Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

法師品(第十章) 法師──民衆の中に生…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  須田 ラジブ・ガンジー元首相(インド)の写真展が好評ですね。
 (東京富士美術館で一九九六年五月十九日まで開催し、元首相撮影による二百点を展示。千葉〈六月〉、埼玉〈九月〉、翌九七年には岐阜〈六月〉、大阪〈七月〉、十月にインドで初の開催となった)
 遠藤 作品から伝わってくる、何ともいえない″あたたかさ″。とくに、旅先で出会った老人や子どもたちの写真を見ると、ラジブ首相が、インドの人々に、どれほど深い愛情を注いでおられたかがしのばれます。
 池田 ラジブ首相は、そのような庶民から贈られた、ささやかな手作りの品々を、宝物のように大切にされていた。
 貝細工とか、竹で編んだ籠とか……。それらを時折、懐かしそうに手にしておられたそうだ。
 「信念の指導者」であると同時に、どこまでも「真心」を大事にされる方であった。
 斉藤 ラジブ首相は、日本の国会で語られました。(一九八五年十一月二十九日)
 「釈尊の『慈悲』の精神こそ、人類生存の必要条件であります」と。この演説の直後に、池田先生はラジブ首相と会われたんですね。
 池田 そうです。お疲れだったはずなのに、穏やかな笑顔で迎えてくださった。
 握手を交わした瞬間、優しい表情の奥に、「命をかけている人間」の、巌のごとき強さを直感した。
 斉藤 母であるインディラ・ガンジー首相が暗殺されてから、まだ一年しか経っていない時でした。
 池田 そう。かつてインディラ首相は、「父・ネルーから受け継いだ最大のものは」との問いに、「インド国民への大いなる愛情です」と答えた。
 ラジブ首相に「母・インディラから受け継いだ最大のものは」と問うたなら、まったく同じように答えられただろう。
 ラジブ首相の心に燃え続けた「国民への愛情」は、爆弾テロ(九一年五月)によっても奪うことはできなかった。
 人間には「生死」を超えて果たすべき使命があると思う。そのために生き、そのために死んでいける使命を自覚した人生は、なんと崇高なことか。
 遠藤 忘れられないのは、池田先生が、ラジブ元首相の慰霊碑に花を捧げられた時のことです〈九二年二月〉。
 私もこの時、インドに同行させていただきましたが、先生は、このように署名されました。
 「偉大なる大指導者は悲劇的に見える時もあるが、それは永遠に民衆を覚醒するための 偉大にして壮大な劇なのである」
 須田 先生ご夫妻が、ソニア夫人を励まされた場面も、鮮明に心に残っています。
 「宿命を使命に変えてください」
 「むずかしいでしょうが、振りむかず、前へ、前へ──それが貴国インドが生んだ釈尊の教えです」
 掲載された「聖教新聞」(一九九四年十月十六日付)を何度も読みました。
 池田 宿命をも使命に変える。その力強い生き方を教えたのが法華経です。
 法師品は説いている。
 清浄な場所に生まれようと思えばできる大菩薩が、苦悩の民衆を救うために、あえて、願って悪世に生まれ、法華経を説くのだ、と。それが、今、この世に、妙法を弘めている私たちです。私たちは、壮大な″劇″を演じているのです。
 この法師品について、語り合っていこう。
2  法華経は「滅後のため」
 池田 ある意味で、これまでは助走にすぎなかった。法師品から、いよいよ「釈尊の遺言」である法華経のハイライト部分が始まるね。
 須田 はい。この法師品からの展開は、前章までと大きく異なっています。というのは、ここから釈尊は、自分が亡くなった後(滅後)のことを、説き始めるからです。
 池田 滅後の焦点は末法にある。何が正義で何が間違っているのか、わからなくなった時代に、人はどう生きるべきかという問題です。
 この座談会の初めに、現代を「哲学不在の時代」と位置づけたが、それでは具体的にだれが、軌道の見えない「闇の時代」に光を灯すのか。
 法師品では、その「人」を具体的に説いている。「法師」とは、現代的には「精神的指導者」といえよう。
 斉藤 この品の趣旨から言えば、法師という言葉には「法を師とする人」という意味と「師となって法を弘める人」という二重の意味があります。
 「法を師とする」のは、菩薩の「求道者」の側面です。「法を弘める師」とは、菩薩の「救済者」の側面です。
 池田 法師には、その両面がある。「求道」の面を忘れれば傲慢になるし、「救済」の面を忘れれば利己主義です。学びつつ人を救い、人を救うことで、また学ぶのです。
 「求道」即「救済」、「救済」即「求道」です。ここに人間としての無上の軌道がある。
 斉藤 「人間として」ですね。もはや在家・出家の区別などには意味がありません。法師品に、法師とは「在家出家の、法華経を読誦する者」(法華経三五八ページ)とあるように、在家・出家という区別を超えた存在です。
 日顕宗が「僧侶が上で信徒は下」などと主張していましたが、そのような差別主義は、法華経の文にも、まっこうから違背しているわけです。
 遠藤 法師は、みずから法華経を受持・読誦するとともに、人々に向かって法華経を説きます。法師の実践は、語りに語り、人々に法華経を聞かせることでした。
 池田 言論戦です。対話の戦いです。私たちの対話運動こそ、まさに法師品の心に合致している。
 釈尊の一生も、入滅のその日まで、人々に語り続けた一生でした。日蓮大聖人も、当時の日本人で、あれほど膨大な著述を残された人はいないといわれる。まさに書きに書き、語りに語り抜いていかれた。その尊いお振る舞いがあるからこそ、後世の人類は仏法を知ることができる。
