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日蓮大聖人・池田大作

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見宝塔品(第十一章) 「我が身が宝塔」…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 先日(一九九六年四月二十四日)は、池田先生とチャペル博士(ハワイ大学宗教学部教授)との語らいに、私たち三人も同席させていただきました。ありがとうございました。ヴォロビヨヴァ博士(ロシア科学アカデミー東洋学研究所)の時もそうですが、先生の語らいには「法華経の智慧」を学ぶための大切な視点が、珠玉のごとくちりばめられています。
 須田 しかも、絶妙のユーモアを交えられての対話でしたので、三時間半が、あっという間でした。先生と博士は、お疲れになったと思いますが(笑い)。
 遠藤 博士を迎えた瞬間から、何ともいえない温かい雰囲気に、私たちも包まれました。「聖教新聞」に写真が出ていましたが、先生が、すかさず、博士の手荷物の紙袋を持ってさしあげたり……。じつはその中には、先生のために用意されたハワイの写真集や書籍が入っていました。後で博士が一点一点を紹介され、「重くてすみません」と言って手渡すと、先生は、お礼を言われながら「知ってます。さっき持ちましたから」と(爆笑)。
 池田 よく覚えてるねー(笑い)。もっとほかに、大事な話があったはずなんだが(大笑い)。
 チャペル博士は語っておられた。法華経に基づいた「対話」こそが、人類の未来を開くカギであると。法華経に基づく──というのは、あらゆる人を「宝の存在」として尊敬するということです。それが法華経であり、宝塔品です。その土台の上に、実りある「対話」もあるし、「友情」もある。「平和」もある。博士は「軍事力よりも強いのは、人間対人間の『友情』です」とも言われていました。
 斉藤 法華経といい、仏法といっても、決して遠いところにあるのではない。身近な現実の「振る舞い」にあるということですね。
 遠藤 ジョーゼフ・キャンベルというアメリカの神話学者も「思いやりこそ根本的な宗教経験であり、もしそれが欠けていたら、もはやなんにもない」(J・キャンベル、B・モイヤーズ『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房)と言っています。
 須田 そのことを、いつも先生が手本として示してくださっているのですが、われわれは「すごいなあ」と思うだけで……(笑い)。
 池田 仏法も身近にある。「いま・ここ」にある。現実の生活にあり、人生にあり、社会にある。それを離れた、どこかに何か深遠なものがあるように見せるのは、まやかしです。
 斉藤 はい。とくに、後世の僧侶が自分たちを権威づけるために、神秘めかして説いたという側面があります。
 遠藤 仏がわかりやすく説いたものを、あえて難しく説いたり(笑い)。
 池田 そう。これから学ぶ「見宝塔品」も古来、多くの解釈があった。それはそれとして、その時代に意味があった場合もあるが、日蓮大聖人は端的に、「宝塔とは我等が一身のことである」と仰せです。
 そして宝塔が出現するとは、母の胎内から生まれ出ることであるとして、「宝浄世界とは我等が母の胎内なり」、「出胎する処を涌現と云うなり」と述べられている。
 我が身が荘厳なる宝塔である──しかし、なかなか、その真実が見えない。それを見るのが「見宝塔」であり、それを見るための「鏡」が宝塔品の儀式なのです。また宝塔品の儀式を用いて建立された御本尊も「明鏡」です。
 身近なのです。現実なのです。この根本を押さえた上で、法華経の説法を見ていこう。
2  宝塔の出現
 遠藤 はい。見宝塔品は、その宝塔の出現から始まります(法華経三七二ページ)。巨大な宝塔が大地より突如として出現し、空中に浮かんで静止します。そして、その中から大音声が聞こえてきます。「すばらしい。すばらしい。よくぞ法華経を大衆のために説いてくださった。その通りです。その通りです。あなたが説かれたことは、すべて真実です」と。
 この賛嘆の声を聞いて、人々は大いに疑問をいだきます。「こんなことは、今までなかった。いったい、どういうわけで、宝塔が大地から現れ、その中から声が発せられたのだろう」
 釈尊は答えます。「この宝塔の中には、多宝如来という名前の仏様がおられる。この仏様は、かつて誓ったのです。『法華経が説かれるところがあれば、私の塔はその前に現れ、証明役となって、すばらしい、すばらしいと賛嘆しよう』と。だから今、法華経が説かれるこの場所に、多宝如来の塔が出現して賛嘆したのです」。
 須田 ここで、ある菩薩が「それなら、その仏様に会わせてください」と、食い下がった(笑い)。
 遠藤 ええ。しかし、それには条件があった。多宝如来が姿を見せるには、釈尊の分身として十方世界で説法している仏たちを、すべて、呼びもどさなくてはならない。
 仏たちが集まってこられるように、釈尊は、今いる娑婆世界を三回にわたって清め、広げて、一つの仏国土にします。これを「三変土田」といいます。仏たちが″集合完了″したところで、釈尊が宝塔を開くと、多宝如来が、荘厳な姿で座っています。
 須田 「おおー」と、人々のため息が聞こえてきそうな場面ですね。
 遠藤 多宝如来は、重ねて「すばらしい、すばらしい」と、釈尊の法華経説法をほめたたえます。そして、座っている場所を半分あけて、釈尊に、ここにお座りください、と。
