ですが、実行するとなると大変です。いわんや、それをグローバルなスケールで実行することは──。
 池田 感心してばかりいないで(笑い)、青年が後に続いてもらいたい。コスタリカのフィゲレス大統領の父君は軍備を撤廃した大統領として有名です。そのモットーは「限りなき闘争」だったという。若き日から、自分の農場にも、この言葉を掲げて前進したのです。いわんや、私どもは仏法者です。「仏法は勝負」です。「限りなき闘争」です。
 「善と悪」「法性と無明」「幸福と不幸」「平和と戦争」「建設と破壊」「調和と混乱」。それらの永遠の闘争が、人生と社会の実相です。否、宇宙の実相なのです。だから戦うしかない。だから勝つしかない。仏の別名は「勝者」と言うのです。
 斉藤 釈尊の一生も、絶え間なき大闘争の一生でした。仏教は、仏像などの印象の影響もあるのか、静かで平穏なイメージで受け止められていることが多いようです。しかし、実際には、釈尊の生涯は波瀾万丈であり、激烈な闘争の連続でした。
 池田 そうだね。その大闘争によって鍛え抜かれた「境涯」が、海が凪いだように静穏なのです。周囲が何を騒ごうとも、築き上げた精神世界は、だれ人にも乱されない。晴れやかな久遠元初の風光が、つねに燦然と輝いているのです。
 須田 そういう釈尊の大闘争のうち、最も有名なのが、提婆達多の反逆です。これは外からの迫害と違って、教団内部からの事件であり、それだけ深刻でした。反逆者が権力者・阿闍世王と結託して釈尊を亡きものにしようとしたのです。
 遠藤 提婆達多は、まさに「悪役」の代表ですね。「悪逆の提婆」と呼ばれ、悪いと言えば、こんなに悪い人間もいません。その「大悪党」が成仏するというのが、法華経の提婆達多品です。ある意味で、これほど不思議な法門はないかもしれません。
 斉藤 提婆品では、この「悪人成仏」とともに、竜女の成仏という「女人成仏」が説かれています。悪人も女人も、それまでの仏教では、仏に成れないとされてきました。いわば常識をくつがえす説法であり、一切衆生を成仏させるという、法華経の特長が劇的に表現されている品(章)といえます。
 須田 日本で古くから法華経が人々に親しまれてきた要因の一つにも、この提婆品があるようです。たとえば平安時代に、朝廷などで法華八講(法華経八巻を朝夕一巻ずつ四日間で講義する法会)の儀式が広く行われましたが、提婆品はとくに尊重され、提婆品がある第五巻の講義の日はとくに盛況であったといわれています。
 池田 大聖人は、その第五巻について「第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり」と仰せられている。もちろん重要な品は、他にたくさんあるけれども、大聖人が「一経第一の肝心」と言われたごとく、この品に即身成仏が説かれていることがポイントです。「あらゆる人を成仏させるのだ」というのが法華経の心です。人々にとって法門以上に切実なのは、自分が成仏できるかどうかということです。提婆品は、まさにその問題に端的に答えを示している。
 釈尊の殺害を図り、教団を分裂させた極悪人の提婆達多。また世間から差別されてきた女性であり、その上、畜生の身である竜女。この二人は当時の常識からすれば、成仏から最も遠いと考えられていた存在でしょう。その提婆と竜女でさえも成仏できると説くことは、この世で成仏できない存在はないということを示しています。
 提婆と竜女の成仏という具体例を通して、そのことが、観念ではなく実感として、人々に受け止められたといえるでしょう。提婆品が親しまれてきた理由も、そこにあるのではないだろうか。『源氏物語』の著者・紫式部も、提婆品の講義を聞いて、女人成仏の法理に触れた感激を、和歌などに記しています。
 斉藤 大聖人は、提婆達多と竜女の成仏を「二箇の諌暁」と言われています。二人の成仏を説き法華経の偉大さを示すことによって、釈尊滅後の法華経弘通を菩薩たちに勧め、諌めているということです。悪人と女人とは、要するに一切の凡夫ということになります。二人の成仏は、一切衆生を成仏させる「法華経の力」を示しています。その意味で、二人の成仏を説くことが法華経弘通の「勧め」であり、「諌め」となるわけです。
