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日蓮大聖人・池田大作

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授記品(第六章) 授記──万人を「絶対…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 学会の活動の基本は座談会です。この「法華経の智慧」の座談会も、全国・全世界の座談会で行われている座談会で、また語らいで、大いに活用していただけるよう頑張っていきたいと思います。
 池田 そうだね。さらに力を入れていこう。
 座談会は″大河″です。あらゆる活動は、その大河に注ぎこむ″支流″です。
 友好活動も各種会合も、すべて座談会という″大河″に合流して、″民衆の世紀の大海″へと進む。その大河の両岸には、広大な「人間文化の沃野」が開け、豊かな実りを結んでいく──。
 座談会にこそ学会の「心」がある。戸田先生は、よく語られた。
 「初代の会長は、自分が真っ先に行って、一人がくると、その一人の人とじつくり話し合う。二人目の人がくると二人と、三人くると三人と話しあって、実に懇切丁寧に教えてくださった」と。
 遠藤 真っ先に座談会場へ牧口先生は、座談会に全力を注がれたのですね。
 池田 そうです。戸田先生は、こうも言われている。
 「ただ一人でもいい。その一人の人に全力で法を説き、体験を語り、広布のこと、人生のことを心から話しあっていけばよいのだ。二人でもいい、御本尊の話をして、感激し合って帰る座談会にしてほしい。三人もくれば、″大勢″というべきである」。
 須田 ″たくさん集める″ことも大事ですが、来た人が「もう一度、来たい」「今度は、友だちと一緒に来たい」と、満足できる座談会をつくり上げていくことですね。
 池田 「号令」ではない、「心」です。「人と人」の語らいなのだから、「人」を大事にしなければ。その結果として、にぎやかで盛大な座談会が定着していくのです。
 「伝統の座談会」と呼ぶのも、″長年、続いている″からではない。座談会を根本に、一人一人を大事にしてきた、その「心」が、学会の伝統なのです。
 学会はつねに、無名にして健気なる「民衆」を、励まし抜いてきたのです。そこに座談会の″魂″がある。世間から見れば、人数も少ない、だれに注目されるのでもない。これほど地味な集いもないでしょう。
 しかし座談会には、大宇宙を貫く法を説ききった「哲学」がある。どんな人をも包みゆかんとする「潤い」がある。どんなに宿命に打ちひしがれていても、″もう一度、頑張ってみよう″と奮い立たせずにはおかない「希望」がある。
 遠藤 ″湯上がりの爽快さ″という感じでしょうか(笑い)。
 池田 そうなればすばらしいね。仕事をやり遂げ、汗をふきふき、青年が駆けつける。「今日は間に合った着いたとたん、安心してドツと眠気が襲うけど、そうはいかない(笑い)。
 「元気出しなさいよ。若いんだから」と、いつも優しく、声の大きい地区担さん(=現地区婦人部長)。本当は″若いから″眠いのだけれど(爆笑)。
 いぶし銀のような味わいある言葉で、信心の醍醐味を語ってくれる多宝会の方々。未来っ子たちは、少しぐらい騒いでも、かわいい(笑い)。
 「家内が、あんまり言うもんで」と久しぶりに登場した壮年部のお父さん。「そろそろ本気を出さんとね」と照れながら決意発表すると、大拍手のなか、奥さんが目を真っ赤にして笑ってる。
 笑いあり、涙あり、感動あり。決意と感謝の心が響き合い、悩みが勇気に、疲れが充実に変わる″庶民のオアシス″、それが学会の座談会です。
 この小さな集いに「人間共和の縮図」がある。「民主主義の実像」がある。「信仰と家庭と地域とを結ぶ広布の脈動」がある。尊い仏子を、大切な友を、幸せにせずにおくものかという「心」がある。その心が「法華経の心」なのです。
 遠藤 池田先生の世界広布の行動も、アメリカでの「ザダンカイ」から始まりました。小説『新・人間革命』に書いてくださっています。
 須田 私も『新・人間革命』を読んで、こう思いました。釈尊が、かつての修行仲間に初めて仏法を説いた場面(初転法輪)も「座談会」ではなかっただろうかと。
 参加者は、釈尊のほかに五人。この小さな小さな集いが、仏教史に燦たる″旭日″となつた。しかも、そこへ赴くために釈尊は、二百数十キロもの道のりを歩いたとされています。
 池田 仏の説法は「対話」であり、「座談会」に通じると言ってよいでしょう。
 そして釈尊の結論である法華経も、壮大な「座談会」です。人生を模索し、真摯に問いかける求道の人々。体験を通し、譬喩を駆使して、誠実に答えていく釈尊。そのやりとりを見て聴いて、ともに「境涯を開く喜び」に包まれる人々。その決意の発光、連動、感応の妙──。