 須田 こうして二人の仏が並んで座ったのが「二仏並坐」ですね。
 遠藤 この時、人々は、はるか高いところに二人の仏を見上げている格好でしたが、釈尊は、人々を、ぐーんと空中に引き上げます。ここからが「虚空会」です。
 そして釈尊は呼びかけます。「だれか、この娑婆世界で、広く法華経を説くものはいないか。私は、もう長くは生きていない。法華経のバトンを渡したいのだ」。そして「多宝の宝塔が現れ、十方の仏たちが集まったのは何のためか。それは、この妙法を、永遠に伝え弘めていくためなのだ」と。
 須田 「令法久住(法をして久しく住せしめん)」(法華経三八七ページ)ですね。
 遠藤 さらに、仏の滅後に法華経を持ち弘めることが、他の経典の場合にくらべて、いかに難しいか(六難九易)を説きながら、その困難をなしゆく大願をおこせ、その人こそ、無上の仏道を得ることができるのだと、誓願を勧めます。これが宝塔品のストーリーです。
 斉藤 やはり圧巻は、壮麗、壮大な宝塔の出現です。七宝すなわち金・銀・瑠璃・碼碯などの七種の宝玉でできている塔です。
 池田 大いなる塔が建つ──「虚空会の儀式」の劇的な始まりだね。
 大聖人は、「儀式ただ事ならず」と言われている。
 遠藤 本当に、ただ事ではありません。「宝塔の出現」「多宝如来の証明」「三変土田」「十方世界の分身諸仏の集合」「釈迦・多宝の二仏並坐」と、前代未聞のことが次々と起こります。
 須田 宝塔の大きさ自体も、ただ事ではありませんね。高さが五百由句、幅が二百五十由句という巨大なものです。
 由句とは、インドの距離の単位です。当時の帝王が一日に行軍する距離とされています。一説には、中国の四十里にあたると言われていますが、他にもいくつかの説があります。少なく見積もっても、五百由句は地球の(直径の)三分の一ほどになるのではないでしょうか。当時の人々には理解しがたい巨大さだったでしょう。
 池田 当時の人だけではないね(笑い)。宇宙的なスケールで考えないと、わからない。七宝でできているというのも並外れている。
 遠藤 その宝塔の中に多宝如来がいるわけですが、いったい、そんな巨大な宝塔のどこにいるのか。釈尊が右手で宝塔を開き、多宝如来と並び座る二仏並座なのですが、開けた扉が大きいのか、小さいのか、塔のどこにあったのか。よくわからないことが多いのです。
 池田 宝塔とは何かと、阿仏房が大聖人にお尋ねしたのも無理はない(笑い)。
3  斉藤 宝塔の形も、はっきりと説かれていません。″タテ長″だということは、わかりますが、直方体なのか、円筒なのか、円錐や角錐の形をしているのか、はたまたドーム型なのか、明確ではありません。
 池田 当時のインドの人ならイメージできたのかもしれないね。むしろ大事なのは、形よりも、人々にとって「塔」が何を象徴しているかということではないだろうか。
 須田 はい。インドの塔には、非常に豊かな象徴性があると言われています。
 「塔」は、サンスクリット語の「ストゥーパ」の漢訳です。この音をそのまま漢字で写したのが「卒塔婆」や「塔婆」です。
 この言葉は、古くは『ヴェーダ』にも現れ、″天と地をつなぐ軸″や″支柱の頂″などの意味を持っていたようです。ヴェーダには宇宙全体を樹木としてとらえ、その頂の部分をストゥーパと呼んでいる所があります。それが宇宙全体の象徴でもあったようです。
 池田 そういう文化的な背景があるとすれば、インドの人々は宝塔によって宇宙的なものをイメージしたかもしれないね。
 遠藤 「塔婆」も「宝塔」も「ストゥーパ」だというのが面白いですね。日顕宗は金もうけのために、塔婆を立てろ立てろとうるさかったが、我が身に宝塔は立てようとしなかった(笑い)。
 須田 また、ストゥーパの本体はドーム型のものが多いのですが、これは「卵」(アンダ)と呼ばれていました。形が似ているだけでなく、やはりヴェーダの創造神話に出てくる黄金の卵と関係があり、宇宙創造の原理の象徴であったようです。
 遠藤 古代インドの世界観で、世界の中心にあった須弥山とも関係があるようです。インドの人々は、ヒマラヤなど、美しくそびえる高峰を理想郷と見ていたようです。とくに水源であることが、大きい意味を持っていたようです。インドは干魃が多いですから。
 ストゥーパの様々な部分には、理想郷としての須弥山を象徴するものが多いそうです。また、仏典には、ストゥーパを須弥山と同一視する記述も多くあります。
 池田 ネパールで見たが、たしかにヒマラヤは荘厳であり、天と地をつなぐ宝塔の威厳があった。今までの話で共通しているのは、ストゥーパは、「宇宙の中心」「世界の中心」を象徴しているということだね。宇宙的なスケールを持つ法華経の宝塔も、そのような意義があると思う。
 宝塔品では、釈尊の分身諸仏を十方世界から集めるために三変土田がなされ、四百万億那由佗という膨大な数の国土が、一つの仏国土として統一されます。
 夜の闇に光明が灯ったような、輝かしき無数の仏の集合。無量の宝石と花々で飾られた瑠璃の大地。連なる宝樹の繁り。めくるめくような黄金の光景です。その中心に宝塔が位置することになる。
 宝塔は、大宇宙にそびえ立っている。大宇宙の宝を集めたかのような輝かしい姿です。その荘厳さで「あなた方の生命こそ宝の集まりなのだ」と教えているのです。その巨大さで「あなた方の生命は宇宙大なのだ」と教えているのです。

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