 遠藤 「一切衆生の成仏」については、理論的には、方便品を中心とする諸品で説き終わっています。したがって、提婆品は、法理的には「方便品の枝葉」であると大聖人は仰せです。
 池田 そう。しかし、それにもかかわらず、二人の成仏を説いたのは、強い啓発カがあるからでしょう。提婆達多は、釈尊に徹底して背いた男です。善に背くのが悪ですから、仏に背いた提婆達多は悪人の典型です。その成仏を説くのだから、インパクトは大きい。
 また、竜女の成仏は、女人の成仏であるとともに、「即身成仏」である点が重要です。つまり、凡夫の身を改めずに成仏できることを強く印象づけているのです。
 ここでは、そのうち前半の「悪人成仏」を論じてはどうだろうか。
2  嫉妬で身を滅ぼした提婆達多
 斉藤 はい。実際に提婆達多とはどういう人物だったのか、ということから入りたいと思います。
 この点については、池田先生が小説『新・人間革命』の「仏陀」の章でくわしく描いておられますので、ここでは概略にとどめたいと思います。
 須田 提婆達多については多くの伝承があり、生まれについても、釈尊の異母弟とするものや、従兄弟であるとするものなどがありますが、どちらかといえば従兄弟という伝承が多いようです。いずれにしても提婆達多は釈尊より若く、釈尊の成道十五年ごろに出家したと考えられています。
 初めは釈尊の弟子として真面目に修行に励み、才能もあったので、教団の中で次第に注目される存在になりました。しかし、後になると、後ろ盾を求めて阿闍世王に近づき、「釈尊に代わって教団全体を統率しよう」との野心を懐くようになったと、伝えられています。
 遠藤 御書に「八万宝蔵を胸に浮べ」ともあるように、秀才だったようですが、かえって、そのために慢心したのかもしれません。
 池田 知識は善人を一層善人にし、悪人を一層悪くするものです。
 彼の奥底の一念が、「信仰者」の一念ではなく、「野心家」の一念だったのではないだろうか。「信仰者」とは、「自分を支配しよう」とする人間です。「野心家」あるいは「権力者」とは、「他人を支配しよう」とする人間です。
 「信仰者」は、自分が動き、自分が苦労し、自分と戦う人間です。「権力者」は、人を動かし、人に苦労をさせ、自分を見つめない人間です。提婆達多は、慢心のためか、自分で自分を見つめられなくなってしまった。結局、信仰者としての軌道を踏み外してしまったのです。
 須田 晩年の釈尊に対し、提婆達多は教団の統率を自分に譲るように求めました。挙げた理由は釈尊の老齢です。釈尊が拒否しても、彼は三回も同じ要求を繰り返した、といいます。これらについては、多くの文献が一致しているので、ほぼ歴史的事実とされています。
 池田 どんなにもっともらしいことをいっても、結局、提婆達多にとって宗教も自分の野心のための手段だった。この時の言動によって、提婆達多の醜い一念は、はっきりする。
 斉藤 このとき、釈尊から「人のつばきを食う」(阿闍世王にとりいってその庇護を受けていたことを指す)と面罵された提婆達多は、反逆の心を固め、教団から去っていきます。そこですごいと思うのは、釈尊がただちに、提婆達多が今や悪心を懐いていることを、いち早く皆に伝えるよう弟子たちに命じていることです。
 池田 提婆達多にたぶらかされる人を一人も出してはならない、という責任感です。悪人は明確に悪人である、と示していかなければならない。中途半端な対応では、皆が迷ってしまう。また、戦いにはスピードが大事だ。優柔不断で決断しないのでは、その間に魔に食い破られてしまう。
 また、なぜ大勢の人間の前で叱ったかというと、そうしなければ皆が分らないからではないだろうか。提婆達多は、「皆の前で恥をかかされた」と思ったとされているが、そう感じること自体、もはや謙虚な「弟子」の心がなくなっていたことを示している。ちっぽけな自尊心のほうが、求道心よりも上回ってしまっていた。
