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薬草喩品(第五章) 個性を伸ばす「智慧…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 いよいよ、二十一世紀へ、あと五年です。
 池田 新世紀開幕の世界は、どうなっているか──こんな未来予想図を描いた子どもたちがいた。
 「今、二〇〇五年だとすると、地球は、半分は緑で、半分は真っ黒になっている。緑の世界では、子どもたちが遊んでいる。昼も夜も。眠る隙もないぐらい。真っ黒の世界は、空気も何もかも汚れていて、作物は何も育たない。そこではロボットたちが、遊べたらなあ、と思ってる。
 真っ黒の地球と緑の地球の間には壁があって、汚染が移るのを防いでいる。それは″正義の壁″と呼ばれているんだ。科学者たちが言っているよ……あと十年以内に、別の新しい壁を作らなくてはいけない。そうでなければ、つきに移り住むしかないって」
 「二〇〇五年になったら、私たちは戦争にあうの。そして政治家の人たちが変わってしまって、私たちの生活を思い通りにしようとする。この人と結婚しなさい、この仕事につきなさいと言ってくる。でもきっと、こうなるわ。男の人たちが家事や料理をするようになって、女の人たちは会社から家に帰ると、お気に入りの椅子でテレビを見るというふうに……」
 「みんなの心が優しくなるといいね……世界中から銃が消え、戦争がなくなるよ。それから火星人と友達になるんだ」
 じつは、これは十五年以上前、アメリカの十代前後の子どもたちがインタビューに答えて語ったものです。先日、エリーゼ・ボールディング女史が贈ってくださったご著作(″THE FUTURE(邦題・未来)″Sage Publications, 1995)に紹介されていた。亡くなられたご主人(ケネス・ボールディング博士)との共著です。
 遠藤 女史は、平和、教育、女性問題など幅広い研究で知られる世界的な学者ですね。ボストン二十一世紀センターによる「世界市民人道賞」の第一回受賞者です。(授賞式は一九九五年十一月)
 須田 ご主人のボールディング博士は、著名な経済学者で、「宇宙船・地球号」という考え方を提唱された平和研究の創始者の一人です。
 生前、奥様とともに、池田先生の「SGIの日」記念提言(一九九二年、「希望と共生のルネサンスを」)に、絶大な共感を送っておられたことを覚えています。
 斉藤 子どもたちの言葉には、″ほほえましい″というだけではすまされない、大人社会への警鐘が含まれている気がします。
 遠藤 そうですね。子どもたちは子どもたちなりに、地球の未来を考えています。むしろ、生命にとって何が善で何が悪かを素直に感じているから、大人たちが思いもよらない斬新な発想ができるのでしょう。
 池田 インタビューをしたエリーゼ女史は、かねてから、子どもたちは未来社会を建設しゆく「共同参加者」だと主張されている。子どもたちが望むように社会環境を整えていけば、子どもたちだけでなく、大人たちの生活も豊かになるはずだ、と。
 そして、こう強調されている。
 「私たちは、みずからの生命をコントロールしなくてはなりません。なぜなら私たちの中には、新しい現実を生みゆく″種″があって、その″種″は、私たちの生命が、真に私たちのものにならないと生長しないからです。その″種″から生まれるのは、喜びです。それは愛であり、正義であり、自由であり、平和であり、豊かさです」(前掲″THE FUTURE″)
 一人一人の生命にある″喜びの種″を開かせたいという心です。
 法華経は、すべての人々に、仏性という″無上の種″を開かせることを説いている。そういう「分け隔てない仏の慈悲」を、譬えによって描いたのが薬草喩品です。
 この薬草喩品を学んでいこう。
2  三草二木の譬え
 斉藤 はい。まず、薬草喩品の位置付けについて見ておきたいと思います。
 先の信解品(第四章)では、迦葉の四大声聞(迦葉・須菩提・迦旃延・目犍連〈目連〉)が釈尊の説法(譬喩品〈第三章〉の三車火宅の譬え)を理解したことを、「長者窮子の譬え」をもって示しました。
 薬草喩品では、それを聞いた釈尊が、「すばらしい。すばらしい。迦葉よ。巧みに如来の真実の功徳を説いた」(法華経二四〇ページ、趣旨)とたたえ、四大声聞の理解が正しいことを承認します。
 そのうえで、釈尊は「如来の功徳は、あなたたちがいかに説いても、説き尽くすことはできない」(法華経二四〇ページ、趣旨)と述べ、さらに「三草二木の譬え」を説くのです。
 言うなれば、薬草喩品は、弟子が領解した内容を仏が承認するとともに、さらに補って述べるという形をとっています。この説法を天台は「述成」と位置付けています。