 この「座談会」で釈尊は、どのようにして衆生の心に、妙法の″旭日″を昇らせていったのか。その大きな焦点となるのが「授記」です。授記品(第六章)について語り合っていこう。
2  ″受持即成仏″
 遠藤 「授記」とは、未来に必ず成仏できるという″保証の言葉″を釈尊から弟子に授けることです。
 授記品では、四大声聞、すなわち迦葉、須菩提、迦旃延、目犍連(目連)の四人の声聞に対して、釈尊から授記されていきます。先の舎利弗への授記に次いで、二回目の授記になります。また、これで、譬喩品(第三章)の「三車火宅の譬え」から始まった四大声聞に対する説法が、いちおう締めくくられることになります。
 斉藤 会員の皆さんから「成仏とは具体的にどういう状態なのか」と、よく質問を受けます。法華経の声聞への授記では、成仏は未来のことになります。一方、大聖人は一生成仏だと説かれている。であれば、この一生において、成仏とは、どういう状態をいうのであろうかという疑問です。
 池田 むずかしい問題であるが、端的に言えば、成仏とは、ひとつの「ゴール」に至ることというよりも、絶えず仏界を強め続けていく「無上道の軌道」に入ることなのです。
 法華経の迹門では、まだ歴劫修行の成仏観から出ていません。それで、「遠い未来に成仏する」という授記になる。しかし、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。仏が歩んだ「生命の軌道」「絶対的幸福へのレール」にたしかに乗ったよ、と保証するのが授記です。
 「色相荘厳の仏に成る」という爾前流門の成仏ではない。仏が歩んだのと同じ「軌道」を歩み続けること自体が成仏なのです。
 それでは、仏と同じ「軌道」を行くとは、具体的には、どういうことか。それは法華経を「受持」することです。
 法華経の受持とは、法華経に示された仏の心を自分の生命に刻んで、仏の心の通りに生きていくことです。何があっても仏の心から離れないように生きていくことです。だから仏道という「軌道」をはずれない。
 神力品(第二十一章)には「我が滅度の後に於いて応に斯の経を受持すべし是の人仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」(法華経五七八ページ)とあります。すなわち、法華経を「受持」する人が、「仏道」を間違いなく歩めるのです。そして、その人の成仏は疑いないと説かれている。
 斉藤 ″成仏とはどのような「状態」か″という問いそのものに、まだ爾前迹門の成仏観にとらわれている面がみられます。今の姿とは違う、何らかの″達成された状態″を想定している場合が多い。私たちは、どうしても「仏に成る」という表現から、そういう考え方になりがちです。
 池田 そうだね。大聖人は、成仏とは仏に「成る」のではなくて、我が身を仏と「成(ひら)く」、仏の生命を「成く」ことだと仰せです。
 戸田先生も「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟することである」(『戸田城聖全集』3)と言われています。
 授記品には、目連への授記のときに、「是の身を捨て已って(捨是身已)」(法華経二七〇ページ)という言葉が出てくる。目連が今の身を捨てて、未来世に多くの諸仏のもとで修行し、最終的には成仏するという趣旨の文です。
 大聖人は、この文について「是の身を捨てて仏に成るというのは爾前権教の意である。むしろ、そのような執情(とらわれ)を捨てることが、法華経のこの文の本意である」(御書七三一ページ、趣意)と言われている。そして、この「捨てる」というのは「ほどこす」と読むのだとされ、この身を捨てるとは「法界に五大を捨(ほどこ)す」ことであると仰せです(御書七三一ページ)。法界とは宇宙であり、世界であり、すべての衆生です。五大とは生命です。「法界に五大を捨(ほどこ)す」とは、わが生命を利他のためにほどこす「菩薩の行動」です。菩薩道を歩むこと自体が、成仏なのです。
 法華経では、本門(後半の十四品)で新しい成仏観が示されます。すなわち、寿量品(第十六章)で説かれた久遠実成の仏は、成仏してからも菩薩行をやめていません。″菩薩であることをやめて仏に成った″のではないのです。
 仏の実践、姿といっても、具体的には菩薩行なのです。成仏しても菩薩道という「軌道」を歩み続ける。それがすなわち「仏道」なのです。
 斉藤 寿量品の最後にも「どうすれば衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるのか」(法華経四九三ページ、趣意)との仏の願いが説かれています。