 あるいは、釈尊が彼に、その前から、だれもいない所で注意を与えていたのかもしれない。それでも変わらなかったので、皆のいる所で叱ったのかもしれません。
3  須田 釈尊に敵対する心を固めた提婆達多は、その後、阿闍世王をそそのかし、父の頻婆娑羅王を殺害させて王位に就かせます。最も頻婆娑羅王のほうから、王位を阿闍世王に譲ったとの説もありますが。そして、阿闍世王の権力を使って刺客を放ったり、悪象をけしかけたり、最後はみずから大石を釈尊めがけて落とすなど、仏を亡きものにしようと、ありとあらゆる策謀を図りました。しかしそれらの企ては、全て失敗してしまいます。
 池田 仏の境涯は、どんな権力も策謀も侵すことはできない。そのことを提婆達多が雄弁に証明してくれたわけです。大聖人の場合も同じであった。鎌倉幕府の強大な権力をもってしても結局、大聖人一人を倒すことはできなかった。
 斉藤 提婆達多は、釈尊の教団の破壊も企てています。一方で、師匠を亡きものにしようとし、一方で弟子たちを切り崩そうとしたわけです。提婆達多は、戒律に目をつけました。彼は釈尊の教団よりもさらに厳しい戒律を主張し、その点で釈尊を上回ろうとしたのです。
 資料によって若干の違いはありますが、彼が主張した戒律とは次のようなものです。(『原始仏教の成立』、『中村元選集〔決定版〕』14、春秋社、参照)
 一、修行者は人里から離れた林のなかに居住すべし。もし、人里に入る者は罪となる。
 一、修行者は乞食行をなすべし。もし、食のもてなしを受けた者は罪となる。
 一、修行者はポロ布の衣を着るべし。もし、衣の布施を受けた者は罪となる。
 一、修行者は樹下に住み、屋根の下では暮らさぬこと。もし、屋根のある家に近づく者は罪となる。
 一、修行者は魚、鳥獣の肉を食べてはならない。もし、これを破れば罪となる。
 遠藤 当時のインドでは修行者が禁欲に努めることを尊ぶ気風があったので、この厳格な戒律を主張すれば、人々を自分に引き付けることができると考えたのでしょう。実際に、提婆達多の言い分にたぶらかされて、五百人もの仏弟子が、彼に従ったといわれます。もっともこの人たちも、後に舎利弗と目連から諭され、釈尊のもとに戻ってきます。
 提婆達多のもとに留まった者たちは、提婆を中心にして、独自で教団を作りました。提婆達多を覚者として崇拝する教団は、その後、千年ほどインド社会に存続した、ともいわれます。
 須田 たしかに、こうした厳しい戒律は聞こえがいいですね。いかにも高潔であってむしろ釈尊のほうが堕落しているかのように聞こえます。
 池田 事実、それがねらいだったのでしょう。悪人は、絶対に「自分は悪人です」という顔はしない(笑い)。悪知恵というか、奸智です。苦行者が多かった当時、釈尊の「中道」の生き方を「堕落だ」ということは、簡単だったでしょう。
 実際、釈尊は悟りを得る以前に、苦行主義の限界を見極めて、捨てています。その時、ともに修行していた五人の修行者から「堕落だ」と激しい非難を浴びている。
 釈尊の教団は、厳しいなかにも、中道の大らかさがあった。そうでなければ、多くの人を包容することはできないからです。多くの人を「善の軌道」に乗せて幸福へと導くために、仏道修行があり、戒律がある。それが戒律そのものが目的となっていたずらに人を苦しめるのでは本末転倒です。あれはだめ、これはだめという外からの規制によって人々を縛るような宗教は、民衆の心をとらえることはできないでしょう。いわんや、自分の見栄や策謀で、偽善的に清貧ぶったり高潔ぶるのは、宗教利用と言わざるを得ない。要は、提婆達多は「釈尊よりも自分が尊敬されたい」と熱望した。嫉妬です。そのために考えだしたのが、さきほどの五つのような戒律だったのではないだろうか。

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