 そして、これを受けて、次の授記品(第六章)では、四大声聞の一人一人に、未来に必ず成仏するとの「授記」が与えられるわけです。一人一人が、いつ(劫)、どこで(国)、何という名(名号)の如来に成るかが具体的に示されています。
 遠藤 「釈尊の説法→四大声聞の領解→釈尊の述成→四大声聞への授記」という順に展開されています。これは、先の方便品(第二章)の説法から始まる舎利弗の場合や、後の化城喩品(第七章)の説法から始まる富楼那等の場合も、同じ手順で授記に至っています。
 池田 この「師弟の交流」「師弟の一体」に成仏のカギがある。
 授記の意義については後に考察するとして、何のために「述成」があるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞たちが、「成仏に至る菩薩道に間違いなく入った」ことをはっきりさせるためです。
 遠藤 たしかに、薬草喩品の末尾には、「汝等が所行は是れ菩薩の道なり漸漸に修学して悉く当に成仏すべし」(法華経二五五ページ)とあります。
 斉藤 それが、後に一人一人の声聞に授記を与える「前提」になっているのですね。
 池田 そう。「間違いなく成仏への道に入った」ことが、法華経の一仏乗を信解した功徳なのです。その功徳をさらにくわしく説いたのが、薬草喩品の「三草二木の譬え」です。
3  須田 それでは、譬えのあらましを述べてみたいと思います。(法華経二四一ページ)
 ──三千大千世界(全宇宙)にある山や川、渓谷や大地に、多くの樹木や薬草が生えているとします。それらは、さまざまな種類があり、それぞれ名前や形も異なっています。
 譬えでは、このように多種多様の草木を、一応、上・中・下(大・中・小)の薬草と、大・小の樹木に立てわけています。それで「三草二木」と言います。
 そのようなところへ、厚い雲が空いっぱいに広がり、あまねく世界を覆い、雨となって降り注ぎます。そして、多くの樹木や薬草をあまねく潤します。雨は平等に降り注ぎますが、草木は、それぞれの性質にしたがって生長し、異なった花を咲かせ、異なった実が成ります。
 同じ大地に生育し、同じ雨に潤されても、多くの草木にはそれぞれ差別がある──と説れています。
 遠藤 厚い雲は「仏」を譬え、雲が起こって空を覆うのは「仏の出現」を譬えています。また、平等の雨とは「仏の説法」であり、「法雨」とも呼ばれています。種々の草木は「衆生」で、草木が雨を受けるのは「聞法」(法を聞くこと)です。
 そして、草木が生長し、花を咲かせ、実を成らせていくのは「修行」や「功徳」を譬えていると言えます。
 また、三草のうち「小の薬草」は人界・天界を譬え、「中の薬草」は声聞・縁覚を譬えています。「上の薬草」と、二木に当たる「小樹」と「大樹」は、いずれも成仏を目指す菩薩を譬えていると説かれています。
 須田 「上の薬草」「小樹」「大樹」はともに菩薩を譬えているわけですが、それをどう立てわけるかについては、古くからさまざまな解釈がなされています。たとえば天台は、「上の薬草」は蔵教の菩薩、「小樹」は通教の菩薩、「大樹」は別教の菩薩であると解釈しています。
 斉藤 雲から雨が「等しく」降り注ぐということは、如来の説法が「一相一味」であることを意味しているとされます。「一相一味」とは、究極的には、いかなる衆生をも等しく成仏させるという功徳があるということです。つまり「一仏乗」のことです。
 池田 しかし、それは仏の側から見た本質であって、衆生の側からは、この功徳はわからない。
 草木の性質や大小によって、受け止める雨の量や効用が違うように、仏はただ一仏乗を説いているのに、衆生の受け止め方が違うのです。衆生が受け止める教えがいわゆる「三乗」(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)です。
 須田 結局、三草二木の譬えも、前の二つの譬え(三車火宅と長者窮子)と同様、やはり「開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕す)」を表現しているわけです。
 つまり、一つには、仏がなぜ三乗などの教えを説いてきたかを明かしている。それは、仏の教えを受け止める衆生の能力・資質に種々の違いがあったために、それに合わせて種々の教えが説かれたということを示しているわけです。
 もう一つには、仏の教えはさまざまであるが、本質は一仏乗であり、雨のように一味平等であるということを明かしています。

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