 「無上の道に入らせる」ことが、仏身を成就させる(成仏させる)ことであることがうかがえます。
 池田 やはり本門の眼で見ると、成仏とは「ゴール」とか特別な「状態」というよりも、「軌道」だということになるね。あえて、成仏以前と以後との「状態」の違いを言うとすれば、軌道が「定まっている」か、「定まっていない」かの違いと言えるのではないだろうか。
 「軌道が定まっている」というのは、自他ともの幸福を願う「心」が定まっているということです。その心でつねに前進しているということです。
 須田 自他ともの幸福、平和を願う心の軌道が、全世界に広がればすばらしいですね。
3  四大声聞への授記
 斉藤 「軌道が定まる」というお話がありましたが、これは「授記」という言葉の元意にも一致しています。
 遠藤 「記」という漢字は元来、″ものごとを立て分け、筋道を立てて表す″という意味です。漢訳の「授記」は、鳩摩羅什が使い始めた訳語で、それ以前は「記別」「授決」などといっていました。記別の「別」も″立て分けて区別する″という意味ですし、授決の「決」は″はっきりと立てわけて取り決める″ことです。
 須田 「授記」のサンスクリットの原語は「ヴィヤーカラナ」といいます。これには、「区別」「分析」「発展」などの意味があります。仏典では、″疑問に対して明確に答えること″という意味で用いられています。
 斉藤 要するに、授記の「記」というのは、明確に述べることです。明確に述べることによって、成仏への軌道を最後まで間違いなく歩ませるのです。信解とは″向上への志″であることは既に確認しましたが、その志を″生命の奥底に刻む″力が授記にはあるのでしょう。
 池田 そう。元来、授記とは、明快な答えを述べ、人々の心の疑いを解決することだね。
 リーダーはつねに「明快」でなければならない。あいまいは悪です。人々に不安を与えるからです。「確信を与える」のが「授記」のポイントです。
 斉藤 経典で述べられている「授記」「記別」の大半は、死後どのようになるのかに関するものです。死後や未来にどうなるかは、はっきりとはわからない。だからこそ「明快に語る」必要があったのではないでしょうか。
 天台も、授記とは「言葉を用いて弁える」ことだと述べています。
 池田 仏が「記を授ける(授記)」のは、その人自身に、成仏できることを″はっきり弁えさせる″ためです。自覚させ、確信させるのです。
 須田 授記品では、四人の声聞のうち、まず、迦葉に対して授記が行われます。その光景を見て、目連ら三人が自分たちも授記を受けたいと釈尊に願い出ます。釈尊は、須菩提、迦旃延、目連の順で授記を与えていきます。
 遠藤 目連ら三人が授記を願う場面では″大王膳の譬え″が述べられています(上記の経文を参照)。
 すなわち、授記を願う心境は、飢えた国からやって来て「大王の膳」つまり最高級の料理を目の前にしているようなものだ、と。食べたくて仕方がないけれども、王の許しがなければ安心して食べられない。
 同じように、「声聞も成仏できる」という一仏乗の教えを聞き、納得したけれども、仏から明確な授記を与えられなければ真の安心は得られないと言うのです。
 須田 ちなみに、三人の言葉の中で、釈尊が授記を与えることを「甘露をそそぐ」と譬えています。
 「甘露」は″不死″を意味する梵語「アムリタ」の訳で、天界にある″不老不死の妙薬″のことです。授記には、今世だけではなく、未来世にも及ぶ力があることが暗示されています。
 池田 生命の根底の不安を取り除き、絶対の安心を与える。授記には、こういう効果がある。授記という″仏の保証″によって、生命の根底に未来への深い確信が得られたのです。
 四大声聞が成仏するときの劫・国・名号を具体的にあげているのも、この確信を強めるためではないだろうか。
 斉藤 はい。「劫」すなわち成仏する時代の名前、「国」すなわち成仏する国土の名前、「名号」すなわち仏としての名前などが具体的に示されます。四大声聞への授記で言えば、次のようになります。
 ┌────┬───┬───┬─────────┐
 │弟子名 │ 劫 │ 国 │名号       │
 ├────┼───┼───┼─────────┤
 │迦葉  │大荘厳│光徳 │光明如来     │
 │須菩提 │有宝 │宝生 │名相如来     │
 │迦施延 │   │   │閻浮那提金光如来 │
 │目連  │喜満 │意楽 │多摩羅跋栴檀香如来│
 └────┴───┴───┴─────────┘
 釈尊は、弟子たちに威徳があるゆえに授記すると述べていますが、劫・国・名号には、弟子の長所・個性と何らかの関連があるように感じられます。

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