 言論戦です。言論は、その時代はもちろん、後世をも照らしていく。
 私がスピーチを通して仏法を語り、世界の指導者と対話をしているのも「後世のため」という思いなのです。
 遠藤 これまで学んだ方便品(第二章)から人記品(第九章)までの八品は、「今いる弟子たちを、どう成仏させるか」が中心テーマでした。
 この説法の結果、すべての声聞の弟子たちが成仏の軌道に入りました。つまり、釈尊の直弟子の成仏を確定したのが人記品までの説法であり、その意味では「在世の衆生のため」の説法であったといえます。
 池田 たしかに、この八品を見る限りでは、そのようにも見える。しかし、法華経全体から見れば、八品もじつは「滅後の衆生のため」なのです。八品だけではない。法華経全体が「滅後のため」なのです。
 日蓮大聖人は、迹門(前半部分)は一応、在世の声聞のために説かれているが、一歩、深く見ると、本門(後半部分)と同様、滅後・末法の凡夫のために説かれたのだとされている(御書二四九ページ)。
 在世は短く、滅後は長い。在世の門下は少なく、滅後の衆生は無量です。「一切の人を救いたい」という仏の大慈悲は、必然的に、自分の死後を、どうするかということに焦点となっていく。
 この「仏の大慈悲」を一身に体して行動するのが法師です。「如来の使」です。
 遠藤 そこに法師品以降が大切であるゆえんがありますね。
 大聖人は、法師品から安楽行品(第十四章)までの五品は、その前の八品で明かした「一仏乗」の法を、末法の凡夫が、どのように修行すべきかを説いていると仰せです。
 (「方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し傍には菩薩凡夫の作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり」)
 池田 「末法の凡夫」とは大聖人のことであられる。総じては、大聖人に連なる門下のことです。
 大聖人は、御書の随所に、法師品など五品の経文を引用されている。法華経の中でも、法師品以降、滅後について説かれた個所の引用は圧倒的に多い。
 それは、ここに説かれた滅後の「法華経の行者」の姿が、そのまま日蓮大聖人のお振る舞いと一致しているからです。言い換えれば、法華経を身で読まれたのは大聖人お一人である、法華経は大聖人のために説かれたのである、という証明になっている。
 そして、仏を仏にした「根源の一法」である「南無妙法蓮華経」こそが法華経の真髄であり、末法のすべての衆生を救う大法であることを教えようとされたのです。
3  斉藤 それで、″法師には仏に対するのと同じ供養をすべきである″と法師品で説いているわけがわかります。
 この個所を梵本で見ると、法師について、より明確に「如来であるとみなされるべきである」「如来と等しい者である」と説かれています。
 須田 さらに、法師は、仏から派遣されて如来の仕事を行う「如来の使」であるとも説かれています。大聖人の御書で、しばしば引用されている重要な経文です。
 また、法師を一言でも誹謗する罪は、仏を一劫という長い間、面前で誹謗しつづける罪よりもさらに重い。逆に仏を一劫の間、無量の偈を持って賛嘆するよりも、法師を賛嘆する功徳のほうが勝るとも説かれます。
 池田 それは、ひとつには、仏よりも法こそが成仏の原因であり、大切だからです。法華経は、釈尊を含めて、あらゆる仏を仏たらしめた「根源の法」を説く経典です。その「本因」の法を説くのが末法の法師なのです。
 遠藤 法が能生(生まれさせるもの)、仏が所生(生まれるもの)という関係ですね。
 池田 大聖人は、この「法」のことを「慈悲の極理」だと言われている。
 (唱法華題目抄に「一切の諸仏・菩薩は我等が慈悲の父母此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ、諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠こんけつ等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕わさずとおぼしめせ法華経の一切経に勝れ候故は但此の事にはべ」)
 「慈悲の極理」──具体的には「南無妙法蓮華経」の法が含まれているからこそ、法華経は一切経に勝れているのです。あらゆる人々を救える慈悲の大法です。法師品には「法華最第一(法華最も第一なり)」(法華経三六二ページ)とある。
 遠藤 有名な「已今当」の経文も、そのことを示しているのですね。(「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」〈同前〉)
 斉藤 その意味では、「如来の使」とは「慈悲の使い」ということですね。
 法師は、法華経を受持・読・誦・解説・書写しながら(五種法師)、仏の大慈悲心を修行するわけですね。もちろん、末法は「受持即観心」で、御本尊を受け持つ修行に尽きるわけです。
 池田 仏の心を生きるのです。「すべての人を救いたい」「一切の衆生を仏に」という仏の誓願に生きるのです。それが「受持」等の五種の修行の根っこです。形式的に法華経という経巻を所持したり、読誦したり、解説することではない。仏の心を受け、仏の慈悲を生き抜くのです。
 これまでの声聞への授記といつても、所詮は、この「仏と同じ心」を声聞たちに思い起こさせるためにあった。そして、この心を、仏の滅後に実践する人が法師です。

1
1